いのちの写真と光の言葉
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不運
2015-08-16 Sun 09:01

次のようなコメントが届いた。

「自分の思ったようには生きれないこと多いです。
くじ引きといっても、あてずっぽうというのでもない。
前向きにこうしようと一応プランは練る・・・としても、
その通りになかなかいかない。
何とか、進むと横やりもある。
それを、不幸ととるか、おもしろいととるかってことはあっても、
自分の想いを押し通して生きるのは難しい。
まして、自分がしたくもない戦争に、自国が巻き込まれ、
空からやたらミサイルが落ちてくる状況にいて、
自分の人生を如何にクリエイトできるでしょう?
そういう、ついていないというか、不運というか、
どうしようもない状態ってあると思う。
この人生は、こうであったが、
次なる世界でも、周りに翻弄されざるを得ないのが続くのは
救いがないとやはり思うのです。」

「自分の想いを押し通して生きるのは難しい」

押し通すことはない。
自分の思い通りに生きればいいだけ。
素直で真っ直ぐならば、自分の思い通りの人生が展開する。
でも、ほとんどの人は素直でも真っ直ぐでもない。
思いが複雑に錯綜している。
だから、自分の思ったとおりの人生にならない。
ただ、それだけのこと。

多くの人は、人生は自分の思い通りにはならないものと諦めている。
まさに徳川家康の心境になっている。
人生は重き荷を負うて生きるがごとし・・・
そう思い込んでいれば、思い込んだ通りの人生になる。
人生は望み通りになると思えば、そのようになる。
そのようになるしかない。

実際には、過去の思いが現実に反映してくるので、タイムラグがある。
しかし、最終的には思った通りの人生になる。
なるしかないのだ。
思いが現実を創る。
それ以外に現実を創り出す要素はないのだから。
それが大原則なのだ。

先入観や偏見を捨てること。
人生は思った通りにはいかないという思い込みを手放すこと。
そうすれば、現実が変わる。
人生を自分の望むようにクリエイトできるようになる。

自分の人生を自分の手に取り戻そう。
自分の人生を訳のわからないものに支配させるのはやめよう。
しっかりと、はっきりと、自分の人生は自分が決めると決心する。
そうすれば、自分の人生になる。
それまでは、あなたまかせの運命に翻弄される人生だ。
それでは自分の人生であって、自分の人生ではない。
それも悪くはない。
自分でそれを選ぶのならば、何も言うことはない。
ただ、身の不幸を他の人や世間のせいにしていたのでは、
一生浮かばれることはない。
死んだ後も、浮かばれない。
浮かばれないのに、浮遊霊になってフワフワと浮いている、この不思議?

「まして、自分がしたくもない戦争に、自国が巻き込まれ、
空からやたらミサイルが落ちてくる状況にいて、自分の人生を
如何にクリエイトできるでしょう?」

そんなことを言ったら、戦争を止めることも、平和を実現することもできない。
何もできずに運命に翻弄されるだけ?
それだったら、確かに不運としか言いようがない。
どのような状況であれ、それを身の不運と嘆いた途端、
自分の人生を放棄したようなものだ。
「不運」というのは、自分のせいではないと宣言しているようなもの。
今の自分の状況は、何かのせいなのだ。
そう言った途端、自分の運命は自分の手から他人の手に渡ってしまう。
身の不運を嘆いている限り、幸せになることはできない。
それは自分の人生を自分でクリエイトできる権利を放棄したようなものだから。
自分の人生を他人のせいにしている限り、自分の思うような人生はやってこない。
それは自分の人生を他人に任せているようなものだ。

都合の悪いことは、みんな他人のせいにすることによって自己正当化する。
惨めな自分を認めたくないので、みんな世間のせいにする。
でも、それは一時しのぎに過ぎない。
結局、最終的には自分が更に惨めになるだけだ。
その状況から反転する機会を先に延ばすだけのこと。
惨めな時は、惨めなままでいるがいい。
そうすれば、陰極まれば陽となる。
すべては反転する。
しかし、すべて他人のせいにして自己保存を計っていたら、
反転する機会をみすみす逃してしまう。

事実をただありのまま受け止める。
誰のせいにも、何のせいにもしない。
ただ事実と共にいて、自分の生きる道を見極める。
自分の望む現実にシフトする。

人のせいや世間のせいにすることは、目の前の事実から目を背けることだ。
運命のせいにすることは、人生を切り開く努力を放棄することだ。
不可抗力と諦めることは、自分の無限の可能性を封じることだ。
どのような状況にあっても、冷静に自分の道を切り開く。
慌てなければ、自分を見失わなければ、道は必ず開く。
どうにもならないということはない。
それは、どうにもならないと思い込んでいるだけのこと。
最後の最後まで、ギリギリまで道を求めれば、道は必ず開く。

求める行為そのものが道を開く。
求めるという行為そのものに道が伴っているのだ。
求めることは同時に道が開くことでもある。
それは同時に存在するものなのだ。
求める行為だけが存在するということはない。
求めると同時に道も存在する。
陰だけがあることはない。
陰があるところには必ず陽がある。
陰陽で一組なのだ。

冷静であること。
自分を見失わないこと。
それさえ忘れなければ、必ず道は開く。
道が開くのではなくて、自分が道を開くのだ。
自分のエネルギーによって、自然に道が開くのだ。

諦めたら、そこですべてが終わる。
他人のせいにしたら、すべてがそこでストップする。
自分で道を開く可能性が消えてしまう。
冷静に、クリアーに・・・
見えない道は目の前にある。

「この人生は、こうであったが、次なる世界でも、周りに翻弄されざるを
得ないのが続くのは救いがないとやはり思うのです。」

周りに翻弄されざるを得ない?
翻弄されると思っている限り、翻弄されるだろう。
翻弄されるのを拒否し、自らの人生を歩む。
そう決意するまでは、翻弄人生が続く。
翻弄されて翻弄されて、浮き草のような人生を歩むといい。
そうしたければ、それも可能だ。
しかし、それは世間のせいでも不可抗力でもなく、自分が選んだ人生。
だから、それを変えることもできる。

世間のせいであり不可抗力であると認定すれば、
その途端、浮き草人生となる。
今生だけではなく、何回生まれ変わっても変わらない。
自分の思い込みが変わらない限り、翻弄人生が変わることはない。
運命であり宿命であると思っている限り、同じことの繰り返し。
無限に生まれ変わっても、無限に同じことの繰り返し。
それでは確かに救いようがないかもしれない。
しかし、真に救いようがないのは、救いがないと思い込んでいる心の方だ。
心が変われば救われる。
心が変わらない限り救われることはない。

周りに翻弄されるとか、誰か他人のせいとか、
世間や運命のせいにしている限り、被害者をやっていることになる。
被害者をやっている限り、幸せになることは絶対にあり得ない。
それはほとんど自虐的な行為だ。
自分を弱者にすることによって、自分を正当化する。
今の状況を他人のせいにすることによって、自己の責任を免れる。
単なる自己正当化ゲームなのだ。
自分のせいにしたくないので、他人のせいにしているだけ。
自分の人生に自分で責任を取らない限り、人生は変わらない。
人のせいにしている限り、周りに翻弄されるだけだ。

また次のような質問もあった。

「宇宙の元の元にひとつになるのに覚悟とか、やっぱりいるのですか?
そういうものだって、わかるだけでいいってわけにはいかないんですか?」

真にわかれば、覚悟はいらない。
真にわかれば、人生が変わる。
ただ、そのプロセスの中で、独り立つ時に覚悟みたいなものが
必要になる時があるかもしれない。
何にも依存しないで、独りあることができるだろうか。
森羅万象の中で、森羅万象を忘れ、独りあることができるだろうか。
もしそれができるならば、覚悟はいらない。
何もいらない。
既に、そこにはすべてがある。

宇宙の中で独りある時、宇宙がひとつになる。





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主体
2015-07-10 Fri 18:46
次のようなコメントがあった。

「私、『今に生きる』を実践してるかも。
ナチュラルヒーリングのコメントで、また朝陽と夕陽を間違えた。
以前、おんなじマチガイをして、朝陽には輝きがある!って気付いたのに・・・
性懲りもなく、『輝いてる夕陽ですね!』なんてシャアシャアと書いてしまった。
これって、過去に囚われていない証では?
・・・・単に物忘れがひどいだけか。

やっぱり今だけにフォーカスしているだけでなく、後頭部に意識を置いて持ち駒も活用できなきゃ日々の体験に意味がないかな。
今に生きてても、顔に意識があるだけでは、過去に囚われてるのとドッコイドッコイって事でしょうか?」

たいした間違いでもないし、冗談半分のコメントだが、重要なポイントも含まれている。
今に生きるということは、過去を忘れるということだろうか。
しかし、過去を完全に忘れてしまえば、今に新鮮に出会えるけれども、同じ過ちを犯すことにもなりかねない。
過去は記憶しておくべきか、それとも、完全に忘れるべきか・・・

記憶しておかねば困ることもある。
電車やバスの乗り方は記憶していないと、その都度聞かなければならない。
お金の価値や使い方も記憶しておく必要がある。
それ以外にも、ガスや水道や電気の使い方。
時計や信号の見方、文字や車の運転・・・
パソコンの使い方も記憶していないと、日記を読むことさえできなくなる。
そういう意味では、記憶は必要ということになる。
いくらコンピューターが発達しても、ある程度の記憶は自分の中にキープしておく必要がある。
記憶なしでは生活できないと言っても過言ではない。

では、何でもかんでも記憶していればいいかというと、そうとも言えない。
過去の忌まわしい記憶を、いつまでも大事に持っていても仕方がない。
屈辱の記憶も栄光の記憶も今を生きるのを妨げる。
悲しみの記憶をいつまでも持ち続けていれば、幸せな人生にはならない。

要は、事実としての記憶は問題ないが、自分の感情や思い込みが付加された記憶は人生の障害になり得る。
評価され、解釈され、自我となった記憶はトラブルの元になる。
それは自我の価値観を通過した記憶ということだろうか。
事実を事実として記憶されたものは、特に問題はない。
しかし、自我を通って記憶となったものは、今に白紙の状態で出会うことを妨げる。

今を生きるためには記憶がいる。
しかし、記憶に支配されてはいけない。
過去の恐怖に支配されて、今を恐れても何の意味もない。
事実を直視することを忘れ、事実を過去の目を通して見て恐れおののく。
事実だけを見ればいい。
恐れる必要はない。

記憶されているものは似たような状況の時に思い出される。
電車の切符を買う時には、それが役に立つ。
その時は記憶は有効に機能する。
ところが、過去に失敗したり、深く傷ついたり、事故に遭ったりすると、似たような状況になった時に、それが連想されて心が動揺し、同じような失敗を繰り返したりすることもある。
その場合は、記憶は人生の妨害要因になる。
また、以前に会った時にイヤな印象を持つと、次に会った時も以前の記憶で見てしまう。
それは先入観や偏見となり、今の事実をありのままに見ることを妨げる。

記憶は役に立つ場合もあれば、逆の場合もある。
役に立つ記憶は保持しながら、役に立たない記憶には縛られないことは可能だろうか。
本当はホームワークにしたいところだけれども、現在も一つ進行中なので、やめておくことにする。

記憶に支配されない。
記憶の虜(とりこ)にならない。
記憶は生かして使う。
記憶は必要なツール。
でも、記憶に振り回されない。
それは過去のデーター。
単なるデーター集。
そんなものに振り回されても仕方がない。
自分の主体性をしっかりと持つ。
記憶に支配されないと明確に決める。

自分の意識の中の一部に記憶の領域を保持する。
しかし、記憶に意識のすべてを明け渡さない。
正確に言うと、記憶を元にした思考に自分の意識を奪われない。
思考の独り歩きをストップさせる。
思考の暴走を許さない。
しっかりと記憶と思考の役割を理解する。

記憶も思考も生きるには必要なもの。
しかし、それらがすべてではない。
それは意識の中の一部。
自分の主体を思考に置かない。
思考を超えた意識の主体を確立する。
思考や記憶は意識の一部に留める。

大きな主体が小さな思考や記憶を包み込む。
まるで同心球のように。
大きな意識が小さな思考や記憶を見守る。
思考や記憶を超えなければ、思考や記憶に使われる。
主体であるべき意識が、従体になってしまう。

しっかりしないと、妄想の中で自分を見失う。
意識をクリアーに保つ。
それには、まず自分自身の意識の動きを見守る必要がある。
自分自身を理解しないことには、思考や記憶から自由になることはできない。
なぜなら、「私」=自我とは思考や記憶に他ならないから。
それが今の意識の主体になっているものだから。

思考や記憶中心の主体から、それらを超えた主体に切り替わる必要がある。
そうならない限り、いつまでも思考や記憶に振り回される。
自由はどこにもない。

自分自身を見守ることによって、思考や記憶に支配されない主体が芽生える。
見守る意識が育つ。
それは思考や記憶の次元を超えている。
主体が思考や記憶の次元からシフトする時、時代が変わる。
戦争と悲惨の歴史が終わる。
ハートベースの真の平和の時代が来る。

それは一人一人の生き方にかかっている。
メシアは現れない。
一人一人がメシアになるしかない。
一人一人が自分自身から自由になるしかない。
自分を縛っているものは、自分以外にはいない。
自分を縛っているものは、思考と記憶が編み上げた思い込みという縄。
それが自分をガンジガラメにしているだけ。
まさに自縄自縛(じじょうじばく)。

その縄を解(ほど)くには、自分自身を理解するしかない。
思考と記憶が中心になった自分という意識を深くわかるしかない。
思い込みワールドでもがいている自分を深く深く理解する。
それらが真に理解され、思考や記憶から自由になった時、新しい時代が始まる。
今とは違う主体が確立する時、まったく異なる人生が展開する。
それがこれからの楽しみ。

記憶は意識のほんの小さな部分。
思考も意識の一部。
それらは必要に応じて活用するもの。
間違っても使われるようなことがあってはならない。
思考や記憶の奴隷になるのではなく、それらを使いこなす主体になる必要がある。

それらを否定せず、それらを大きく包み込み、見守りながら生きる。
必要に応じて使う。
必要以上に使わない。
けっしてそれらに支配されない。
それらを超えた主体性を確立する。




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解き放つだけ
2015-04-23 Thu 08:54

次のようなコメントが届いた。

「何もしない事が...それがどうしてもできない。
見極めているつもりでも実は『思考』が働いています。
瞑想していても『思考』しているようです。
いったいどうしたら『思考』をコントロールできるのでしょうね?」

思考をコントロールすることはできない。
なぜなら、コントロールしようとしているのも、また思考だから。
それでは思考の堂々巡りになってしまう。

思考のコントロールは諦めるしかないだろう。
思考が動いている間は、動いているままにしておくしかない。
もし、思考を無理に止めようとすれば、必ず反動が起きる。
無理に抑圧すれば、潜在意識の中に歪んだ形で蓄積される。
それはかえって意識のクリーン化を難しくしてしまう。
抑圧し続ければ、無気力になるか、気が狂うか・・・
いずれにしても、よいことはない。

思考は使うこと。
そして、マスターすること。
そして、囚われないこと。
抑圧しても、思考力が減退するだけ。
抑えない、けれども負けない、理解するだけ。
感情を扱うのと同じ原理原則。

自分の中に、たくさんのこだわりや囚われや執着がある間は、いろんな反応が起きてくる。
思考が自動的に反応する。
まずは、それを認めるしかない。
常に事実と共に生きる。

出て来るものは、出してあげるしかない。
但し、出て来るままに翻弄され、自分を見失うことのないように。
見守りながら出していく。
それをやり続けていると、気がつかないうちに見守る意識が働くようになる。
無意識のうちに見守っている状態になる。

自宅に帰って、静かに今日の自分の反応を反芻(はんすう)する。
どうしてあのような反応が出てきたのか、もう一度冷静に振り返る。
自分の状態をフィードバックする。
客観的に見つめ直す。
そして、その原因を突き止める。

そういう作業を繰り返していく間に、見る意識が育っていく。
その作業中に思考が動いてもかまわない。
あれこれ考えて、気づく。
それでいい。
思考は道具。
使いこなせばいいだけ。

ポイントは、見つめながら思考を使うこと。
思考の独り歩きをさせないこと。
つまり、考え過ぎて自分を見失いそうだったら、見つめていないということ。
それは思考の空回り。
それでは永遠に思考から自由にはなれない。
見つめながら考える。
常に自分自身を見つめるという姿勢が必要になる。

瞑想中も思考が動く?
動く思考を見つめていればいい。
最初から無念無想になれるわけがない。
潜在意識に溜まっていた、いろんな思いが雲霞(うんか)の如く出て来る。
それが普通。
問題は、そういうものが出てきた時にどうするか。

出てきたものを一々払い除けようとしてもキリがない。
それではまったく瞑想にならない。
出てきたものに呑み込まれてしまっても、瞑想とは言えない。
それでは瞑想のつもりが迷走になっている。

出て来るものは、出て来るもの。
そのまま認めるしかない。
ただそれを眺めている。
見守っている。

見守る以外のことをすれば、それは思考が動いていることになる。
それでは瞑想にはならない。
動く思考を見守る。
その動きが止まろうが止まるまいが、見守る以外の方法はない。

呼吸法をやる?
マントラを唱える?
そういうテクニックもある。
それはそれなりの効果はある。
でも、所詮、テクニック。
テクニックなしでは瞑想できない、テクニック依存症をつくることになる。

心が落ち着く静かな音楽を使ったり、それなりの工夫をするのもいいかもしれない。
最初は自分がやりやすいようにアレンジするのもいいだろう。
でも、テクニックはテクニック。
それぞれの限界がある。
最後の最後は、いかなる方法もない。
ただ静かに見守る。
それしかない。

まずは、潜在意識に溜まっているものを解放する。
それには静かに見守ること。
思考が動けば、それを見守る。
思考に囚われず、ただ流すように見守ればいい。
要は、意識のポイントが思考にあるか、見守る方にあるかということ。
簡単には意識のポイントは移動しない。

日常生活は思考のポイントで生きている。
それが瞑想した途端、見守る方のポイントへ移行するはずがない。
意識は普段と同じように思考のポイントにある。
それを見守る。

パッと切り替わるものでもない。
自然と切り替わるとしか言いようがない。
いつのまにか自然に見守っているようになる。
いつのまにか自然に見守る意識が働くようになる。
それは瞑想中だけに限らず、日常生活の中でも働くようになる。

瞑想の時だけ瞑想していても仕方がない。
常住坐臥(ざが)瞑想状態というのが望ましい。
少なくともどんな状況であれ、見守る意識が常に働いているようになる必要がある。
そのような状態には一朝一夕にはなれない。
いつのまにか・・・なっている。

だから、焦らず、ゆっくりやればいい。
ゆっくり自分自身を見守り続ければいい。
そうすれば、徐々に見守る意識が育っていく。
やがて、いつのまにか思考も静まっている。

思考を鎮めようとしない。
思考を鎮めようとすれば、思考が思考を鎮めようとする泥沼にはまる。
ただ静かに見守る。
それが唯一の方法。
思考を使わない唯一のやり方。

そうやって見守っている間に、自然に意識のポイントが切り替わる。
思考から見守る意識の方へ移行する。
自然に移行する。
それが一番無理のない方法。

焦らない。
慌てない。
落ち着いて、ゆっくり見守ればいい。
絶えず自分自身を見守っている。
必死に頑張るのではなく、おおらかに、やさしく・・・

必死で頑張ろうとするのは、思考。
見守る意識は、ゆったり、おおらかにすべてを包み込んでいる。
すべてに浸透している。
だから、ゆったりと見守った方がいい。

『おおらかに やさしく包み 見守って 出て来るものを 解き放つだけ』





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創造と破壊
2015-03-12 Thu 11:11

新しい星は、宇宙空間の塵が結集することによって生まれる。
集中固体化が、星の誕生。

やがて活発に活動するようになり、光り輝く。
しかし、最後には大爆発して宇宙の塵と消える。
それが、星の一生。
集中し、拡散し、文字通り雲散霧消する。

それは、水に似ている。
水蒸気が雲となり、雲は冷えて雨となる。
雨は、気温が下がれば氷となる。
やがて春が来て、氷は融けて水となる。

水は川を流れ、海に融け入る。
海水は太陽に照らされ、水蒸気となり雲となる。
そして、また地上に降り注ぐ。
その繰り返し。

集中、固体化、拡散、気体化。
それが、自然と宇宙に見られること。
人も、その例外ではない。
死ねば土に戻り、次の生命の養分となる。

実は、これは物質に限ったことではない。
精神も似たようなもの。
この人生を生きていくために、いろんな要素が集められている。
それは、主に過去世から集められる。

新しい人生を生きるには、まず青写真がいる。
新しい人生の設計図。
これがなければ、新しい人生はあり得ない。
どんな人生にするか、魂の検討が始まる。

今回の人生で何を経験するか。
何を達成するか。
そのためには、何が必要か。
必要な資質を集めることになる。

人は、偶然にできるものではない。
肉体も精神も創られたもの。
生まれる前に設計されたもの。
過去世の能力や先祖の肉体的特徴から創造されたもの。

まず原型を創り上げる。
その際に、過去世で培った能力が役に立つ。
そのどの部分を持たせるか。
どのような能力や性格を持たせるか。

ものすごいデーターのストックの中から選び抜かれる。
それは、新しい星が宇宙の塵から創られるのに似ている。
人も膨大なデーターの中から創られる。
集中固体化。

いろいろなデーターを組み合わせて新しい原型が形成される。
それが、人生のベースとなる。
肉体や精神の基本構造が設計される。
そういう準備を経て、この世に誕生する。

肉体も精神も順調に成長すれば、当初の目的が達成される。
やがて使用期限が切れる。
そうなると肉体は土に帰る。
精神は、魂に帰って行く。

肉体は、分解されて土に戻る。
実は、精神も分解される。
感覚、感情、思考、それ以上の気づきや直覚・・・
それぞれの次元でストックされる。

つまり、この世では人として一体であったものが、別々に分解して保存される。
そういうものから、また新しい人間が形成される。
人は、魂によって形成されたもの。
もちろん、形成されるのは一霊四魂の四魂の部分。

宇宙の根本は、人も星も花も同じ。
集中と拡散。
その繰り返し。
それは、呼吸のようなもの。

吸ったり吐いたりすることが、いのち。
つまり、生きているということ。
つまり、変化。
つまるところ、集中と拡散。

右回りが、集中。
左回りが、拡散。
台風は、左回りの渦。
つまり、拡散=破壊。

インドの神話には、破壊神と創造神が登場する。
破壊とは、拡散。
創造とは、集中。
新陳代謝とは、その繰り返し。

古い細胞は破壊され、新しい細胞が誕生する。
それが、人体内で日々おこなわれていること。
つまり、宇宙の出来事が人体内でも起きているということ。
創造と破壊は、ありとあらゆるところでおこなわれている。

森羅万象は、そういう原理で動いている。
極めてシンプル。
創造と破壊。
集中と拡散。

大きな創造と破壊の間には、小さな創造と破壊がある。
それが何層にも渡っている。
そう、宇宙は相似像。
同じ構造の多層構造。

そういうことを理解して、いかに今生を生きるか。
自分は、今、何のために生きているのか。
魂は、何を求めているのか。
この人生で何を実現しようとしているのか。

日々真剣に生きることだろうか。
そうすれば、魂とつながった生き方ができるようになるだろう。
魂とつながることは、宇宙とつながること。
多層多次元、みな同じ構造。

宇宙とつながり、魂とつながり、日々を生きる。
宇宙の構造を理解し、人生を理解して生きる。
日々新たな創造に励む。
理解を深め、現実創造していく。





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只管打座
2015-02-03 Tue 14:48

  只管打座 (しかんたざ)
  
  只管打座     
  禅の言葉     
  ただ座る    
  何も考えずに座る
  
  悟りたいとか     
  すばらしい体験をしたいとか     
  そういうことを一切思わずに座る     
  ひたすら座る

  無念無想
  いかなる念も想いもない
  無念無想になりたいとか
  そういうことも一切ない

  目的や意図があれば
  無念無想ではない
  どのような想いがあっても
  只管打座とはならない

  ただ座る
  何も考えずに座る
  座ろうともせずに座る
  自然に座る

  意図は自我
  悟りたいも
  超越体験をしたいも
  自我そのもの

  別に自我が悪いわけではない
  目標を設定し
  達成する
  自我の喜び

  それも悪くはない
  しかし
  悟りたいという目標を持つと
  悟れない

  悟りたいという想いがある間は
  悟れない
  なぜなら
  まだ想いの世界にいるから

  想いの世界は自分の世界
  自分がつくりだしているだけの世界
  自分で自分の尻尾を追いかけ回して
  いる犬と変わらない

  想いの世界を超え
  ただ心が落ち着く
  何の理由もなく心が落ち着く
  座る必要もなく心が落ち着く

  座ってもいいし
  座らなくてもいい
  それが只管打座
  ただ座るだけ

  目的も消え
  努力も消え
  超越体験願望も消え
  悟りたいも消える

  すべての欲望が消え
  すべての意図が消え
  すべての目標が消え
  自我が消える

  その時に
  只管打座があり
  無念無想があり
  想いを超えた世界がある

  自我で努力するのもいい
  一生懸命頑張って達成するのもいい
  思い通りの人生を創造するのもいい
  人生の主役になりきるのもいい

  それらすべてを体験して
  ただ座るのもいい
  心が静まって
  ただ座っているのもいい 

           



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