いのちの写真と光の言葉
主体
2015-07-10 Fri 18:46
次のようなコメントがあった。

「私、『今に生きる』を実践してるかも。
ナチュラルヒーリングのコメントで、また朝陽と夕陽を間違えた。
以前、おんなじマチガイをして、朝陽には輝きがある!って気付いたのに・・・
性懲りもなく、『輝いてる夕陽ですね!』なんてシャアシャアと書いてしまった。
これって、過去に囚われていない証では?
・・・・単に物忘れがひどいだけか。

やっぱり今だけにフォーカスしているだけでなく、後頭部に意識を置いて持ち駒も活用できなきゃ日々の体験に意味がないかな。
今に生きてても、顔に意識があるだけでは、過去に囚われてるのとドッコイドッコイって事でしょうか?」

たいした間違いでもないし、冗談半分のコメントだが、重要なポイントも含まれている。
今に生きるということは、過去を忘れるということだろうか。
しかし、過去を完全に忘れてしまえば、今に新鮮に出会えるけれども、同じ過ちを犯すことにもなりかねない。
過去は記憶しておくべきか、それとも、完全に忘れるべきか・・・

記憶しておかねば困ることもある。
電車やバスの乗り方は記憶していないと、その都度聞かなければならない。
お金の価値や使い方も記憶しておく必要がある。
それ以外にも、ガスや水道や電気の使い方。
時計や信号の見方、文字や車の運転・・・
パソコンの使い方も記憶していないと、日記を読むことさえできなくなる。
そういう意味では、記憶は必要ということになる。
いくらコンピューターが発達しても、ある程度の記憶は自分の中にキープしておく必要がある。
記憶なしでは生活できないと言っても過言ではない。

では、何でもかんでも記憶していればいいかというと、そうとも言えない。
過去の忌まわしい記憶を、いつまでも大事に持っていても仕方がない。
屈辱の記憶も栄光の記憶も今を生きるのを妨げる。
悲しみの記憶をいつまでも持ち続けていれば、幸せな人生にはならない。

要は、事実としての記憶は問題ないが、自分の感情や思い込みが付加された記憶は人生の障害になり得る。
評価され、解釈され、自我となった記憶はトラブルの元になる。
それは自我の価値観を通過した記憶ということだろうか。
事実を事実として記憶されたものは、特に問題はない。
しかし、自我を通って記憶となったものは、今に白紙の状態で出会うことを妨げる。

今を生きるためには記憶がいる。
しかし、記憶に支配されてはいけない。
過去の恐怖に支配されて、今を恐れても何の意味もない。
事実を直視することを忘れ、事実を過去の目を通して見て恐れおののく。
事実だけを見ればいい。
恐れる必要はない。

記憶されているものは似たような状況の時に思い出される。
電車の切符を買う時には、それが役に立つ。
その時は記憶は有効に機能する。
ところが、過去に失敗したり、深く傷ついたり、事故に遭ったりすると、似たような状況になった時に、それが連想されて心が動揺し、同じような失敗を繰り返したりすることもある。
その場合は、記憶は人生の妨害要因になる。
また、以前に会った時にイヤな印象を持つと、次に会った時も以前の記憶で見てしまう。
それは先入観や偏見となり、今の事実をありのままに見ることを妨げる。

記憶は役に立つ場合もあれば、逆の場合もある。
役に立つ記憶は保持しながら、役に立たない記憶には縛られないことは可能だろうか。
本当はホームワークにしたいところだけれども、現在も一つ進行中なので、やめておくことにする。

記憶に支配されない。
記憶の虜(とりこ)にならない。
記憶は生かして使う。
記憶は必要なツール。
でも、記憶に振り回されない。
それは過去のデーター。
単なるデーター集。
そんなものに振り回されても仕方がない。
自分の主体性をしっかりと持つ。
記憶に支配されないと明確に決める。

自分の意識の中の一部に記憶の領域を保持する。
しかし、記憶に意識のすべてを明け渡さない。
正確に言うと、記憶を元にした思考に自分の意識を奪われない。
思考の独り歩きをストップさせる。
思考の暴走を許さない。
しっかりと記憶と思考の役割を理解する。

記憶も思考も生きるには必要なもの。
しかし、それらがすべてではない。
それは意識の中の一部。
自分の主体を思考に置かない。
思考を超えた意識の主体を確立する。
思考や記憶は意識の一部に留める。

大きな主体が小さな思考や記憶を包み込む。
まるで同心球のように。
大きな意識が小さな思考や記憶を見守る。
思考や記憶を超えなければ、思考や記憶に使われる。
主体であるべき意識が、従体になってしまう。

しっかりしないと、妄想の中で自分を見失う。
意識をクリアーに保つ。
それには、まず自分自身の意識の動きを見守る必要がある。
自分自身を理解しないことには、思考や記憶から自由になることはできない。
なぜなら、「私」=自我とは思考や記憶に他ならないから。
それが今の意識の主体になっているものだから。

思考や記憶中心の主体から、それらを超えた主体に切り替わる必要がある。
そうならない限り、いつまでも思考や記憶に振り回される。
自由はどこにもない。

自分自身を見守ることによって、思考や記憶に支配されない主体が芽生える。
見守る意識が育つ。
それは思考や記憶の次元を超えている。
主体が思考や記憶の次元からシフトする時、時代が変わる。
戦争と悲惨の歴史が終わる。
ハートベースの真の平和の時代が来る。

それは一人一人の生き方にかかっている。
メシアは現れない。
一人一人がメシアになるしかない。
一人一人が自分自身から自由になるしかない。
自分を縛っているものは、自分以外にはいない。
自分を縛っているものは、思考と記憶が編み上げた思い込みという縄。
それが自分をガンジガラメにしているだけ。
まさに自縄自縛(じじょうじばく)。

その縄を解(ほど)くには、自分自身を理解するしかない。
思考と記憶が中心になった自分という意識を深くわかるしかない。
思い込みワールドでもがいている自分を深く深く理解する。
それらが真に理解され、思考や記憶から自由になった時、新しい時代が始まる。
今とは違う主体が確立する時、まったく異なる人生が展開する。
それがこれからの楽しみ。

記憶は意識のほんの小さな部分。
思考も意識の一部。
それらは必要に応じて活用するもの。
間違っても使われるようなことがあってはならない。
思考や記憶の奴隷になるのではなく、それらを使いこなす主体になる必要がある。

それらを否定せず、それらを大きく包み込み、見守りながら生きる。
必要に応じて使う。
必要以上に使わない。
けっしてそれらに支配されない。
それらを超えた主体性を確立する。




別窓 | 未分類 | コメント:0
| いのちの島=屋久島 |