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自問自答 - 1 -
2007-06-09 Sat 01:09
                                        『霧の木霊の森』
霧の木霊の森ー28-jan
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   K-Communication №38 より 『自問自答』 
    【質問】条件づけられている私が、条件づけなしに見ることができるので
   しょうか 【質問】怒りなどの感情を”見る”ということはどういうことでしょうか
   を連載します。
   

   自問自答 - 1 -

   【質問】
   条件づけられている私が、条件づけなしに見ることができるのでしょうか。

   まさにKの教えの核心に迫る質問ですね。
   条件づけられている私が、条件づけられているにもかかわらず、
   条件づけなしに見ることができるか・・・
   これは平面的に見る限り明らかに矛盾しています。
   普通に考えれば、条件づけられている私は、条件づけを通してしか
   見ることができないに決まっています。
   しかし、Kは条件づけなしに見なさいと言います。
   しかし、条件づけられている私は、条件づけなしに見ることはできない
   でしょう。
   なぜなら、『私』 は条件づけられているからです。
   そして、この 『私』 が見る時、『観察する者は観察される者である』
   というKの有名な言葉が当てはまります。
   それは一般的に誰もがやっている、非難や正当化、判断や解釈と
   共に見る、条件づけのままに自己中心的に見るということに他なりません。
   そういう意味では、条件づけられている 『私』 は条件づけなしに見る
   ことは ”できない” と言えるのではないでしょうか。

   では、私達は永久に条件づけなしにありのままを見ることはできない
   のでしょうか。
   (Kはその重要性を強調したのですが・・・)
   それは条件づけられている 『私』 が見るのではなく、『ただ見る』 という
   ことがあるだけです。
   『私』 が観察するのではなく、ただ 『観察』 があるだけです。
   そこには 『観察される者』 としての条件づけられている 『私』 は存在
   しますが、『観察する者』 としての条件づけられている 『私』 は存在
   しません。
   そこにあるのは、『観察される者としての私』 と 『観察』 だけであって、
   『観察する者としての私』 はいないということです。
   それは、条件づけられている 『私』 を、条件づけられていない 
   『内なる感受性』 が観察しているということです。

                     ・・・明日に続きます (K=Krishnamurtiです)

                  K-Communication №38(1993年 38号) より
                                 >>K-Communication

           
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