いのちの写真と光の言葉
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透明
2007-05-01 Tue 07:32
                                         『森の中の池』
森の中の池-23
  
   
   透明 

   1.
   透明なコップに、透明な水が入っている。
   一滴赤インクを入れる。 
   たちまち水は赤くなる。
   しかし、もともと赤い色の水だったら・・・
   赤インクを入れても、どんな色が入れられたのか、はっきりとはわからない。
   もし、黒い色の水だったら、何色が加えられたのかほとんどわからない。
   他の色の水も、程度の差はあれ、同じようなものである。
   ただ、透明な水だけが、何が入ってきたのかを、正確に見分けることができる。

   同様に、私たちも、自我に色がついていないとき、透明なとき、ものごとを
   ありのままに、正確に見ることができる。
   自我に過去の色や、観念の色がついているかぎり、ものごとを正しく
   見ることはできない。
   自我がにごっている限り、対象も、自我の色に色付けされてにごってしまう。
   つまり、自我の都合のいいように解釈されてしまう。
   ただ、自我が透明なときのみ、ありのままに、一切の解釈の必要もなく、
   正確に見ることができる。 何の努力の必要もなく、対象自体が、
   その真の姿を自ら見せてくれる。

   2.
   しかし、透明な水に、赤インクが入ってきて、その赤をはっきりと理解できたと
   しても、その赤が記憶としてそのまま残ってしまえば、次からは正確に見ること
   はできない。(赤い色の水になってしまっている)
   赤を見たら、次の瞬間忘れて、また、透明な状態で次の対象を見なければ
   ならない。(赤い色の水を捨てて、透明な水を注ぐ必要がある ―― 
   つまり、水は停まることなく流れていなければならない)
   常に、絶えず、見ては忘れ、見ては忘れ・・・     
   (新鮮に見るためには、記憶があっ てはならない)      
   今に生きる、瞬間に生きることは、このようなことではないだろうか。

   とどこおることなく流れているのが、生命である。
   一瞬も赤い色のままであってはいけない。
   生命がとどこおれば、病気である。 
   意識がとどこおれば、(こだわったり、執着すれば)、記憶(自我) となる。 
   つまり、自我は意識の病気である。

   水はよどめば、にごってしまう。
   血液がよどめば、病気になる。
   意識がよどめば、苦しみとなる。

   サラサラと、サラサラと、一切のこだわりなく流れている。
   自然も、体も、意識も、すべて同じ原理である。
   諸行無常・諸法無我・涅槃寂静 (三法印という)
   仏教の世界である。
                  
                 K-Communication №0(1989年) より
                               >>K-Communication

        
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