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祈り - 序章 -
2007-05-07 Mon 11:08
                                          『苔の宝石』
苔の宝石ー07-jan
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   祈り - 序章 - (5月11日 Kの誕生日)

   一日中雨の降りしきる中、16人の方がお集まりいただきありがとうござい
   ました。
   熱心に9時過ぎまで話合いましたが、ちょっと時間切れに終わったようです。
   その中で『祈りは自我か』 ということが話題になりました。
   自分のためではなく他人のために祈るとき、不幸な人を見て自然に
   祈らずにはいられないとき、それは、自我ではないという意見が多かった
   のですが・・・

   今、一人になって感じるのは・・・ 祈りには祈っている私がいます。
   私の意志が働いています。
   祈っている人と祈る対象との分離があります。 
   私と神の分離です。
   この分離こそが、『私』の本質であり、自我の本質ではないでしょうか。
   私と神、私とあなた、私と私以外のすべて・・・ 
   そして、この『私』 こそがあらゆる問題の元凶なのです。
   静かに自分自身を見つめてみると・・・ やはり、祈りの中に私の願望を
   感じます。
   『こうあってほしい』、『・・・・になってほしい』、その内容が善かれ悪しかれ、
   そこには、あるべき姿・理想・自分のイメージの投影があります。
   『健康であることは良いことだ』、 『貧しいことは良くないことだ』、だから、
   『健康で豊かになってほしい』。
   その現実を認めるのではなく、それを私の理想・あるべき姿に変えたい。
   ありのままの現実ではなく、人を変えたい、変わってほしいと願うことじたいが、
   私が、人に私の思うようであってほしいという願望ではないでしょうか。 
   それは、私が人を私の思うように支配・所有したいということではないでしょうか。

   祈りの内容が、たとえ善意に満ちたものでも、その善意じたいが私の善意で
   しかなく(私が善・正しいと思っている観念・イメージにしかすぎず)、 それは
   他人のものとは当然違い、ひとつの主義・主張とさえ言えばいえるのではない
   でしょうか。
   極端にいえば、祈りは私の主義・主張を他人に押しつけることにならないで
   しょうか。
   人のありのままの状態に、私の主義・主張(こうあるべきだ・そうあってほしい) 
   を押しつける訳です。 
   主義・主張は人それぞれに違い、それ故に争いも起きます。
   人は、それぞれ自分の人生を自分で生きています。 
   そこに、むやみに干渉することは慎むべきではないでしょうか。
   どうかもう一度、自分の中をよーくのぞいてみてください。 
                 
                   K-Communication №0(1989年) より
                                 >>K-Communication

     今日からしばらく、この『祈り』について連載します。 
     (祈りの段階、新しい時代の愛、自我の領域と非自我の領域について)
     どうぞ続けてお読みください。

        

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