いのちの写真と光の言葉
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嫌いとは・・・
2011-01-07 Fri 09:05
                                         『巨杉の迫力』
巨杉の迫力ー22-july_08_10
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『嫌いとは・・・』         

次のような質問がありました。

「屋久島は二度旅行で行ったことがありますが、とても素晴らしかったです。
都会に住んでる私には、日記で読むkimiさんの生活はなんだか夢のようです。
今のkimiさんには、嫌いな人がいたりとか、怒ったりとか悲しんだりとか、
そういう気持ちになる事はもうないんですか??

どうしても嫌いな人(苦手な人)が自分の人生に現れたら、どうすればいいですか?
同じ職場なので、どうしても関わるしかありません。
その人は、他人を徹底的にコントロールしたがります。

何か言われたりされたりしても、こちら側が反応せず冷静に受け止めれば
よいのでしょうが、たとえば常識的に考えて『バカ』などのように、冷静に考えて
たとしても反応ではなく明らかに傷つく言葉や態度は存在すると思います。
そういう事には、どういうふうに取り組めばよいのか教えてもらえませんか?

そもそも、嫌いな人や苦手な人が現れるというのは、どういうことを意味して
るんでしょうか。」


このようなことで悩んでいる方は、少なくないでしょう。
多くのところで見聞きすることです。
今の人間にとっては、日常的な出来事ですね。
これが、今の人類の一般的な意識レベルでしょう。

そもそも、嫌いな人や苦手な人が現れるというのは、どういうことを意味して
いるのでしょうか。
好き嫌いは、個人差があります。
ですから、客観的な基準ではありません。
個人的な嗜好です。

それは、食べものの好き嫌いと変わりません。
ファッションや動物の好き嫌いとも変わりません。
まったく個人的なことです。
同じものを見聞きしても、反応は人それぞれです。

嫌いとか苦手というのは、どういうことでしょうか。
それは、自分のペースと合わないということでしょうか。
それとも、自分の思うとおりに動いてくれないということでしょうか。
あるいは、自分の弱みをストレートに言われるということでしょうか。

いずれにしても、自分にとっては都合の悪い人です。
居心地がよくないのですね。
できれば、避けたいのです。
一緒にいたくないのです。

でも、職場や家族や同じクラスなど、どうしても避けられないこともあります。
そういう場合は、どうしたらいいのでしょうか。
じっとガマン?
それとも、戦う?

あるいは、じっと踏みとどまって自分の反応を見つめる?
なぜその人が嫌いだったり、苦手だったりするのか・・・
それは、その人のせい?
それとも、自分のせい?

老若男女すべての人が嫌いなわけではないので、相手のせいとは言えません。
では、自分のせい?
答は?
そのとおり!

自分が、嫌いであり苦手なだけです。
それは、自分の傾向です。
自分の嗜好です。
またの名を、自我とも言います。

自分にとって都合の悪い人は、なぜ嫌いなのでしょうか。
別に嫌いになる必要はありません。
でも、嫌いになる場合がほとんどです。
そのわけは・・・

その人の存在を認めたくないということでしょうか。
あるいは、無視しようとしているのでしょうか。
それとも、否定しているのでしょうか。
相手を否定することによって、自分を守っているのでしょうか。

嫌いというのは、傷ついた自分を守る行為かもしれませんね。
好きな人がこちらを振り向いてくれないと、嫌いになります。
本当は好きなのに、嫌いになってしまうのです。
可愛さ余って憎さ百倍!

愛憎の愛なのですね。
愛と憎しみは、裏表。
いずれも所有です。
自分のものにしたいという・・・

自分のものにできれば、好き。
自分のものにできなければ、嫌い。
自分の思うとおりになれば、好き。
自分の思うとおりにならなければ、嫌い。

自分勝手な自我そのものです。
自分のものにして安定したいのですね。
それは、自己保存です。
自己中心的ということです。

別にそれが悪いと言っているわけではありません。
ただ、それが紛れもない事実であるということです。
それをありのまま認めることでしょうか。
好き嫌いではなく、事実と共に生きることです。

好きや嫌いは、変化します。
ちょっとしたきっかけで、大好きになったり、大嫌いになったりします。
そういうものに振り回されないことです。
自分の嗜好のパターンを理解することです。

コントロールしたがる人が嫌いなのは、自分がコントロールされたくないから
でしょう。
でも、本当は自分がコントロールしたいのかもしれません。
コントロールとは、自分の思うとおりにしたいということです。
別の言葉で言えば、支配です。

支配とは、所有です。
コントロールゲームとは、支配や所有をめぐる争いです。
それは、人類が延々とやってきたことです。
それを、これからも続けるつもりでしょうか。

それを続けている限り、アセンションは夢のままでしょう。
いい加減、そういうものから離れることですね。
「バカ」と言われて反応するのは、自分も同じ次元に住んでいるからです。
別の次元にいれば、いちいち反応はしません。

幼児が「バカ」と言っても、相手にしないでしょう。
アルツハイマーの人に「バカ」と言われて、本気で怒る人はいないでしょう。
幼児やアルツハイマーの人に対して本気で怒ったら、怒る人の人格が疑わ
れます。
要は、相手と同じ次元にいるかどうかということです。

自分を磔にして槍で刺そうとした兵士たちに向かって、イエスは言いました。
「この者たちは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。」
そういう者たちを、イエス・キリストが憎んだり怒ったりすると思いますか。
でも・・・

普通の人は、相手に対して怒ったり憎んだりするでしょう。
それは、相手と同じ次元で生きているからです。
怒りや憎しみや恨みや悲しみの次元ですね。
つまり、支配や所有の次元です。

そういう次元で生きれば、同じように反応するだけです。
そして、お互いに相手が悪いと罵(ののし)り合うことになります。
別にどちらが悪いわけでもありません。
同じコップのなかで、お互いに支配したがっているだけのことです。

傷つくということも、個人差があります。
それは、客観的なことではありません。
些細なことで傷つく人もいれば、あまり傷つかない人もいます。
それは、個人のパターンに過ぎません。

別に傷つく必要はないのです。
勝手に傷ついているだけです。
自動的に傷つくパターンに陥っているのです。
気づかないままに、同じパターンを繰り返しているのですよ。

傷つくとは、ショックです。
想定外のことが起きたということですね。
でも、それは自分が何かを想定していたということでもあります。
思い込みが、裏切られたのです。

「バカ」と言われて傷つくのは、自分をバカとは思っていなかったからでしょう。
逆に立派と思っていたのかもしれません。
あるいは、なにがしかの誇りを持っていたのかもしれません。
もしくは、プライドがあったのでしょうか。

そういうものを否定されると、傷つくのですね。
それは、自分の思い込みが否定されたからです。
想定外のことにショックを受けたのです。
そして、自分を守るために相手を嫌いになるのです。

すべて自分を守ろうとしているだけです。
それは、自己保存の本能とも言えます。
ですから、別にそれを否定する必要はありません。
でも・・・

それに振り回される必要もないのですよ。
そういう次元で自分を守らなくても、見守るという次元もあるのですね。
イエス・キリストは、自分を殺そうとした兵士たちと争ったりはしませんでした。
支配や所有の次元には生きていなかったのですね。

そういう次元でもがいている彼らを理解していたのです。
だから、憎むことも恨むこともなかったのです。
ただ無知である彼らを憐れんだだけです。
無知とは、自分自身を知らないということです。

自分の意識構造を理解することでしょうか。
どうして反応するのかを深く突き詰めて見つめることですね。
反応を絶対視しないことです。
反応の根っこを見極めることですよ。

都会にいても田舎にいても、変わりませんよ。
屋久島に住んでいても、ノイローゼーになる人はいます。
病人は、後を絶ちません。
人がいるところは、どこも同じです。

場所ではないのですね。
意識の問題です。
どこにいても同じです。
自分の意識が変わらない限りは・・・

自分自身を理解することです。
それが、自然に相手の理解に繋がります。
自分と相手は、似たような意識構造です。
ただバリエーションが違うだけです。

自我とは、自己の安全を求める意識です。
それ故、支配や所有に走ります。
それは、肉体の本能に基づいています。
本能と思考のドッキングです。

それは、極めて根強いものです。
それを超えるには・・・
否定するのではなく、理解することです。
自分自身を理解することです。

理解が深まれば、自然にそういうものに振り回されなくなります。
まだまだ自分の意識構造がわかっていないということです。
だから、自分自身のパターンに振り回されているのですよ。
問題は、相手ではないのです。

自分自身を知らないということです。
どうしてそのように反応するのかがわかっていないのですね。
自分のことを自分が知らないということですよ
それが、今の人類にとっての最大の課題なのです。

自分自身への理解が深まれば、そういうなかでいかに生きるかが自然に
見えてくるでしょう。
相手に振り回されないことですね。
自分の反応にも振り回されないことですよ。
双方を理解して生きるということです。

双方を理解するというスタンスは、自我を超えています。
自我とは、自分だけの一方的なスタンスです。
そういう次元を超えることですね。
自分さえよければいいという次元を超えることですよ。

自他共に生きる次元へシフトすることです。
みんなと一緒に生きる次元ですね。
すべての人を生かす次元。
理解の次元です。

アセンションとは、そういうことです。
意識のシフトです。
一方的な自我の次元から、すべてを生かす次元へのシフト。
それには、自我ベースを超える必要があります。

そのスタートは、自分自身を理解することです。
隗(かい)より始めよ!
遠回りのようですが、それが一番の近道です。
自分自身のなかに、すべてがあるのですから。           

      
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