いのちの写真と光の言葉
不運
2015-08-16 Sun 09:01

次のようなコメントが届いた。

「自分の思ったようには生きれないこと多いです。
くじ引きといっても、あてずっぽうというのでもない。
前向きにこうしようと一応プランは練る・・・としても、
その通りになかなかいかない。
何とか、進むと横やりもある。
それを、不幸ととるか、おもしろいととるかってことはあっても、
自分の想いを押し通して生きるのは難しい。
まして、自分がしたくもない戦争に、自国が巻き込まれ、
空からやたらミサイルが落ちてくる状況にいて、
自分の人生を如何にクリエイトできるでしょう?
そういう、ついていないというか、不運というか、
どうしようもない状態ってあると思う。
この人生は、こうであったが、
次なる世界でも、周りに翻弄されざるを得ないのが続くのは
救いがないとやはり思うのです。」

「自分の想いを押し通して生きるのは難しい」

押し通すことはない。
自分の思い通りに生きればいいだけ。
素直で真っ直ぐならば、自分の思い通りの人生が展開する。
でも、ほとんどの人は素直でも真っ直ぐでもない。
思いが複雑に錯綜している。
だから、自分の思ったとおりの人生にならない。
ただ、それだけのこと。

多くの人は、人生は自分の思い通りにはならないものと諦めている。
まさに徳川家康の心境になっている。
人生は重き荷を負うて生きるがごとし・・・
そう思い込んでいれば、思い込んだ通りの人生になる。
人生は望み通りになると思えば、そのようになる。
そのようになるしかない。

実際には、過去の思いが現実に反映してくるので、タイムラグがある。
しかし、最終的には思った通りの人生になる。
なるしかないのだ。
思いが現実を創る。
それ以外に現実を創り出す要素はないのだから。
それが大原則なのだ。

先入観や偏見を捨てること。
人生は思った通りにはいかないという思い込みを手放すこと。
そうすれば、現実が変わる。
人生を自分の望むようにクリエイトできるようになる。

自分の人生を自分の手に取り戻そう。
自分の人生を訳のわからないものに支配させるのはやめよう。
しっかりと、はっきりと、自分の人生は自分が決めると決心する。
そうすれば、自分の人生になる。
それまでは、あなたまかせの運命に翻弄される人生だ。
それでは自分の人生であって、自分の人生ではない。
それも悪くはない。
自分でそれを選ぶのならば、何も言うことはない。
ただ、身の不幸を他の人や世間のせいにしていたのでは、
一生浮かばれることはない。
死んだ後も、浮かばれない。
浮かばれないのに、浮遊霊になってフワフワと浮いている、この不思議?

「まして、自分がしたくもない戦争に、自国が巻き込まれ、
空からやたらミサイルが落ちてくる状況にいて、自分の人生を
如何にクリエイトできるでしょう?」

そんなことを言ったら、戦争を止めることも、平和を実現することもできない。
何もできずに運命に翻弄されるだけ?
それだったら、確かに不運としか言いようがない。
どのような状況であれ、それを身の不運と嘆いた途端、
自分の人生を放棄したようなものだ。
「不運」というのは、自分のせいではないと宣言しているようなもの。
今の自分の状況は、何かのせいなのだ。
そう言った途端、自分の運命は自分の手から他人の手に渡ってしまう。
身の不運を嘆いている限り、幸せになることはできない。
それは自分の人生を自分でクリエイトできる権利を放棄したようなものだから。
自分の人生を他人のせいにしている限り、自分の思うような人生はやってこない。
それは自分の人生を他人に任せているようなものだ。

都合の悪いことは、みんな他人のせいにすることによって自己正当化する。
惨めな自分を認めたくないので、みんな世間のせいにする。
でも、それは一時しのぎに過ぎない。
結局、最終的には自分が更に惨めになるだけだ。
その状況から反転する機会を先に延ばすだけのこと。
惨めな時は、惨めなままでいるがいい。
そうすれば、陰極まれば陽となる。
すべては反転する。
しかし、すべて他人のせいにして自己保存を計っていたら、
反転する機会をみすみす逃してしまう。

事実をただありのまま受け止める。
誰のせいにも、何のせいにもしない。
ただ事実と共にいて、自分の生きる道を見極める。
自分の望む現実にシフトする。

人のせいや世間のせいにすることは、目の前の事実から目を背けることだ。
運命のせいにすることは、人生を切り開く努力を放棄することだ。
不可抗力と諦めることは、自分の無限の可能性を封じることだ。
どのような状況にあっても、冷静に自分の道を切り開く。
慌てなければ、自分を見失わなければ、道は必ず開く。
どうにもならないということはない。
それは、どうにもならないと思い込んでいるだけのこと。
最後の最後まで、ギリギリまで道を求めれば、道は必ず開く。

求める行為そのものが道を開く。
求めるという行為そのものに道が伴っているのだ。
求めることは同時に道が開くことでもある。
それは同時に存在するものなのだ。
求める行為だけが存在するということはない。
求めると同時に道も存在する。
陰だけがあることはない。
陰があるところには必ず陽がある。
陰陽で一組なのだ。

冷静であること。
自分を見失わないこと。
それさえ忘れなければ、必ず道は開く。
道が開くのではなくて、自分が道を開くのだ。
自分のエネルギーによって、自然に道が開くのだ。

諦めたら、そこですべてが終わる。
他人のせいにしたら、すべてがそこでストップする。
自分で道を開く可能性が消えてしまう。
冷静に、クリアーに・・・
見えない道は目の前にある。

「この人生は、こうであったが、次なる世界でも、周りに翻弄されざるを
得ないのが続くのは救いがないとやはり思うのです。」

周りに翻弄されざるを得ない?
翻弄されると思っている限り、翻弄されるだろう。
翻弄されるのを拒否し、自らの人生を歩む。
そう決意するまでは、翻弄人生が続く。
翻弄されて翻弄されて、浮き草のような人生を歩むといい。
そうしたければ、それも可能だ。
しかし、それは世間のせいでも不可抗力でもなく、自分が選んだ人生。
だから、それを変えることもできる。

世間のせいであり不可抗力であると認定すれば、
その途端、浮き草人生となる。
今生だけではなく、何回生まれ変わっても変わらない。
自分の思い込みが変わらない限り、翻弄人生が変わることはない。
運命であり宿命であると思っている限り、同じことの繰り返し。
無限に生まれ変わっても、無限に同じことの繰り返し。
それでは確かに救いようがないかもしれない。
しかし、真に救いようがないのは、救いがないと思い込んでいる心の方だ。
心が変われば救われる。
心が変わらない限り救われることはない。

周りに翻弄されるとか、誰か他人のせいとか、
世間や運命のせいにしている限り、被害者をやっていることになる。
被害者をやっている限り、幸せになることは絶対にあり得ない。
それはほとんど自虐的な行為だ。
自分を弱者にすることによって、自分を正当化する。
今の状況を他人のせいにすることによって、自己の責任を免れる。
単なる自己正当化ゲームなのだ。
自分のせいにしたくないので、他人のせいにしているだけ。
自分の人生に自分で責任を取らない限り、人生は変わらない。
人のせいにしている限り、周りに翻弄されるだけだ。

また次のような質問もあった。

「宇宙の元の元にひとつになるのに覚悟とか、やっぱりいるのですか?
そういうものだって、わかるだけでいいってわけにはいかないんですか?」

真にわかれば、覚悟はいらない。
真にわかれば、人生が変わる。
ただ、そのプロセスの中で、独り立つ時に覚悟みたいなものが
必要になる時があるかもしれない。
何にも依存しないで、独りあることができるだろうか。
森羅万象の中で、森羅万象を忘れ、独りあることができるだろうか。
もしそれができるならば、覚悟はいらない。
何もいらない。
既に、そこにはすべてがある。

宇宙の中で独りある時、宇宙がひとつになる。





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