いのちの写真と光の言葉
聖書
2011-01-30 Sun 00:10
                                   『木霊の森の水の流れ』
木霊の森の水の流れー26-jan_11
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『聖書』

現在の聖書にあるのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書だけ。
ところが、実際はたくさんの福音書があった。
しかし、それらはローマ・カトリック教会によって異端として退けられた。
イエスには十二使徒以外にもたくさんの弟子がおり、多くの弟子がイエス
の言行録を残した。
その一つが、ユダが残した”ユダの福音書”。

その存在自体は知られていたが、既に失われたものと思われていた。
それが1970年代にエジプトで発見され、買い手が見つからないまま
長い間金庫にしまわれていた。
最近になり、やっと専門家が5年の歳月をかけて解読したところ、意外
な事実が書かれていることがわかった。

イスカリオテのユダは、イエスをローマの手先に売った裏切り者として
知られている。
ところが、この福音書の中では、イエス本人の指示により救済を完結
させるために引き渡したことになっている。
これでは裏切り者とは、まったく逆の立場になる。
ユダはイエスの信頼の厚い忠実な僕(しもべ)であったことになる。
もしこれが事実とすれば、聖書を信じている人々は事実とは逆のことを
信じていることになる。

新訳聖書に書かれているのは、イエスの誕生前後と伝道の歩みだけ。
彼の幼少期や青少年期は書かれていない。
彼はバプテスマのヨハネと一緒に育てられ、インドやエジプトで修行した
らしい。
エジプトの大ピラミッドで最終イニシエーションを受けたと精神世界の
専門書にはある。

最近話題になっているのは、彼には子供がいたという説。
イエスはマグダラのマリアと特別な関係にあり、二人の間には子供が
生まれ、今もその子孫がイスラエルで生きているという。
ローマ・カトリック教会にとっては驚天動地の新説。
なぜなら、ローマ・カトリック教会では、マグダラのマリアは娼婦となっている。
神の一人子であるイエス・キリストが、こともあろうに娼婦と交わり、子供
までつくっていたとなると・・・
イエスに対する信仰そのものが崩壊しかねない。
そのうえ、マグダラのマリアとローマ・カトリック教会の初代教皇である
ペテロとは仲が悪く、いがみ合っていたとか。
それ故に、マグダラのマリアを娼婦に貶(おとし)めた・・・?

実際のところはわからないが、長年に渡って聖書が改編され、修正されて
きたのは事実のようだ。
現在の聖書が唯一絶対なわけではない。
多種多様な福音書があり、それを教会の権力者が自分達に都合のよい
ように改編したり排除したりしてきた。
支配と権力維持に都合のよいように作りかえられたものが今の聖書に他
ならない。
その聖書を何十億という人たちが信じている、この信じがたい現実。

聖書の実態を知らずに、ただ信じ込んでいる世界。
信じることによって、自らの安定を得たいと願う世界。
信じる対象が事実であるかどうかは問わない。
ただ自分が信じることによって救われればいいだけ。
信じる者は救われる?

今回の”ユダの福音書”のように、自分が信じたことと異なる現実が押し
寄せてくる。
その時にどうするか。
しばらくは動揺する。
誰かに相談もする。
そして、最終的には自分流に解釈して納得する。
これは神の試練であると。
信仰が試されていると。
それがこれまでの宗教のパターン。

聖書という固定したものによって、自分の心の安定を得ようとする。
固定しているものを信じることによって、揺れ動く心を安定させようと努める。
それが信仰=信じるということ。
しかし、現実は常に変化している。
2000年前の聖書が現実に適応できるとは限らない。
常に現実から揺さぶられる。
その度に解釈で急場を凌ぐ。
その繰り返し・・・

固定したものを信じても、心のやすらぎは得られない。
心は現実によって常に揺すぶられる。
その度に心は動揺する。
その心の動揺を鎮めるために、無理な解釈を重ねる。
その繰り返しで人生が終わる。

信じることによって、なんとか自分をキープしているだけ。
何かを信じなければ、自分を維持できないだけ。
移り変わる無常の世の中で、不動のものにすがりたい。
すがることによって心の安定を得たい。
信仰とは、弱い心の現れでしかない。
しかし、動機が不安定であれば、結果も不安定になる。
最初の一歩が最後の一歩。
結果は初めからわかっている。

何ものにも依存しない。
何も信じない。
ただ事実と共に生きる。
それができるだろうか。
それができないから、現実から逃避して何かにすがろうとする。
不動であり安定していると思えるものにすがって救われようとする。
不安定なままでいられない。
不安定から安定へ移行したい。
そのために何かにすがる。

しかし、安定していると思ったものは、過去のもの。
過去であるから安定しているだけ。
つまり、死んだもの。
死んでいるから動かないだけ。
信仰とは、死んだものを信じているだけ?

現実は刻々と動いている。
何も固定していない。
何の保証もない。
保証があるのは、信仰の世界だけ。
しかし、それは幻の保証。
ただの思い込み。

救われると思い込んでいるだけ。
それが信仰。
それ以外の何ものでもない。
事実ベースで生きれないから、何かにすがっているだけ。
祈り、寄付、奉仕・・・安定を得るためのギブ&テイク。

自分の足で立ち、自分の手で創り上げる。
しっかりと大地に根を張り、今のエネルギーを感じながら生きる。
何ものにも依存する必要はない。
何ものも信じる必要はない。

子供がずっと親に依存していたら、大人になることはできない。
親が死んでしまった時に、途方に暮れる。
自分の足で立つしかない。
試行錯誤しながら生きていくしかない。
それが人生。

何かに頼ったり、何かに依存したり、何かを信じたり・・・
それは自分の弱さを証明しているだけ。
聖書に限らず、紙に書かれたものに真理はない。
真理は生きている。
生きて今ここにある。
真理は固定していない。
いきいきと生きている。

それは信じることによっては実感できない。
信じること=思い込みを外さない限り、真理は体感できない。
信じることは、思いの世界。
思い込みワールドの中で、信じたり信じなかったりして動揺しているだけ。
思い込みワールドの中にいる限り、真理は遠い。
真理は、思い込みワールドの外にある。

信じたければ、信じてもいい。
それで救われると思うのなら、そうすればいい。
でも、それは単なる思い込み。
真実ではない。
ただ幻にすがっているだけ。
生きている真理は、人が書いた聖書の中にはない。
真理は今ここに生きてある。
          

      
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