いのちの写真と光の言葉
執着
2010-08-15 Sun 19:59
                                    『木霊の森の木霊たち』
木霊の森の木霊たちーkodama-02_10
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『執着』     
  
昨日、屋久島の知り合いが訪ねてきた。
「年賀メールをもらったけど、アセンションて何?」と聞かれた。
少しアセンションの話をする。
しかし、話をするまでもなかった。

彼女は、できるだけ物を手放すようにしているとのこと。
物がない方がスッキリして、気分がいいらしい。
物には執着しない人だった。

そうであれば、アセンションするのは間違いないだろうと話す。
物に対する執着がなければ、軽い。
何ものにも執着しなければ、アセンションするしかない。
地球の波動が上がるにつれて、自然に自分の波動も上がっていく。
殊更(ことさら)に何かをしなくても、無理なくアセンションできる。
執着がなければ、何も問題はない。
あらゆることに執着しないこと。
もちろん、アセンションにも。

執着とは、固定。
本来無常のものを固定させることが執着。
元々無理があるのだ。
だから苦しくなる。
現実と自分の望むこととの間にギャップが生じる。
執着すればするほど、自分が苦しくなる。
自業自得としか言いようがない。
自業とは、執着すること。
自得とは、その結果自分が苦しむこと。
まさにカルマそのもの。
自業の業とは、カルマという意味。
自ら播いた種を自分で刈り取っているだけ。
作用と反作用。

自由に動いているものを止めてしまうことが執着。
自然な動きを縛ることが執着。
縛ってしまえば不自由になる。
縛ったつもりが自分が縛られている。
執着とは不自由と同義語であり、自由の反対語である。

何ものにも執着しなければ、淡々と生きていける。
楽なものだ。
事実を事実として見て、その事実と共に生きる。
何も問題はない。
アセンションしても、しなくても、何も問題はない。
日々、軽やかに生きていけばいいだけ。
何をやるのも自由。
何をやらないのも自由。
自分で決められる。

何もかも決まっていて自分では何も決められないと思っている人は、幸せとは言えない。
どこにも自由がない。
何もない空間には、何の束縛もない。
カルマ?
そんなものがどこにあるの?
あったら見せてほしい。
それはある次元にある。
作用と反作用として存在している。
しかし、それがどうしたの?
特段恐れることもない。
自分が播いた種は、自分が刈り取ればいいだけ。
嬉しい芽が出る時もあれば、嬉しくない芽が出る時もある。
それぞれを楽しめばいい。
嬉しくない芽でさえ、嬉しくないと思わなければ、別にどうということもない。
単なる事実と思えば、それで済んでしまう。
嬉しくないと受け止めるパターンを改めればいいだけ。
どんな事態が起きても、冷静に対応していれば、そんなに動揺しないようになっていく。
まあ、一呼吸置いて、落ち着いてやればいい。

物にも地位や名誉にも、プライドや自分自身にも執着しない。
執着している自分にも、執着しない。
執着している自分に気づいても、自分を責めない。
自分を批判したり非難したりしない。
自分を批判したり非難したりすること自体が、既に自分に執着している証拠。
執着している自分に気づいたら、ただその執着を手放す。
ただ握り締めている指を離せばいいだけ。
離せば自然に落ちていく。
意識的に放下するまでもない。
手離せばいいだけ。

何もない無色透明の空間は、自由。
束縛するものは何もない。
執着するものがないから。
執着するが故に不自由になる。
何も執着しなければ、自由は元々そこにある。
執着が人を不自由にする。

何も持たないから、何でもできる。
何かに囚われると、その途端に不自由になる。
肉体や記憶やカルマや、様々な制約はある。
それらも、そのまま認める。
それでも人は自由。
何も束縛するものはない。
ただ肉体があり、記憶があり、カルマがあるだけ。
それらのものに囚われることはない。
ただ事実を事実として認めれば、人は自由に生きられる。

執着がない方が楽に生きられる。
でも、執着しないことに執着したら、元も子もない。
執着があったら、それをそのまま認める。
まだ持っていたかったら、持っていてもいい。
手放したかったら、手放せばいい。
どちらでもいい。
それが自由だ。

何もない絶対自由の空間がある。
そこには自由というもの自体が存在しない。
自由以外にはない空間では、自由はないに等しい。
その絶対自由の空間から相対自由が生まれる。
選択肢が発生する。
執着する自由と、しない自由。
いったん執着しまくって、それから解放されて徐々に自由になる。
比較による自由は、相対的な自由。
絶対的な自由は、自由という言葉さえ存在しない次元。
その絶対的な自由の中にいて、相対的な自由の世界を生きる。
空の中にあって、色の世界を生きる。
自由も不自由もまたよし、という世界を生きる。

『執着を してもいいよと 認めれば 半分ぐらいは 執着も消える』

『執着を 見守りおれば 執着の 心もゆるみ 消えてゆくのみ』

『絶対の 境地に立てば 相対は 海の波間に 浮かぶ白波』

               
                  >>日記 無色透明 『367日目 - 執着』 より

      
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