いのちの写真と光の言葉
出会い
2010-10-30 Sat 07:40
                                           『霧の山々』
霧の山々ー28-sep_10
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『出会い』       

次のような話を聞いた。
住み慣れた家を出てほしいと言われた。
突然のことで言葉も出ない。
大家さんの方に、お金がいる事情ができたらしい。
借家を売ってお金をつくるとか・・・

親戚同然に親しくしていたのに・・・
あんなに親切にしてあげたのに・・・
お互いに信頼関係があると思っていたのに・・・
どうして?

ショックは、やがて不信となり、怒りに変わる。
私はどうなるのよ。
自分のことしか考えていないの?
こちらの立場も考えてよ。

信頼を裏切られたという気持が、ふつふつと沸いてくる。
さびしくなり、悲しくなり、やがて、恨みや憎しみとなる。
もう信じられない!
誰も信じられない!
信じれば裏切られるから、もう二度と信じない!
悲しい決意をすることとなる。

悲しみと怒りが収まらぬまま、泣く泣く引越をする。
引っ越した後は、どうなるだろう?

この人は、「ありがとうございます」と唱えることをやっていた。
「ありがとうございます」と何回も唱えると良いことが起きると友達から聞いて、
一時期、一日中唱えていたこともある。
しかし、この事件が起きた時、「ありがとうございます」は一言も出てこなかった。

もし、家を出るように言われた時、「ありがとうございます」と反応していたら?
どうなっただろうか。
最終的には家を出なければならない。
それは変わらない。
しかし、大家さんとの友情が不信に変わることはなかった。

引っ越した先ではどうだろう?
「ありがとうございます」と言って引っ越すのと、恨みや憎しみを抱いて引っ越す
のとでは、引っ越した後は同じだろうか。
もしかして、今の自分にとって引っ越すことが必要だったのかもしれない。
運気を転換するためには引越が必要な時期だったのかもしれない。
そうなると、大家さんは、そのために一役買ってくれたことになる。
それにもかかわらず、恨みと憎しみだけを残して去ってしまった・・・

恨みと憎しみを持って新居に引っ越せば、恨みと憎しみが輪廻する。
恨みと憎しみから始まった新居での生活は、恨みと憎しみのエネルギーに覆われる。
もし、「ありがとうございます」で引っ越していたなら、新居もまた「ありがとうござい
ます」でスタートする。
感謝のエネルギーには感謝のエネルギーが引き寄せられる。
「ありがとうございます」「ありがとうございます」の暮らしになる。

起きてくる事象を自分の狭い了見で判断し、喜んだり苦しんだりする。
事実は事実。
喜びも苦しみも伴ってはいない。
それを自分の都合で断定する。

事実には、良いも悪いもない。
ただ淡々と受け入れる。
そして、対応を考える。
間違っても怒りや恨みや憎しみで反応しない。
そういうもので反応すれば、そういうものが輪廻を始める。

感謝で反応すれば、感謝が回り出す。
幸せになりたかったら、その方がいい。
しかし、幸せになりたいからそうすると、なんとなく御利益宗教くさくなる。
人は幸せになりたいと思って行動することで、幸せになれるだろうか。

幸せとは何だろう?
それは自分の望みが実現することだろうか。
人生の目的を達成することが幸せだろうか。
しかし・・・

人生の目的を達成した時、何が去来するだろうか。
達成感と共に何が待っているだろうか。
そこに待っているものは、満足感と共に虚無感ではないだろうか。
目標を達成すれば、それで終わる。
虚無感を克服するためには、次の目標を設定するしかない。
それには果てがない・・・
その先にあるものは?

その先にあるものは、徒労感だろうか。
けっして満足感や、間違っても幸福感ではない。
幸せは、そんなところにはない。
遠い遠い未来に幸せはない。
では、どこに?

人は感謝のエネルギーに満たされる時、幸せを感じる。
人は愛のエネルギーに満たされる時、幸せを感じる。
人はハートのエネルギーに満たされる時、幸せを感じる。

幸せは遠くにはない。
幸せがあるのは、ハートの中。
自分自身の中に幸せの源がある。
外に青い鳥をさがしに行っても、永遠に青い鳥を見つけることはできない。
青い鳥は自分の中に住んでいる。

ハートと共にいる。
ハートベースで生きる。
それが幸せをもたらす。
但し、それは結果。
けっして目的ではない。

幸せを目的にすれば、幸せにはなれない。
それでは、幸せを求める果てしない不幸せが続くだけ。
幸せは追求する対象ではない。
ただハートと共に生きる時、そこにあるもの。

幸せを目的にすれば、苦しみが待っている。
それは幸せを得られない苦しみを生み出すだけ。
自分の幸せだけに目が行けば、周りの人は不幸になる。
幸せになりたいためにハートベースで生きれば、御利益宗教になる。
それは自我のパターン。

何も求めない。
ただハートベースで生きる。
その時にだけ、幸せになる可能性がある。
ギブ・アンド・テイクでは、幸せにはなれない。
ハートベースで生きますから幸せをくださいでは、取引の幸せしかやって来ない。

事実を理解する。
この世の成り立ち、人の心の構造、そういうものを深く理解する。
理解したら、自然な行為がある。
作為的な行為は、人を幸せには導かない。
自然な行為のみが、人を幸せに誘(いざな)う。

起きてくる事象に、あなたは感謝をするだろうか。
それとも、黙って素直に受け入れるだろうか。
あるいは、反発し抵抗するだろうか。
その反応の仕方によって人生は変わってくる。

感謝をして受け入れれば、感謝のエネルギーが輪廻する。
「ありがとうございます」「ありがとうございます」の世界になる。
事実を事実として黙って受け入れれば、クリアーな世界が広がる。
思いの世界を超えた次元で生きるようになる。
抵抗し、怒り、憎しみ、恨みなどで反応すれば、それらのエネルギーが輪廻する。
延々と悲しみや苦しみの世界が続く。

どれでも選択できる。
選択は自由。
しかし、選択には結果が伴う。
そのプロセスを理解することだろうか。

朝、今日という日に出会う時、あなたはどんな反応をするだろうか。
初めての人に出会う時、あなたはどんな反応をするだろうか。
初めての事象に出会う時、あなたはどんな反応をするだろうか。

実は、今日という日も、人も、事象も、同じということはない。
すべてが一期一会。
瞬間瞬間が最初で最後の出会い。
あなたは、今この瞬間にどのように出会うのだろうか。

感謝で出会うのだろうか。
事実ベースで出会うのだろうか。
それとも、怒りや憎しみで出会うのだろうか。
どのような反応であれ、あなたから発するものが輪廻していく。
それが地球を包んでいく。
それがあなたの運命を決め、人類の運命を決める。

運命は、どこか遠くで決まる訳ではない。
今のあなたの思いと行いが、運命を決めていく。
どのような意識で現実と出会うか。
その瞬間瞬間の出会いが、あなたの人生を決める。

心して、今を生きた方がいい。
心して、人と出会った方がいい。
心して、事象と出会った方がいい。
その出会い方が、あなたの運命を決めていくのだから・・・


『自(みずか)らが 出した波動が 輪廻する 善因善果 悪因悪果』

『出会い方 それが人生 決めていく いかに出会うか それが人生』

『起きて来る 事実に善悪 何もなし 判断するから 振り回される』

『目の前の 小さな利害で 判断し 一喜一憂 反応人生』

『起きてくる 事象をそのまま 受けとめて 判断なしに 素直に生きる』

『刻々の 出会いが人生 決めてゆく どんな心で 出会いを持つか』

『喜びで 出会えば喜び 輪廻する 怒りで出会えば 苦しみ巡る』

『感謝して すべてを受けとめ 生きる時 感謝の輪廻 幸せ運ぶ』

『人類の 調和と平和 願うなら 日々の出会いが 大切になる』

『幸せを 求めて得られる 幸せは 自我がつくった この世の快楽』

『幸せは 気づかぬうちに 訪れる 追い求めれば 逃げてゆくだけ』
              
               >>日記 無色透明 『527日目 - 出会い』 より

      
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感受性
2010-10-25 Mon 00:09
                                    『霧のもののけ姫の森』
霧のもののけ姫の森ー24-oct_10
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『感受性』       

感受性とは、単なる受け身ではない。
単なる受け身状態では、ボンヤリしているだけ。
心に隙があるので、簡単に傷ついてしまう。

感受性が豊かであるということは、自分の波動が精妙であるということ。
自分の波動が精妙であればあるほど、細やかに感受できる。
自分の波動に応じたものが感受できるだけ。

五感にしても、感度の違いがある。
アフリカの原住民には、視力8.0という信じられない視力の持ち主もいる。
聴力にしても、都会人では聞き分けられないものを遠くから聞くことができる。
臭覚も、排気ガスで鈍感になっていなければ、微妙なものが嗅ぎ分けられる。
味覚も、合成添加物や化学調味料に犯されていなければ、体に悪いものが
わかるはずだ。
皮膚感覚も、厚着をしていなければ、ぜんぜん違ってくる。

誰もが持っている五感でさえ、かなりの程度の差がある。
五感を超えた感受性となると、それこそ千差万別。
敏感な人から鈍感な人まで、百人百様。

食べ過ぎたり、疲れていたり、夜更かしすると、感受性は鈍くなる。
思い込みが多くても、感受性は鈍る。
思考が常時動いていても、感受性は鋭敏になれない。
深い感受性のためには、頭がクリアーで静かである必要がある。
自分自身がエネルギー的に充実していないと、高度な感受性は望めない。

感受性とは、自分の中から精妙なエネルギーが溢れ出し、それが精妙なものを
キャッチする感じ。
自分の中が荒っぽくては、精妙なものを感受することはできない。
いかに自分の波動を細やかにするか、いかに自分の心の中を静かにするか、
感受性はそれにかかっている。

肉体も感情も思考も浄化され、クリアーであることが求められる。
あらゆる条件がそろわないと、深い感受性は期待できない。
感受性は、まさに自分の意識の深さに比例する。
精神が細やかであればあるほど、感受性も細やかになる。
豊かな感受性を求めるのであれば、精神を研ぎ澄ます必要がある。
クリアーで透明な精神状態の時、三次元を超えた豊かなものが感受できる。

意識の広がり。
自分から溢れ出すエネルギーが、いろいろなものを感受する。
広がりゆく意識が、いろいろなものに出会い、感受する。
その次元にいるということ。
その次元にいるから、その次元のものが感受できる。
すべては、自分の意識しだい。

それは五感も変わらない。
視力について言えば、車のヘッドライトが当たる範囲のものが見えるようなもの。
自ら光を出して感受している。
感受性とは、自らエネルギーを出して感受するもの。
単なる受け身ではなく、内から溢れるエネルギーと外のものとの出会い。

内なるエネルギーが充実し、それが自然に溢れ出す。
それが様々なものと出会い、細やかに感受していく。
感受性に必要なものは、精神の静かな充実。


『溢れ出す 肌理(きめ)の細かな エネルギー 触れ合うものを 感受していく』

『精妙な 内から溢れる 波動こそ 深い感受が 起きる源』
               
                    >>日記 無色透明 『490日目 - 感受性』 より

      
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瞑想入門
2010-10-18 Mon 10:44
                                           『木漏れ日』
木漏れ日ー14-nov_10
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『瞑想入門』       

昨日のコメント欄で、瞑想の入門コースのリクエストがあった。
瞑想について、基本的なことを書いてみる。

そもそも瞑想とは何だろう?
瞑想というと、座禅を思い浮かべる人も多いだろう。
最近はスポーツ選手のメンタルトレーニングでも瞑想とかを用いる。
瞑想にもいろいろあるのだろうか・・・

自分自身の中に、宇宙の始まりも終わりもある。
自分自身の中に、すべてのすべてがある。
愛も光もいのちも、自分自身の中に満ちている。
宇宙の本質が自分自身の中にある。
そのことを真にわかるための方法が瞑想なのかもしれない。

つまり、瞑想とは、自分自身を深くわかること。
深く、深く、自分の本質を実感すること。
それが瞑想ということではないだろうか。

自分自身を深くわかるには、自分自身と一緒にいなければならない。
自分自身を深く、深く感じていかなければならない。
そのプロセスが瞑想とも言える。

それは自分自身とひとつになる道。
真の自分自身へ還る道。
真の自分を自覚する道。

瞑想は難しくはない。
ただ自分自身と一緒にいればいいだけ。
深く、深く一緒にいればいいだけ。
自分の中に深く入り、自分自身を体験する。
自分の奥の奥は、宇宙に繋がっている。
そこは自他の分離のない世界。
無限の無限の世界。

瞑想のための方法は、たくさんある。
ヨガ、仏教、道教、他の宗教にもある。
オーソドックスなもの以外でも、瞑想法の本はたくさん出ている。
しかし、基本を間違えないことだろうか。

超能力や神秘体験をめざす瞑想は、自我を強化してしまう。
瞑想は、自我からの自由を意味するとは限らない。
最初の目的を間違えれば、深い闇の世界に入り込むこともあり得る。
最初の一歩が、最後の一歩。
自分自身を深く深くわかるというベースを忘れないことだろうか。

ロウソクの炎を見つめたり、呼吸に意識を集中したり、マントラを唱えたり、
イメージを思い浮かべたり、音楽に集中したり・・・
瞑想のためのメソッドはたくさんある。
しかし、メソッドを実行すると、テクニックに気を取られ、瞑想そのものが
表面的なもので終わりやすい。
意識が外に向くので、深く内面に入れなくなる可能性が高い。

足を組むとか目を半眼にするとか、形式に囚われると目的を忘れてしまう。
背骨が真っ直ぐであれば、後のことは自由でいい。
静かに目をつぶって自分自身と一緒にいる。
但し、途中で誰かが邪魔することのないように、事前に話しておく必要がある。

静かなところで、一人座る。
座布団でもイスでもかまわない。
自分自身と一緒にいる。
自分の中から、いろんな思いが浮かんでくる。
それを静かに見守る。

一切、判断も解釈もしない。
ただ出て来るものを静かに見守る。
見守ること以外は何もしない。
それが瞑想。

最初は、5~10分ぐらいから始めればいい。
長ければいいというものでもない。
気がついたら眠っていたということもあるかもしれない。
眠り込むほど長くやらないことだろうか。
短めに背骨を延ばして座ればいい。

無念無想になるということは、当分期待しない方がいい。
普通は、表面意識が静かになれば、潜在意識の中に溜まっていたものが
どんどん出てくる。
それは果てしないほど出て来る。
しばらくは、それを見守るしかない。
それが何年続くか、何十年か何生か、なんとも言えない。
それは個人差があるので、短くて済む人もあるかもしれない。
今生は出続ける人もあるかもしれない。
やってみなければわからない。

何も保証のない世界。
一人一人の人生が異なるように、潜在意識の中にあるものも異なる。
その量も質も異なる。
それは自分自身で確かめるしかない。

いずれにしても、静かに自分自身と一緒にいる。
そうすることによって、これまで溜め込んでいたものが解放される。
解放されるにつれて、普通は楽になる。
しかし、出て来るものに囚われれば、苦しくなることもある。
そこで瞑想をやめてしまえば、苦しみが続くことになる。

パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。
箱を開けるまでは、なんとか誤魔化して生きていくことができた。
でも、パンドラの箱の中身を見てしまうと、恐怖に襲われる。
瞑想を始めるなら、自分の中にあるものを洗いざらい直視し、すべてクリアー
にするくらいの覚悟はいるかもしれない。
その覚悟がないのなら、最初からやらない方がいい。
やらなくても、日常生活の中で、いやでも出て来るから・・・

瞑想というのは、座ってやるだけのものでもない。
日常生活も、基本的に瞑想と変わらない。
いろいろな状況(縁)にふれ、潜在意識に溜まっていたものが反応として出て来る。
瞑想しようとしまいと、出て来ることに違いはない。
出てきた時に、反応に呑み込まれて更に潜在意識の蓄積物を増やすか、
それとも、その反応を見切って、囚われから解放されるか。
それは基本的に瞑想と変わらない。

日常生活でも出てくる反応を、瞑想の中でも出しているだけのこと。
瞑想の中で出していけば、それだけ日常生活のトラブルが防げる。
瞑想の中で潜在意識が解放されれば、日常生活は楽になる。
瞑想中の見守る意識は日常生活でも持続するようになる。
やがて、常住坐臥が瞑想となる。

何も難しいことはない。
気張ってやることもない。
瞑想とは、リラックス。
緊張の逆。
頑張ろうとすれば緊張する。
楽にやることだ。

自分と一緒にいて、どんどんリラックスしていく。
自分自身をどんどんゆるめていく。
静かに見守りながら。
ただただ自分自身と一緒にいる。
ゆっくり背中や後頭部の方から自分を見守る感じ。
意識を背後の方へ持っていく。

最初から長くやることはない。
短めで持続する方がいい。
だんだんやり方がわかってくる。
決められた時間帯というものもない。
静かな時間であれば何時でもいい。
ただ時間帯によって感じるものは違ってくる。
時間帯のエネルギーというものがあるから、自分で注意してみるといいだろう。

以上だけれども、基本は自分自身と一緒にいるということ。
それは瞑想中も日常生活も変わらない。
静かに自分自身を見守っている。
それが大原則。

ゆっくり、楽にやればいい。
瞑想は集中ではない。
集中は緊張。
緊張していては、潜在意識はほぐれない。
潜在意識がほぐれなければ、その奥にあるものは出て来ない。
背骨を真っ直ぐにして、後は楽に自分自身を見守っていればいい。

ゆっくり、楽にというのも、日常生活と異ならない。
瞑想と日常生活というのは別々のものではない。
基本的に違わない。
生きるスタンス。
静かに自分自身を見守りながら生きる。
それが次の時代の生き方。

自我オンリーの生き方から、”個であり全体であり”という生き方へシフトする
ためのスタンス。
まず自分自身を見守る。
自分自身を見守ることによって、意識のポイントが自我から見守る方へシフト
していく。

瞑想も日常生活も同じ。
見守ることによって自我を超えていく。
瞑想は、それを集中的にやるだけのこと。
日常生活でも必要なこと。
両方やれば相乗効果がある。
より早く潜在意識が浄化される。
それは、人生を楽に生きれるということを意味する。

生きるスタンス=見守りスタンス。
瞑想も日常生活も変わらない。
見守り続けていくしかない。
その先に真実の自分自身が待っている。


『瞑想も 日々の暮らしも 変わらない 自分自身を やさしく見守る』

『難しい ことはいらない 瞑想は 自分自身と 一緒にいるだけ』

『瞑想は 溜まりに溜まった チリ・ホコリ 見極めながら 掃除する道』

『真実を 探し求めて 瞑想は 自分自身の 中へ分け入る』

『真実は 自分の外に ありはせぬ 自分自身の 中にこそある』

『瞑想は 自分自身の 闇を超え 闇の彼方の 光に出会う』

『瞑想は 自分の中へ 分け入って 自分を超えて 広がりゆく道』

『瞑想は 自分の中に 真実も 愛もいのちも あると知ること』
               
              >>日記 無色透明 『478日目 - 瞑想入門』 より

      
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思考のコントロール
2010-10-14 Thu 20:21
                                     『苔の間を流れる水』
苔の間を流れる水ー24-oct_07_10
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『思考のコントロール』       

昨日、次のようなコメントが届いた。

「何もしない事が...それがどうしてもできない。
見極めているつもりでも実は『思考』が働いています。
瞑想していても『思考』しているようです。
いったいどうしたら『思考』をコントロールできるのでしょうね?」

思考をコントロールすることはできない。
なぜなら、コントロールしようとしているのも、また思考だから。
それでは思考の堂々巡りになってしまう。

思考のコントロールは諦めるしかないだろう。
思考が動いている間は、動いているままにしておくしかない。
もし、思考を無理に止めようとすれば、必ず反動が起きる。
無理に抑圧すれば、潜在意識の中に歪んだ形で蓄積される。
それはかえって意識のクリーン化を難しくしてしまう。
抑圧し続ければ、無気力になるか、気が狂うか・・・
いずれにしても、よいことはない。

思考は使うこと。
そして、マスターすること。
そして、囚われないこと。
抑圧しても、思考力が減退するだけ。
抑えない、けれども負けない、理解するだけ。
感情を扱うのと同じ原理原則。

自分の中に、たくさんのこだわりや囚われや執着がある間は、いろんな
反応が起きてくる。
思考が自動的に反応する。
まずは、それを認めるしかない。
常に事実と共に生きる。

出て来るものは、出してあげるしかない。
但し、出て来るままに翻弄され、自分を見失うことのないように。
見守りながら出していく。
それをやり続けていると、気がつかないうちに見守る意識が働くようになる。
無意識のうちに見守っている状態になる。

自宅に帰って、静かに今日の自分の反応を反芻(はんすう)する。
どうしてあのような反応が出てきたのか、もう一度冷静に振り返る。
自分の状態をフィードバックする。
客観的に見つめ直す。
そして、その原因を突き止める。

そういう作業を繰り返していく間に、見る意識が育っていく。
その作業中に思考が動いてもかまわない。
あれこれ考えて、気づく。
それでいい。
思考は道具。
使いこなせばいいだけ。

ポイントは、見つめながら思考を使うこと。
思考の独り歩きをさせないこと。
つまり、考え過ぎて自分を見失いそうだったら、見つめていないということ。
それは思考の空回り。
それでは永遠に思考から自由にはなれない。
見つめながら考える。
常に自分自身を見つめるという姿勢が必要になる。

瞑想中も思考が動く?
動く思考を見つめていればいい。
最初から無念無想になれるわけがない。
潜在意識に溜まっていた、いろんな思いが雲霞(うんか)の如く出て来る。
それが普通。
問題は、そういうものが出てきた時にどうするか。

出てきたものを一々払い除けようとしてもキリがない。
それではまったく瞑想にならない。
出てきたものに呑み込まれてしまっても、瞑想とは言えない。
それでは瞑想のつもりが迷走になっている。

出て来るものは、出て来るもの。
そのまま認めるしかない。
ただそれを眺めている。
見守っている。

見守る以外のことをすれば、それは思考が動いていることになる。
それでは瞑想にはならない。
動く思考を見守る。
その動きが止まろうが止まるまいが、見守る以外の方法はない。

呼吸法をやる?
マントラを唱える?
そういうテクニックもある。
それはそれなりの効果はある。
でも、所詮、テクニック。
テクニックなしでは瞑想できない、テクニック依存症をつくることになる。

心が落ち着く静かな音楽を使ったり、それなりの工夫をするのもいいかもしれない。
最初は自分がやりやすいようにアレンジするのもいいだろう。
でも、テクニックはテクニック。
それぞれの限界がある。
最後の最後は、いかなる方法もない。
ただ静かに見守る。
それしかない。

まずは、潜在意識に溜まっているものを解放する。
それには静かに見守ること。
思考が動けば、それを見守る。
思考に囚われず、ただ流すように見守ればいい。
要は、意識のポイントが思考にあるか、見守る方にあるかということ。
簡単には意識のポイントは移動しない。

日常生活は思考のポイントで生きている。
それが瞑想した途端、見守る方のポイントへ移行するはずがない。
意識は普段と同じように思考のポイントにある。
それを見守る。

パッと切り替わるものでもない。
自然と切り替わるとしか言いようがない。
いつのまにか自然に見守っているようになる。
いつのまにか自然に見守る意識が働くようになる。
それは瞑想中だけに限らず、日常生活の中でも働くようになる。

瞑想の時だけ瞑想していても仕方がない。
常住坐臥(ざが)瞑想状態というのが望ましい。
少なくともどんな状況であれ、見守る意識が常に働いているようになる必要がある。
そのような状態には一朝一夕にはなれない。
いつのまにか・・・なっている。

だから、焦らず、ゆっくりやればいい。
ゆっくり自分自身を見守り続ければいい。
そうすれば、徐々に見守る意識が育っていく。
やがて、いつのまにか思考も静まっている。

思考を鎮めようとしない。
思考を鎮めようとすれば、思考が思考を鎮めようとする泥沼にはまる。
ただ静かに見守る。
それが唯一の方法。
思考を使わない唯一のやり方。

そうやって見守っている間に、自然に意識のポイントが切り替わる。
思考から見守る意識の方へ移行する。
自然に移行する。
それが一番無理のない方法。

焦らない。
慌てない。
落ち着いて、ゆっくり見守ればいい。
絶えず自分自身を見守っている。
必死に頑張るのではなく、おおらかに、やさしく・・・

必死で頑張ろうとするのは、思考。
見守る意識は、ゆったり、おおらかにすべてを包み込んでいる。
すべてに浸透している。
だから、ゆったりと見守った方がいい。


『静まらぬ 思考をなんとか せんものと 思う心が 思考そのもの』

『何であれ 思考は思考 動くまま 少し離れて 静かに見ている』

『抑えない けれども負けない 感情や 思考をそのまま そっと見守る』

『おおらかに やさしく包み 見守って 出て来るものを 解き放つだけ』
               
            >>日記 無色透明 『477日目 - 思考のコントロール』 より

      
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心配 - 2
2010-10-08 Fri 11:03
                                        『木霊の森の緑』
木霊の森の緑ー14-sep_10
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『心配 - 2』       

心配とは、我が儘。
自分の望まない現実が起きることを恐れる心。
逆に言えば、自分の望む通りになってほしい心。
それ以外は認めない心。

人のことを心配する?
実は・・・
自分のことを心配しているだけ。
自分にとって都合の悪いことを避けたいだけ。

心配とは、エゴ。
エゴが、嫌な現実から逃げているだけ。
思いやりという美名の下、自分の思うようにしたいだけ。
望まない現実を拒絶しているだけ。

心配とは、事実を認めたくない心。
現実を思うようにコントロールしたい心。
自分の砦が崩れることを拒んでいるだけ。
しっかり自分の中に囲い込んでいたいだけ。

事実ベースで生きれば、心配はない。
ただ事実と共に生きるだけ。
どのような事実であれ、黙って受け入れる。
事実に即して生きるだけ。

心配は、事実を受け入れない。
自分の望まない現実を拒否する。
だから、心配する。
現実を望むように支配したいから・・・

どんな事実であれ、事実と共に生きる。
どんな現実であれ、そのまま直視する。
そうやって生きるしかない。
他に真実の道はない。

心配には、宇宙への信頼が欠如している。
小さな自我で、善し悪しを判断している。
自分のこれまでの経験に照らして決めつけている。
自分の価値観で、受け入れるかどうかを選択している。

全面的に受け入れようとはしない。
自分にとって都合の良いものだけを受け入れようとする。
都合の悪いものは拒絶する。
それこそが心配=自我の本質。

心配とは、エゴ。
自分を守りたいエゴの為せる技。
すべてを受け入れようとしない自分勝手。
自己中心的な我が儘。

しかし、心配している限り、心のやすらぎはない。
すべてを受け入れない限り、心が安定することはない。
心配している限りは、心は常に動揺している。
心配とは、心ここにあらずということ。

心配すれば、心は彷徨い、不安定になる。
自分自身へのグランディングはないに等しい。
意識が外に向くから、心配が起きる。
内に向けば、心配はない。

しっかりと自分自身を生きる。
自分自身の深さを生きる。
深い意識に心配はない。
深い意識にあるのは、信頼。

意識が深まれば深まるほど、心は安定する。
心配とは、波立つ表面の心。
自分の思うように支配したい心。
都合の悪いことを拒絶する心。

自分本位に選択していると、自分の望まない現実に出会った時に
苦しむことになる。
すべてを受け入れない限り、苦しみから逃れることはできない。
自我とは、選択。
非自我とは、無選択。

心配したければ、心配してもいい。
でも、心配すればするほど、エネルギーは消耗する。
しょうも(う)ないことをやるから、消耗する?
ハイ、しょうもないギャグ。

心配とは、事実に反した行為。
現実に抵抗しているので、エネルギーはどんどん消耗していく。
事実に即して生きないと、抵抗や摩擦でエネルギーが消えてしまう。
それをやっている限り、自分自身を創造的に表現することはできない。

避けようとしているものは、何か。
守ろうとしているものは、何か。
自分の心配を見つめ、心配の本質を理解する。
自分がしっかり掴んでいるものは何だろう・・・?

自覚しない限り、心配に翻弄され、心配の虜となる。
心配の本質をわからなければ、自我のまま苦しむことになる。
避けることも守ることも苦しみの道。
ただ事実と共に生きるしかない。

いのちの限り、ただ事実と共に生きていく。
現実を支配しようとすれば、苦しみが待っている。
すべてを受け入れ、すべてを認めない限り、抵抗と摩擦で消耗してしまう。
事実と共に生きるのが最も楽な生き方。

どんな事実も、ありのまま受けとめる。
どんな事実も、拒否しない。
すべてを受け入れる時、人は愛に包まれる。
なぜなら、すべてを受け入れることが、愛だから。

愛は、すべてをありのまま受け入れる。
愛は、すべてをそのまま認める。
好きも嫌いもない。
ただただ、すべてをあたたかく包み込んでいるだけ。

無条件にすべてを受け入れる時、心配はない。
無条件にすべてを包み込む時、不安も恐れもない。
ただ限りない愛が降り注いでいるだけ。
まるで春の陽射しのように、あたたかいものに包まれているだけ。


『心配を すればするほど 心配に なって行き着く 心肺停止』

『心配は 思う通りに したいだけ 望まないもの 拒んでいるだけ』

『心配を すれば望まぬ 現実が 起きて苦しみ やって来るだけ』

『抵抗を すれば摩擦で 消耗し 現実創造 何もできない』

『好き嫌い 良いも悪いも 何もなし 事実そのまま すべて受け入れ』

『ありのまま 受け入れる時 心配は 消えて心は やすらぎのなか』
               
                 >>日記 無色透明 『1008日目 - 心配』 より

      
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心配
2010-10-01 Fri 11:44
                                        『木霊の森の主』
木霊の森の主ー15-sep_10
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
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『心配』       

人の中には既にすべてのものが宿っている。
愛もすべての人の中に宿っている。
けれども、それが出てくる機会は限られる。
なぜか?
恐れが、それを阻(はば)んでいる。
愛を素直に表現する勇気がない。
そんな経験も少ない。
だから、素直に表せない。
でも、誰の中にもあるのは間違いない。

表現し始めれば、どんどん出やすくなる。
これまで目詰まりしていたものが外れ、スムーズに流れ出すようになる。
恐れも減り、躊躇も減る。
素直に出せば、何の問題もない。
ブロックしているものは、恐れ、つまり、取り越し苦労。
そんなことをしたら、どうなるだろう。
周りの人は何と思うだろう。
うまくいかなかったら、どうしよう。
誤解されても困るし・・・

心配し始めれば、心配の種は尽きない。
心配をやめることはできないのだろうか。
心配しても何の役にも立たないことはわかっている。
にもかかわらず、すぐ心配する。
それはパターン。
単なるパターン。
自分の中に刷り込まれているパターン。

一切心配しないでも生きていける。
むしろ心配などしない方が楽に生きていける。
にもかかわらず、性懲りもなく心配する。
そういうパターンにはまってしまっている。
心配に安住している。
心配の外に出ようとしない。

心配している方が安全にきまっている。
勇気を出して実行するより、心配して何もしない方が楽だ。
楽なパターンを選択しているだけ?
それによって、愛が自分から溢れるチャンスを逃している。

自分最優先では愛の栓は閉まってしまう。
保身第一では愛はほとばしれない。
保身第一で心配だけしていれば、何も問題は起きない?
亀さんスタイルで生きていれば、必要最小限の危険で済ませられる?
でも、それでは人生のダイナミズムは味わえない。
新しいことは何も体験できない。
それでは何のために生まれてきたのかわからない。
わざわざこの世に生まれてくる必要もない。

この世に生を持つということは、新しいチャレンジをするということ。
自分の中にある可能性を花開かせるということ。
愛や叡智やいのちを輝かせてみるということ。
それをしないのであれば、生きていても仕方がない。
様々な経験をし、学び、成長し、楽しむ。
この世とは、そのようなところ。

心配するために生まれてきたのではない。
でも、気づかないうちに心配している?
ハイ、気づいてください。
心配している自分に。
そして、スパッと心配をやめてください。
もし本当に心配が無意味だとわかったら。

ぜひ心配のない人生を体験してみてください。
心配はまったく必要ありません。
一切なくても何も問題はありません。
それでも心配?

不安や心配を手放すと、当然、楽に生きていける。
未来のいろいろな危険性はある。
それに対する準備をしたければしてもいい。
でも、心配からするのではない。
可能性を感じて、冷静に備える。
不安や心配は必要ない。

不安や心配があると、それが現実化してしまう。
感情はいらない。
事実としての可能性で準備すればいいだけ。
冷静に淡々と。

人類は長い永い間、不安や心配と共に生きてきた。
不安や心配と一緒に生きることが心地よかった?
不安や心配が現実化することによって、いろんなドラマを体験できた?
不安や心配があるからこそ、ハラハラドキドキのドラマが経験できた?
そういう意味では、人間ドラマにとって不安や心配はなくてはならないもの。
ハラハラドキドキをもっと続けたければ、不安や心配は必需品。
そんなに簡単に手放してはいけない。
大切にいつまでも持っていなくては・・・

この現象世界の混乱は、一人一人の心の中の混乱から生じている。
不安や心配が混乱を創り出しているとも言える。
不安や心配とは、恐れの代名詞。
人類は恐れと共に、これまで生きてきた。
その恐れが人類の悲惨な現実を創り出してきた。
そのことがわかったら、不安や心配を手放す?
手放すなんて・・・
不安で、心配で、とてもそんなことはできない?
それでは堂々巡りになってしまう。

不安も心配も恐れも、すべて思考が創り出すもの。
実体のあるものではない。
それは架空の幻。
思い込みによる幻想に過ぎない。
そういうものを手放しても、何も問題はない。

みんなが不安や心配や恐れを手放したら、世の中はどうなるだろうか。
今とはまったく異なる世の中になるのは間違いない。
不安も心配も恐れもない社会。
思っただけで心がやすらぐ。

都会に住んでいたら、とても安心できない?
都会に住んでいて安心できない人が、田舎に住んだら安心できるだろうか。
確かに都会の方が圧倒的に危険度は高い。
しかし、田舎にいても交通事故や病気の危険がないわけではない。
自然災害は都会よりも田舎の方が多い。
どこにいても不安や心配の種を見つけ出そうとすれば、いくらでも見つかる。
やはり本人しだいではないだろうか。

現実の危険があれば、対策を講じる。
不安や心配におののいている場合ではない。
しかるべき対応をする。
できるだけのことはする。
それしかできない。
それ以上はどうにもならない。

いや、一つだけそれ以上のことがある。
それは不安や心配や恐れを持たないこと。
これがあると危険度は遙かに高くなる。
これがないだけで危険度は格段に低くなる。
不安や心配や恐れがないところに、災厄をもたらすのは至難の業。
縁がなければ、結果はやって来れない。

たとえ災厄がやって来たとしても、それを災厄と捉えなければ災厄にはならない。
すべての現象を生かして使えば、何も問題はない。
結局、不安も心配も恐れも必要はないのだ。
起きてくることをそのまま受けとめ、それを生かして使う。
それさえ明確ならば何も恐れるものはない。

不安も心配も恐れもいらない。
今、今の事実と共にいればいい。
事実によけいなものをくっつけなければいいだけ。
どうして事実に不安や心配や恐れをくっつけてしまうのだろうか。
過去が甦るから?
たぶん、それ以外に答はないだろう。
なぜなら、正当な理由はどこにもないのだから。
ただ過去の経験からネガティブに連想しているだけ。
どこにも不安や心配や恐れの正当な理由はない。

過去の繰り返しをしているだけ。
今に生きていないだけ。
自分のパターンに縛られているだけ。
それに気がついていないだけ。
それ以上でも以下でもない。

そういう生き方をしたければ、無理に止めはしない。
しかし、そういう生き方をしている限り、心のやすらぎはない。
同時に混乱の世の中も終わることはない。
これまで通り悲苦の巷で生きるしかない。

不安も心配も恐れもいらない。
そういうものは何もいらない。
事実に何も付け加えないで、事実と共に生きる。
シンプルに生きる。
それで十分事足りる。

不安や心配や恐れと共に悲苦の人生を生きるか。
それらのものをすべて手放し、まったく別の人生を体験するか。
どちらでも選択可能。
時が来て、選択可能な時代となった。
はたして、あなたはどちらを選ぶのだろうか。
こちらは一切介入しない。
選ぶのはあなた。
あなたの人生だから。
自分で決める自分の人生。


『心配や 不安と共に 生きてきて ハラハラドキドキ 身をすり減らす』

『心配や 不安や恐れの 連想が それに見合った 現実創る』

『ありもせぬ 想い付けずに 淡々と 事実と共に シンプルに生きる』

『心配や 不安や恐れ ない時に 想ったことが そのまま叶う』

『心配も 不安もみんな 手放して 事実と共に そのまま生きる』
               
                   >>日記 無色透明 『440日目 - 心配』 より

      
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