いのちの写真と光の言葉
苦労
2013-12-20 Fri 19:45

先日のコメント欄に次のような書き込みがあった。

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自分も両親からの支配という共依存関係に長年苦しみましたが、
感情的にもだいぶスッキリし、内面のバランスも整いつつあるので、
そろそろ次のステージに行けそうな予感がしています。

自我や恐れに基づいた人生も終わり、宇宙を信頼して委ねる時が来て
いるようです。

Kimiさんも家族関係やその生い立ちにおいて、いろいろご苦労があった
のですかね。
氣になるところです。

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Kimiさんは、家族関係やその生い立ちにおいて、いろいろご苦労があった
のだろうか。
以前は、たいへんご苦労があったと思っていた。
ところが、最近は何も思わない。
ご苦労とは・・・

極めて主観的なもの。
客観的な基準はない。
ある人にとっては苦労なことも、別の人にとっては苦労ではない。
本人が、苦労と捉えるかどうかの問題。

苦労とは、突きつめれば、思い込み。
それ以外に苦労などというものはない。
苦しみや悩みや心配も同じ。
それは、本人の主観的な問題。

それでも、「苦労」や「苦しみ」や「心配」などという言葉が存在するのは、
みんなに共通した何かがあるということでもある。
主観的なことではあるけれども、共通したものでもある。
そもそも「苦しい」とは、どういうことだろうか。

肉体的な痛みがある。
それが強いと苦しい。
心理的な痛みも同様。
それは、不快の極みということだろうか。

あるいは、違和感だろうか。
それとも、混乱だろうか。
はたまた、平安ではないということだろうか。
心身に異常があるということだろうか。

体の痛みとは、体の異常を知らせる信号。
それが強いと苦しみとなる。
それでは、心の痛みとは何だろうか。
それは、心が平常ではないということだろうか。

心が不安定であり、動揺しているということだろうか。
心が平衡をなくしているということだろうか。
それでは、心が平衡をなくすとは、どういう状態だろうか。
それは、心がショックを受けているということだろうか。

心の日常的平衡を乱すような衝撃的なことがあったということだろうか。
そのために心が動揺し、苦しんでいるということだろうか。
つまり、安定がなくなったので、安定を求めて苦しんでいるということだろうか。
不安定こそが、苦しみや苦労の原因だろうか。

心の平衡が破れるのは、思い込みが崩された時。
思わぬことを言われたり、予期せぬ事態が起こったり・・・
それで心は動揺する。
動揺した心は、安定を求める。

その安定が得られないと、苦労や苦しみというものが生じる。
体の異常は痛みとなり、心の異常は不安や心配や苦しみとなる。
それでは、そもそも安定とは何だろうか。
安定とは・・・

バランスが取れていること。
平穏に過ごせていること。
心身共に健康であること。
ところが・・・

ここに予期せぬ出来事が起きると、安定や平穏はもろくも崩れ去る。
ショックの程度にもよるが、不安定が長引くと苦しみや苦労というものが
生じてくる。
しかし、それは永遠に続くものではない。
また安定を取り戻せば解消される。

お金の苦労、体の苦労、人間関係の苦労・・・
いろんな苦労がある。
いずれも、不安定であることから生じる。
それが安定すれば、苦労は消える。

しかし、何をもって安定とするかは、個人差がある。
何によって不安定になるかも、個人差の世界。
では、心の安定をもたらすものは何だろうか。
逆に、心を不安定にするものは何だろうか。

先ずは、人生経験というものがある。
子供の頃は、キャパシティが小さい。
そのために、些細なことで苦しんだりもする。
人生経験を重ねて大人になると、多少のことでは苦しまなくなる。

それでは、どんどん人生経験を積めば苦労はなくなるのだろうか。
もしそうなら、歳を取れば取るほど苦労は減少することになる。
しかし、残念ながら現実はそうはなっていない。
それは、年齢とは関係ない。

むしろ、心のあり方の問題。
人生の捉え方の問題。
心が動揺しやすいのは、自己の利害が関わる時。
自分に関係がなければ、心が動揺することはない。

自分、自分の家族、自分の親しい人たち・・・
そういう人たちに関わることが起きると、心は動揺する。
つまり、自我。
自己の利益が、苦労の元。

自己の利害に敏感であると、不安定になりやすい。
つまり、苦労が絶えない。
自己の利害から離れれば離れるほど、苦労からも遠ざかる。
では、どうすれば自己の利害から離れられるのだろうか。

自己の利害は、肉体をベースにしている。
肉体の自己保存の本能が、自己の利害のベース。
それも生きるためには必要。
しかし、それだけでは心は動揺しやすくなって不安定。

主観だけでなく、客観的な視点を持つことだろうか。
自分を見守ることによって、自己の利害から離れることだろうか。
自己の利害から離れられれば、心は不安定になりにくくなる。
自分を客観視できれば、心は安定する。

主観も生きるためには必要。
しかし、主観だけでは心は安定しない。
主観と同時に客観も必要。
それによってバランスが取れる。

生きる主体としての主観。
それを見守る客観。
その両方によって心は安定する。
それは、個と全体の調和にもつながる。

個=主観だけで生きれば、みんなバラバラ。
社会の安定は望めない。
客観が入ることによって、全体的な安定が生まれる。
そのバランスと調和。

個と全体のバランス。
主観と客観のバランス。
自分も生き、みんなも生きるバランス。
自分だけよければいいというのは、心の安定にはつながらない。

つまり、自我で生きることは、心を不安定にする。
主観だけで生きることは、思い込みワールドに陥りやすい。
客観がないと、すぐに心は動揺する。
自己の利害にだけ敏感な人は、苦労が絶えない。

逆に言うと、客観をベースに生きれば、苦労はないということになる。
自分を勘定に入れなければ、苦労というようなものは存在しない。
自己の利害や安定を最優先するから、不安や心配や苦労が生じる。
客観が足りないと、心は安定しない。

独立した肉体をベースに生きている以上、主観はいやでも付いてくる。
それは、生きるために必要なもの。
しかし、それだけでは足りない。
主観と同時に客観も必要。

その客観が、苦労から自由にしてくれる。
苦労に翻弄されなくなる。
苦労という思い込みからの解放をもたらす。
客観ベースで生きれば、苦労というものの存在する余地はない。

過去の苦労は、思い込み。
自分が主観的に苦労と思っただけ。
そのように思わなければ、苦労というようなものはない。
ただの思い込みワールド。

主観オンリーの狭い了見で生きてきたために生じたものが、苦労。
客観ベースで生きれば、苦労はない。
自己の利害から離脱すれば、苦労というものは存在しない。
いかに自我ベースから離れるかということ。

子供の頃には、客観はない。
主観を発達させている時期なので、主観オンリー。
そのために、些細なことでも苦労が生じる。
特に思春期は自我を確立する時期なので、苦労が絶えない。

そのすべては、自己の確立のプロセス。
それも必要な過程。
しかし、いつまでもそこに留まっている必要はない。
次のステップへ進む時が来ている。

自分の立場。
そして、相手の立場。
その両方を理解する。
両方を客観的に見守る。

主観と共に客観。
主観ベースから客観ベースへ。
意識の変化と共に、人生も変わる。
苦労という言葉は、やがて過去の遺物となる。

自我から自我を超えたものへ。
それが、時代の流れ。
そのうちに苦労の存在しない世の中になる。
主観と客観が調和した世界となる。


『苦労とは 主観ベースの 思い込み それを見守り 超えていくこと』

『主観とは 肉体ベースの 狭い視野 意識広げて 自我を超越』

『主観から 主観と共に 客観へ 個と全体の 調和バランス』






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