いのちの写真と光の言葉
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折々に - 3 -
2007-07-04 Wed 06:46
                                        『木霊の森の水』
木霊の森の水ーwater-05
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   K-Communication №19 より 『折々に』 を連載しています。

   折々に - 3 -

   『依存』

   なぜKは、最後に 「誰も変わった人はいなかった」 と言ったのだろうか?
   それは、彼が生きていた間は、みんなが彼に依存していたということでは
   ないだろうか?
   依存していたから、誰も変わらなかった・・・
   依存がある限り、完全な自由はない・・・
   では、Kが亡くなった今、変化の可能性は高くなっただろうか?
   しかし、今、人は彼の本やビデオに依存してはいないだろうか?
   彼の言葉の中に答えを求めてはいないだろうか?
   人は、自分で真実を発見しようとしているだろうか?
   もし、彼の本やビデオの中から真実を発見しようとすれば、それは依存に
   他ならない。
   日々の生活の中で、自分で真実を発見しようとする姿勢があるだろうか?

   クリシュナムルティから入って、クリシュナムルティを越える?
   クリシュナムルティから入って、クリシュナムルティを捨てる?
   Kへの依存がある限り自由はない!
   Kを学びながらも、Kにこだわらない自由な心がないと、他の宗教団体と
   何ら変わらない。
   それでは互いの衝突を生み、世間の宗教対立と同じになってしまう。
   Kへの依存、Kへのこだわり、それらを越えた自由・・・
   Kが真に伝えたかったものも、それではないだろうか・・・
   自由に何ものにも縛られることなく真理を探る・・・
   そこに自由がある!真の自由がある!初めにあったものが真理であった!
   何ものにも拘束されない自由な心こそが、真理そのものであった・・・

   『光』

   ただ思考の迷盲がトータルなエネルギーによって見られる時、その幻想に
   光が当てられる時、闇は一瞬に消える。
   それをもたらすことができるのは、静寂のうちに存在する内なる光だけである。
   それをKは、”見ること” と言った。
   この内に輝く光が、その実在の光 (無量寿光) が、言葉や比喩としてではなく、
   実際に実感されるだろうか?
   それが実感されない限り、それは単なる想像の域を出ないだろう。
   ただ静かに見ている状態そのものが光である。
   深く静かにトータルに見ている・・・その状態そのものが自我・思考ではない。
   それは光そのものであり、それが瞑想である。

                  K-Communication №19(1991年 3月号) より
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