いのちの写真と光の言葉
信じること
2013-10-21 Mon 19:27

信じると裏切られるは、一対。
信じることがなければ、裏切られることもない。
信じるが表で、裏切るが裏?

裏切られるのは、自分の思い込み。
裏切られるとは、想定外ということ。
想定内では、裏切られないことになっていた。
しかし、結果は想定外。
そこで、裏切られたと言って相手を非難する。
しかし、相手が裏切ったわけではない。
相手は自由に行動しただけ。
こちらが勝手に相手の動きを想定しただけ。
それが見事に外れたというだけのこと。

それは相手のせいではなく、まさに自業自得。
自分の想定ミス。
にもかかわらず、普通は相手を責める。
相手のせいで自分が被害をこうむったかのように主張する。
その時、自分の想定ミスは棚上げされている。

何度か裏切られる経験をすると、今度は裏切られるのが怖くなり、
誰も信じないようになる。
これ以上傷つくのがいやなので、自ら信じることを封印する。
でも、人を信じることができないと、さびしい。
結果、心が揺れ動く。
信じたいけど、信じられない。
信じれば裏切られそうで、もう一歩深く踏み込めない。
それが、あらゆる人間関係に影を投げかける。

信じても裏切られないものはないのだろうか。
それは永遠の真理だろうか。
人は信じても裏切られないものを求めて旅に出る。
精神世界という旅へ。
しかし、そこにも信じれば救われるという世界が広がっている。
救世主やメシアを信じる。
グルや教義を信じる。
生まれ変わりや永遠の魂を信じる。
天国や自己の成長を信じる。
それらを信じれば本当に救われるのだろうか。

救われる場合もある。
但し、それが永続するという保証はない。
いつ裏切られるかもしれない。
なぜなら、信じることと裏切られることは表裏一体だから。
それは精神世界も一般世界も変わらない。
自分の想定外のことが起きれば、いつでも裏切られる。
自分が想定した時点で、裏切られる準備をして待っているようなもの。
いつでも裏切られるスタンバイ状態。

相手は裏切ろうとは思っていない。
しかし、こちらの想定外のことをすると、裏切ったと見なされる。
それは精神世界、一般世界を問わない。
なにしろ信じる・裏切るの世界は、信じた人の想定範囲にかかっている。
その想定範囲が狭ければ、すぐに裏切られる。
想定範囲が広ければ、裏切られるのに時間の余裕がある。

信じれば、裏切られる!
場合が多い。
それは自分の狭い了見で信じるから。
想定範囲がこれまでの自分の人生に限定されているから。
人は自分の経験を通して物事を見ている。
結果、自分の過去からしか想定できない。
だから、不確定な未来に、すぐに裏切られてしまう。
未来は過去の繰り返しではない。
未来は常に想定外のことに満ちている。
信じた途端、同時に裏切られる高いリスクを背負うことになる。

それでも、信じる?
それとも、信じることをやめる?

絶対に裏切られることのないものがある!
と言ったら、信じる?
もう何も信じない?

絶対に裏切られないもの。
それは信じることの必要のないもの。
信じる・信じないの次元を超えたもの。
比較・相対の思考の次元を超えたもの。
そこでは、既に信じるという行為そのものが存在しない。
なぜなら、信じる必要がないから。
誰の目にも明らかなものは、信じる意味がない。

信じる・信じないという次元は、不明瞭な世界。
はっきりしないから、信じようとする。
あるいは、はっきりしないから、信じることを躊躇(ためら)う。
明確であれば、何も信じる必要はない。
信じなくてもクリアーに生きていける。

要は、そのようなクリアーな意識で生きることではないだろうか。
何事も明確に見えるクリアーな意識であれば、信じる必要はまったくない。
意識が曖昧だから、信じようとするだけ。
意識が明晰ならば、何も信じる必要はない。

そもそも信じるというのは、自分に自信がなくて、何かに寄りかかろうと
する行為ではないだろうか。
信じれば救われる?
から、信じようとする?
救いを求める弱い心?
自分の足だけでは立っていられない弱い意識?
だからこそ、救いを求める?

しかし、その救いは弱い意識が想定した範囲内のもの。
弱い意識は必死に縋(すが)ろうとするが、ガラスのように繊細な想定範囲は
すぐに破られてしまう。
疑いが生じ、やがて裏切られたという気持ちに変わる。
信じたものに裏切られるのに、そんなに時間はかからない。

何ものにも裏切られない生き方。
それは何も信じないこと。
何も信じないで、クリアーに生きること。
裏切られるのが怖いから信じないのではなく、信じる必要がないから信じない。
そういう選択肢もある。
ある次元まで行けば、そういう選択肢しかない。
信じる・信じないの次元を抜ければ、信念や信仰は無用の長物。
ただ事実と共に生きればいいだけ。

いつまでも信じる・信じないという曖昧な思考の次元にいないで、スッキリ
さわやか、クリアーな次元で生きればいい。
自分を理解すれば、その空間が待っている。
いつまでも泥沼の中で生きていたい?
それとも、泥沼から咲く蓮の花になる?





関連記事
別窓 | 未分類 | コメント:0
<<苦労 | いのちの島=屋久島 | グランディング>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

| いのちの島=屋久島 |