いのちの写真と光の言葉
続・信じること
2010-09-14 Tue 19:21
                                       『青空に架かる虹』
青空に架かる虹ー01-sep_08_10
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


『続・信じること』       

昨日の書き込みに次のようなものがあった。

「私は、人を信じるってとても素敵なことだと思っていました。
『無償の愛』なのかと。
だから、人を信じる事の出来ない自分を『愛』の無い人間だとネガティブに
捉えていました。
でも、信じてこなくてよかったのですかね?
信じる・信じないは、曖昧な思考...? 
難しいけど...
『信じたいけど、信じられない』じゃなくて、『信じない』と決めればよいのかな?
とりあえず、肩が軽くなった☆わたしでした。」


信じることができないということと、信じる必要がないということは、
同じではない。
信じることができないのは、今生か過去世で深く裏切られた経験が
あるからだろう。
それについては、きちんと向き合ってクリアーにする必要がある。
なぜなら、それは裏切られて傷つくことから逃げているだけだから。
信じる必要はないけれども、信じることができない状態はニュートラル
とは言えない。
何かから逃げている人生が幸せであることは、あり得ない。
まず、信じることも信じないこともフリーの状態に戻す必要がある。
そうでないと、信じる必要はなくても、他の人間関係で必ず支障が出る。
自分が責められていると感じたり、自分の立場が危うくなったりすると、
すぐに逃げ出そうとする。
そういう基本的なパターンに気づく必要があるだろう。
信じる・信じないは、結果でしかない。
表面的な現象ではなく、原因を直視する必要がある。
もちろん、ネガティブに捉えて自分を責める必要はない。
ただ事実を明確に理解する必要があるだけだ。

信じることは、先の見えない三次元の人生において、極めて尊いことだった。
信じるもののために命を捧げることは、人類の美の極みだった。
迫害され、磔(はりつけ)にされながらも、信じるもののために殉じる。
それは涙なしには語れない愛の結晶。
そういう過去世がたくさんあった。
自己犠牲という美徳を過去世で経験している人は多いだろう。
それは人類史に燦然(さんぜん)と輝く星なのだ。

信じることは、ハートや直観をベースにしていることもある。
それは美しい。
何よりも美しい。
それは愛であり、それ故に自己犠牲を厭(いと)わない。
そういう信仰も、過去の歴史において多々見られた。
それは人類の歴史において、今も美しい香りを放っている。
それは肉の身を持つ者にとっての至宝。
最高の尊さだ。

そういう時代もあった。
しかし、時はひとときとして同じところには留まらない。
自己犠牲の美しさは既に過去のものとなってしまった。
純粋な愛や直観に、思考が加わった。
純粋な愛や直観もひとたび思考に捕まれば、思い込みと成り果ててしまう。
中東で見られる自爆テロは、アラブやイスラムの人たちにとっては崇高な
英雄的行為と映る。
しかし、イスラエルやアメリカにとっては、無差別殺人以外の何ものでもない。

しかしながら、広島や長崎に原爆を投下したアメリカに、無差別テロを非難
する資格があるのだろうか。
原爆では無差別テロの何百倍何千倍の人が一度に亡くなった。
もちろん、南京大虐殺をおこなった日本にも非難する資格はない。
もしかすると、誰も非難する資格はないのかもしれない。
なぜなら、自分と違う意見や価値観を持つ人を攻撃したり、非難したりしない
人は希(まれ)だ。
それは無差別テロと程度の差でしかない。
他人は責めなくても、自分を責めていれば同じ。
自分の信じるもの以外を攻撃したり非難したり否定したりすれば、やがて、
それが無差別自爆テロにつながらないと誰が断言できるだろうか。
自己犠牲は美しいけれども、それが敵に向けられる時、憎しみの連鎖を呼ぶ。

何がどう間違ってしまったのだろうか。
あれほど美しく尊いものであった自己犠牲が、どうしてこんなにも貶(おとし)め
られてしまったのだろうか。
それは思考で信じてしまったからだろうか。
思考で信じることによって、純粋な信仰が思い込みに変わってしまったのだ
ろうか。
愛や直観から来る信仰ではなくて、思考の思い込みによる信仰によって、
すべてが狂ってしまったのだろうか。
同じことが、オウム真理教や統一教会などについても言えるのだろうか。
巷に氾濫する多くの新興宗教も同じ陥穽(かんせい)にはまっているのだろうか。

これまでの歴史的な宗教戦争も、同じパターンだろうか。
思い込みの信仰が、自分が信じる以外の宗教を敵と見なし、殲滅(せんめつ)
しようとするのだろうか。
それは愛ではなくて、自己保存の本能の延長だろうか。
神への愛という美名の下、多くの殺戮が繰り返されてきた。
それが人類史と言っても過言ではない。
美しい純粋な自己犠牲もあった。
それが、いつのまにか思考の思い込みによって大量殺人に変わってしまった。
圧倒的な自我の力と、ごく少数の彗星のような自己犠牲の煌めき。
それがこれまでの人類史だろうか・・・

思考が人の意識の中心となり、信じることは妄信・狂信と化してしまった。
狂信は狂気となり、やがて凶器に変わる。
無差別自爆テロの源は、狂信。
つまり、思考による思い込み信仰。
今の段階で信じることは、思い込み信仰になってしまう。
もう信仰の時代は終わった。
それは、はっきりと断言できる。
アクエリアスの時代は、クリアーな意識の時代。
そんな時代に、信仰は時代遅れ。
今も信仰している人たちは、過去世の名残に浸っているだけ。
今は信仰している場合ではなく、思考によって曇ってしまった意識をクリアーに
する時。
次のピュアーな意識の時代に備える時。

「信じない」と決めることではなくて、信じる必要がないのを理解すること。
明確に見えれば、何も信じる必要はない。
「信じない」と決めることは、「信じる必要はない」と信じるみたいなもの。
理解すること。
理解されれば、後は何もいらない。
信じる必要のないことが真に理解されれば、信じるという行為は消える。
理解があるところに、信じることはない。
理解がないから、信じるという行為が生まれる。
明確にクリアーに理解することに尽きる。

信じる・信じないの次元から、まったく異なる次元へ飛ぶ。
信じる必要もない世界へワープする。
赤ちゃんや幼子が絶対的に母親を信頼しているように、疑う余地のない信頼の
次元へ。
信頼や信じるという言葉が必要のない世界へ。
直にありありと愛が感じられる次元へ。
愛に満たされ、愛によってつながっている世界へ。
思考から愛の次元へ。
歌にあるガンダーラのような愛の国へ。
さてさて、そんな国があるのだろうか・・・

それはいくら言葉で説明しても、実感されることはない。
一人一人がその国へ行ってみるしかない。
その国はどこにあるの?
地図にはない。
では、どうやって行くの?
磁石はある。
磁石?
そう、磁石だけは誰もが持っている。
どこに?
ハートの中に・・・

『身を捧(ささ)げ 愛に殉じた 歴史こそ 人の歴史の 無上の至宝(たから)』

『敵もまた 愛する心 あるならば 無差別テロは あり得ないこと』

『信頼も 信じることも ことさらに 必要のない 世界へワープ!』

『ガンダーラ 愛の国は どこにある? 一人一人の ハートの中に』
               
               >>日記 無色透明 『414日目 - 続・信じること』 より

      
  人気ブログランキングへ  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、愛のクリックをお願いします。
ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代

      
関連記事
別窓 | | コメント:0
<<観音菩薩 | いのちの島=屋久島 | 信じること>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

| いのちの島=屋久島 |