いのちの写真と光の言葉
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地獄
2010-09-27 Mon 23:32
                                        『名もない巨木』
名もない巨木ー21-july_08_10
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『地獄』       

天国と地獄がある。
天国は国なのに、地獄はどうして獄なのだろう?
地獄という言葉は、元々はサンスクリッドのnaraka(奈落)から来ているらしい。
奈落の底が地獄ということだろうか。
奈落とは、広辞苑によると「永久に浮かぶ瀬のないところ」とある。
地獄に堕ちると浮かばれない?
永久に出られない?
まるで終身刑?
だから、地の底の獄舎=地獄となったのだろうか。

天国は国だから、人の住むところ?
では、地獄は誰が住む?
地獄の亡者?
さてさて恐ろしい地獄物語の始まり始まり・・・
これ以上読むのはやめる?
それとも、怖いもの見たさ?
選択は自由。
これから先は自己責任で・・・

天国も地獄も、あると言えば、ある。
ないと言えば、ない。

これでは訳がわからない?

では、聞こう。
今、目の前に見えている夕景は、あるだろうか、それともないだろうか。
あるに決まっている?
そう言っている間に太陽は沈んでしまう。
ほら、ないじゃない。
え?
そんな・・・

あると言えば、ある。
ないと言えば、ない。
色の世界は、そんなもの。
空に異ならず。
あるようで、ないようで、どっちだろう?

記憶の中や写真の中には、ある。
でも、それも消えつつある。
永遠にあるわけではない。
磁気的・エネルギー的に一定期間形をとどめているだけ。
それも微妙に劣化しているので、同じものが持続しているわけではない。
放射性同位元素も劣化している。
放射能として放出された分だけ変化している。
この世に変わらざるものなし。
無常。

色の世界は無常。
それ故に、あるようで、ないような・・・
不思議な世界。
まさに空そのもの。

だから、地獄も現象に囚われれば存在するし、囚われなければ存在しない。
地獄という非苦の世界の結晶も、人類の意識が創り出しているもの。
現実と言えば現実。
幻(まぼろし)と言えば幻。

そこは物質世界ではないので、刻々に変化する。
思いの次元が創り出す世界なので、思いしだいでどうにでも変わる。
この物質次元よりも変化が早い。
そういう地獄のような思いがなくなれば、地獄も即座に消えてしまう。
ただそれだけの世界。

宇宙の曼陀羅の一場面?
そういう世界を創ってみただけ?
天国だけでは面白くないので、地獄も創ってみた?
ご丁寧に、いろんな地獄を創ってバリエーションまで持たせてある。
誰が創った?
神様?
閻魔大王?
サタン?
それとも、人間?

天国も地獄も人の想いが創り出す世界。
良いも悪いもなく、ただの事実。
あると言えばあるし、ないと言えばない。
刻々にのみ存在するもの。
それを掴まなければ、存在しない。
掴んでしまえば、存在する。

しかし、それは天国と地獄に限らない。
この世のすべてのものも同じようなもの。
あると言えば、ある。
ないと言えば、ない。
掴めば存在するし、掴まなければ存在しない。

空の意識であれば、何もない。
目に映る刻々のものがあるだけ。
刻々であるが故に、あると言えばあるし、ないと言えばない。
色の意識で生きれば、確かにある。
空の意識で生きれば、何もない。

地獄も、その現象を捉えなければ、何も恐れる必要はない。
その現象を捉えると、捉えたつもりが捉えられる。
地獄の囚われ人となる。
そうやって地獄の住人が生まれる。
ただ掴まえているだけ。
地獄的現象に魅入られ、意識がそこから離れられなくなっているだけ。
単なる意識の状態。

何かに捉えられると、心は不自由になる。
それが天国であれ地獄であれ同じこと。
一方は天国から出られない。
片方は地獄から出られない。
出られないのに変わりはない。
少しも自由ではない。

行きたければ天国へ行き、気が変われば地獄へも行く。
天国や地獄を超えた世界へも行く。
現象に囚われなければ、それが可能になる。
現象が何であれ、それに囚われれば、そこの囚われ人になるしかない。

地獄を恐れることも、天国を敬うことも、特に必要はない。
それは人の価値観。
人間の判断の世界。
思い込みワールド。

自然の美しさを見、それに感動し、それを忘れる。
何も所有することなく、自然の流れと共に生きる。
良くもなく悪くもなく、事実と共に生きる。
ある時は天国に住し、ある時は地獄を覗く。
天国も地獄も飽きたら、また別の世界に遊ぶ。
人間界のドラマに笑い、涙し、ただ静かに見守る。
今生きて在ることを、生きる。


『天国も 地獄もすべて 自(みずか)らの 想いが創る 思い込みワールド』

『移りゆく 現象世界に 囚われて 天国へ行き 地獄へ堕ちる』

『愛(いと)おしい 思いの世界 見守れば 色とりどりの 光煌(きら)めく』

『人間の ドラマも自然も それぞれに ステキな姿 現し消える』

『天国も 地獄も超えて 星々の 思いを超えた 世界で遊ぶ』

『移りゆく 四季(色)を楽しみ 囚われず 人間として 静かに生きる』
               
                   >>日記 無色透明 『439日目 - 地獄』 より

      
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祈り
2010-09-23 Thu 01:59
                                              『満月』
満月ーmoon-05_10
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『祈り』       

昨日のコメント欄に「祈り」について次のような書き込みがあった。

「私は祈りをしますが、周りの人、出会った人、キリがないですよね。
そう、先祖供養と一緒な感じです。
おまけに、なんて祈っていいかわからなくなる。
病気が治るように?とか、いい方向へ行くように?とか、幸せになります
ようにとか、勝手ですよね?
私自身が、その方が幸せではないとか、病気が悲しいとかの判断をして
メッセージを送っている気分になります。
これって、本当の祈りなのでしょうか。
私の外に出すと、なぜか自我になってしまいます。
私自身が『祈り』になればよいのかな?
でも祈りの本当の意味がまだわかりません。

祈りって、外に出してしまうと、叶わないと思う気持ちもうまれます~。
『まだ祈りがたりない』と、欠乏しているように感じる。
祈りに操られている。
日記の偶像崇拝と一緒のような気がします。
外に祈るより、この前のホームワークみたいに、イメージ現実化やった方が
よいかもですか?

私は、昔は祈りを馬鹿にしてましたが、病気になって周りの悲惨(と決め込ん
でしまった)人達を見て祈りが復活しました。
でも、途中で、不幸な人に祈るなんて嫌じゃ~!!とキレてしまいました。
『誰が不幸って決めてるんじゃ、ご飯が食べれなければ?事故が重なれば?
病気が重なれば?だまされ続ければ不幸?』
そう、不幸って決めていたのは私だったです。
自我を満たす祈りをしていた気がします。

祈りという言葉さえいらなくなる、祈る主体がなくなるなんて!
全てを抱き参らせている時でしょうか?

愛の中のエネルギーのひとつなのかなあ?
愛っていうのは、自分がどのエネルギーが相手に必要っかなあって判断しない
時、自然に流れていくものなのかなあ。
私が今までやってきたことは、小さい愛だったのかな。
相手が苦しそうだから、励まそう、悲しそうだから同調しようとしていた私。
おまけに、その人をそんな苦しめた相手をひどいって言ったりして。
判断の先に出たエネルギーで包もうとしてましたが。
それを越えた愛、その愛の種類でしょうか。
愛が溢れるようになる自分に出会えば、わかってくるかな。
まだ出し惜しみしてるのかな。
自我様の砦で。」

祈りとは何だろう?
人はどんな時に祈るのだろうか。
自分ではどうにもならない時?
何かの助けがほしい時?
なんとかしてほしい時?

子供が病気の時?
悲惨な現実を目の当たりにした時?
死が避けられない時?
苦しみが増す時?
心理的に耐えられない時?

現状をなんとか変えたい時に、人は祈るのだろうか。
現状を認められない時に、人は祈るのだろうか。
現状を見るに耐えないので、人は祈るのだろうか。
現実逃避?

人は何に対して祈るのだろうか。
神に祈る?
どんな神に?
自分が信じる神に?
仏に祈る?
どんな仏に?
御利益のありそうな仏に?
天使に祈る?
守護霊に祈る?
御先祖様に祈る?
祈りがかなえば、感謝する?
お礼参りする?
かなわなかったら?
もう信じない?
神も仏もない?

必死の祈りが実現したという話は、たまに聞く。
自分の命と引き替えに子供の命をお守りくださいという母の必死の祈りは、
聞き届けられることもある。
しかし、いつも聞き届けられるとは限らない。
子供が自ら死を選べば、母親の願いは虚しく消えるしかない。
子供にとっては、それで十分。
母親も子供を亡くした体験を今生ではすると潜在意識で決めている場合もある。
悲惨な現実が、必ずしも悪いということではない。
必要があって、そのような現実を引き起こしている場合もある。

交通事故によって、これまでの生き方を見直す機会に恵まれる。
重病になって、生きていることのすばらしさに目覚める。
障害児が生まれることによって、何が大切なのかに気づく。
一般的に悪いと思われていることが、必ずしも悪いわけではない。
現象の利害得失だけでは推し量れないものがある。

「人生万事塞翁が馬」という諺もある。
何が吉となるかわからない。
表面の浅はかな気持で判断すると、大きな過ちを犯すこともあり得る。

ただ事実と共に留まる。
事実と一緒にいる。
事実を直視する。
事実から逃げない。
事実と居切る。

相手は苦しいだろう。
早く楽になってほしい。
楽にしてくださいと祈る。
それも悪くはない。
でも、もう少し深く相手と一緒にいることはできないだろうか。
どうしてこんなに苦しんでいるのか。
もっと深く感じることはできないだろうか。
相手と一緒に居切ることによって、相手の状態を更に深く感じることはできない
だろうか。

本当に相手と一緒に居切れたら、相手の状態が手に取るようにわかる。
それと同時に、こちらから相手へエネルギーが流れる。
何もしなくても、一緒にいるだけでエネルギーが流れる。
祈るまでもなく・・・

祈りには、願いがある。
その願いはどこから来るのだろう?
自分の願望?
愛?

愛自体には方向性はない。
相手と一緒にいれば、自然に相手に流れる。
何もしなくても相手と一緒にいることによって、愛の方向性が決まる。
愛のエネルギーは癒し。
無条件の癒し。
何の願望もない。
自我の入る余地はない。
ただ純粋な愛が流れるだけ。

本当に深く人と居切れるだろうか。
自分の思いの混じらない純粋な愛が流れるほど、相手と一緒に居切れるだろうか。
目の前の現象に目を背(そむ)けないで、その現象と共に居切れるだろうか。
目の前の事実から逃げないで、事実と共に居切れるだろうか。
どんな悲惨な現実でも、どんな苦しい状況でも、それらと共に居切ることができるだ
ろうか。

安易な祈りに逃げないで、事実と共に居切る。
それができるだろうか。
できれば、人生が変わるかもしれない。
思いの次元から自由になれるかもしれない。

思いを超え、ただ静かに一緒にいる。
深い深い静けさの中で、共にある。
その時、思いを超えた次元から別のエネルギーが届く。
その時、必要であれば必要な変化が起きる。
自我の判断を超えた変化が・・・

自我で判断し、祈る。
一歩間違うと、欲望の祈りとなる危険を孕(はら)んでいる。
もし祈るのならば、自分自身をよーく見つめながら祈るといい。
それが意識のどのレベルから来ている祈りか・・・
自我ではないという思い込みに注意しながら・・・

できるだけ相手を尊重する。
相手の存在を、そのまま尊重する。
自分の希望を押しつけない。
自分の祈りを押しつけない。
相手の生き方を尊重する。

ただ相手と一緒にいる。
ただ事態と一緒にいる。
その時、どれだけ深く一緒にいられるかが問われる。
どれだけ意識の深いレベルで一緒にいられるか。
意識のどの次元で生きているか。
日々の生き方が問われる。

思いを超えた次元で、ただ一緒にいる。
いかなる思いもなく、ただ一緒にいる。
共に苦しみ、共に泣く。
ただ涙がこぼれる。
苦しんではいない。
泣いてもいない。
ただ涙がこぼれるだけ。

色の世界の苦しみや悲しみと共にいる。
空の世界の、それらを超えた次元と共にいる。
共に苦しみ、共に悲しみ、それらを見守る。
苦しみや悲しみの心は伝わる。
それは涙となって頬を伝う。
それでも静かに見守る。
ただ見守る。
思いを超えて見守る。


『人類の 非苦の事実を 逃げないで 思いの次元 超えて見守る』

『現象に 囚われないで その奥の 深い意識を 静かに見守る』

『必要な 変化はすべて 本人が 自分で決める 応援するだけ』

『縁のある 一人一人の 生き方を ただただ静かに 黙って見守る』
               
                   >>日記 無色透明 『437日目 - 祈り』 より

      
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観音菩薩
2010-09-19 Sun 13:28
                                              『睡蓮』
睡蓮ー21-oct_10
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『観音菩薩』       

えっちゃんから次のようなコメントが届いた。

「観音様って、音を観るっていうことって聞いて、観世音大菩薩の略が
観音様だとしたら、世の音を観ると言う事ですよね。
これは、サンスクリット語の音訳でなくて、ちゃんと意味のあるお名前
だとしたら、この世の、または人々の波動を見守る仏様といことでしょうか?
波動はエネルギーのことかなあ?
観音様は私たちの生きるエネルギーがいい波動をしているか見守って
くださってるのですか?
子供の元気を見守る母親のように。

手のひらの地球を見守る慈母観音・・・
ちょっと、身近にかんじました。」

観音菩薩は、観自在菩薩から転じたものらしい・・・
本来はアボロキティシュバラーとサンスクリッドでは言う。
すべてを見通せる存在という意味。
般若心経の一番最初に出てくる。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 
色不異空  空不異色  色即是空  空即是色・・・」
すべては空であり、苦しみは一切ないということがわかる存在。
そのことを釈迦の十大弟子の筆頭である舎利子(シャーリープトラ)に説き聞
かせたのが、600巻にのぼる大般若経。
そのエッセンスが般若心経。
日本で広まっているものは、西遊記の三蔵法師が漢訳したものがベースに
なっていると言われている。

私達が観音菩薩に見守られていることは間違いない。
しかし、私達一人一人がその存在でもある。
観音菩薩と自分自身は別々ではない。
自分の中にもそのエネルギーは流れている。
ある次元で合流している。

自分の外に見ない。
自分の外に見ると、仏像やキリスト像を造ることになる。
それは分離の意識。
それらの偶像を拝み、願い事をする。
そうすると、それらのものは自分から離れてしまう。
遠い遠い存在になってしまう。
ただ崇拝するだけに終わってしまう。

一般衆生に普及する方便として途中からそういう方法が採られた。
しかし、最初は偶像などはなかった。
お釈迦様やイエス・キリスト本人が生きていたから、そういう必要はなかった。
イスラム教では、今でも偶像は禁止されている。
その部分に関しては、本来の姿を保持している。

荒れてすさんだ衆生の気持を偶像に集中させることによって、やすらぎを
見出させる。
それが念仏であれ、お題目であれ、それなりの効果はある。
御仏の慈悲にすがり西方浄土を求める。
それはあまりにも厳しい娑婆世界から救われるための方便。
それによって心がやすらぎ、癒されれば、それはそれで救い。
そういう時代もあった。

偶像を拝むことによって、自分の中にある仏心やキリスト意識が溢れ出る
のであれば、それはそれでいいのかもしれない。
偶像とはいえ、確かにエネルギーが来ているものもある。
それはエネルギーチャージャーの役割を果たす。
ややもすると自我に流れやすい意識を、仏心やキリスト意識の方へ向ける
効果はある。
そういう意味では、小さなロザリオですら否定することはない。

しかし、自分の中に仏心やキリスト意識を直に感じれば、偶像は必要では
なくなる。
元々、偶像は方便。
自分の中の仏心やキリスト意識に気づくための方便。
しかし、それを長い間やってきて、いつのまにか本来の意味が見失われて
しまった。
すべてを外に求めるようになった。
自分自身の中にあるものを外に求めるようになった。

それが西方浄土であり、天にまします我らが父になってしまった。
今ここから遠く離れてしまった。
遙か彼方の憧れになってしまった。
まるで古い記憶ででもあるかのように・・・

それでは青い鳥探しと変わらない。
いつまで経っても青い鳥は見つからない。
方向が違うから。
外に求めているから。
それでは逆に自分と仏心やキリスト意識とを切り離してしまう。
真実は外には存在しない。
自分の内にしか存在しない。

外のものを崇(あが)め奉(たてま)っている限り、自分を低きに貶(おとし)める
ことになる。
罪の子、罪業深甚救いなし。
我らの罪を許したまえ・・・
罪悪感の虜となってしまう。
それは多くのキリスト教徒の潜在意識の中にある。
それは教会権力の民衆支配の手段にもなってきた。
贖罪(しょくざい)、免罪符・・・

自分の外に権威を認めれば、支配されるしかない。
一切の権威を認めない時にだけ、完全な自由がある。
たとえそれが仏陀やイエス・キリストであろうとも、権威を認めた途端、従属
することになる。
その時、意識の自由は消失する。
同時に真実の自分に出会うこともできなくなる。

真実の自分は完全な自由。
自分の外に権威は存在しない。
完全な自由になるためには、偶像は邪魔者以外の何ものでもない。
それはプロセス。
人類の意識の発達史の途中経過。
それは単なる憧れ。
人類の憧憬。
まだ人類が夢見ていた頃・・・

もう夢から覚める時。
自分が夢を創る時。
自分の夢を実現する時。
中心を自分自身に置く時。

偶像も思い込みの産物。
自我も思い込み。
慈悲のエネルギーを、あんな小さな仏像に封じ込めることができるだろうか。
自分という偉大な存在を、どうして小さな自我に閉じ込めてしまうのだろうか。
いずれもエネルギーを歪曲しただけ。
小さく小さく封印しただけ。
イメージ。
思い込みの世界。

仏像もキリスト像も美しい。
そこにはエネルギーが流れている。
しかし、人から流れ出す愛や慈悲のエネルギーは、偶像から流れ出すものより
も遙かにすばらしい。
偶像は、愛や慈悲が人から流れ出すためのきっかけであり、方便に過ぎない。
これからは一人一人が仏像となりキリスト像となる時代。
偶像を崇めたり、拝んだりする時代は過ぎた。
一人一人が愛となり慈悲となる。
方便はいらない。
ダイレクトにそのものになる。

観音菩薩も仏陀もイエス・キリストも、すべて繋がっている。
それらは別々の存在ではない。
自分を中心に同心円のようにひとつに繋がっている。
自分自身を低からしめない。
自分を小さく規定しない。
自分の限定を外す。
無限定。
無制限。
それが自分の真実。

もうママゴトは終わり。
思い込みの夢から覚めて、真実を生きる。
偶像や自我という小さな思い込みから自由になって、無限定の宇宙に遊ぶ。
自分の夢を実現させる。
楽しく遊ぶ。

夢と知りながら夢を楽しむ。
無自覚の時代は終わった。
無意識の時代は終わった。
思い込みの時代は終わった。
はっきりと目覚める時代。
リアリティで生きる時代。


『仏像も キリスト像も 人類の 悲苦の歴史の 生み出せるもの』

『観音の 願い生きれば そのままで 一人一人が 観世音菩薩』

『現世(うつしよ)は 現れ消える 一時(ひととき)の 無常の夢と 知るや知らずや』

『現世(うつしよ)の 夢とも知らず 夢を見て 夢に遊ばれ 夢に溺れる』

『現世(うつしよ)の 夢と知りつつ 夢を見る 夢と戯(たわむ)れ 夢を楽しむ』
               
                 >>日記 無色透明 『436日目 - 観音菩薩』 より

      
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続・信じること
2010-09-14 Tue 19:21
                                       『青空に架かる虹』
青空に架かる虹ー01-sep_08_10
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『続・信じること』       

昨日の書き込みに次のようなものがあった。

「私は、人を信じるってとても素敵なことだと思っていました。
『無償の愛』なのかと。
だから、人を信じる事の出来ない自分を『愛』の無い人間だとネガティブに
捉えていました。
でも、信じてこなくてよかったのですかね?
信じる・信じないは、曖昧な思考...? 
難しいけど...
『信じたいけど、信じられない』じゃなくて、『信じない』と決めればよいのかな?
とりあえず、肩が軽くなった☆わたしでした。」


信じることができないということと、信じる必要がないということは、
同じではない。
信じることができないのは、今生か過去世で深く裏切られた経験が
あるからだろう。
それについては、きちんと向き合ってクリアーにする必要がある。
なぜなら、それは裏切られて傷つくことから逃げているだけだから。
信じる必要はないけれども、信じることができない状態はニュートラル
とは言えない。
何かから逃げている人生が幸せであることは、あり得ない。
まず、信じることも信じないこともフリーの状態に戻す必要がある。
そうでないと、信じる必要はなくても、他の人間関係で必ず支障が出る。
自分が責められていると感じたり、自分の立場が危うくなったりすると、
すぐに逃げ出そうとする。
そういう基本的なパターンに気づく必要があるだろう。
信じる・信じないは、結果でしかない。
表面的な現象ではなく、原因を直視する必要がある。
もちろん、ネガティブに捉えて自分を責める必要はない。
ただ事実を明確に理解する必要があるだけだ。

信じることは、先の見えない三次元の人生において、極めて尊いことだった。
信じるもののために命を捧げることは、人類の美の極みだった。
迫害され、磔(はりつけ)にされながらも、信じるもののために殉じる。
それは涙なしには語れない愛の結晶。
そういう過去世がたくさんあった。
自己犠牲という美徳を過去世で経験している人は多いだろう。
それは人類史に燦然(さんぜん)と輝く星なのだ。

信じることは、ハートや直観をベースにしていることもある。
それは美しい。
何よりも美しい。
それは愛であり、それ故に自己犠牲を厭(いと)わない。
そういう信仰も、過去の歴史において多々見られた。
それは人類の歴史において、今も美しい香りを放っている。
それは肉の身を持つ者にとっての至宝。
最高の尊さだ。

そういう時代もあった。
しかし、時はひとときとして同じところには留まらない。
自己犠牲の美しさは既に過去のものとなってしまった。
純粋な愛や直観に、思考が加わった。
純粋な愛や直観もひとたび思考に捕まれば、思い込みと成り果ててしまう。
中東で見られる自爆テロは、アラブやイスラムの人たちにとっては崇高な
英雄的行為と映る。
しかし、イスラエルやアメリカにとっては、無差別殺人以外の何ものでもない。

しかしながら、広島や長崎に原爆を投下したアメリカに、無差別テロを非難
する資格があるのだろうか。
原爆では無差別テロの何百倍何千倍の人が一度に亡くなった。
もちろん、南京大虐殺をおこなった日本にも非難する資格はない。
もしかすると、誰も非難する資格はないのかもしれない。
なぜなら、自分と違う意見や価値観を持つ人を攻撃したり、非難したりしない
人は希(まれ)だ。
それは無差別テロと程度の差でしかない。
他人は責めなくても、自分を責めていれば同じ。
自分の信じるもの以外を攻撃したり非難したり否定したりすれば、やがて、
それが無差別自爆テロにつながらないと誰が断言できるだろうか。
自己犠牲は美しいけれども、それが敵に向けられる時、憎しみの連鎖を呼ぶ。

何がどう間違ってしまったのだろうか。
あれほど美しく尊いものであった自己犠牲が、どうしてこんなにも貶(おとし)め
られてしまったのだろうか。
それは思考で信じてしまったからだろうか。
思考で信じることによって、純粋な信仰が思い込みに変わってしまったのだ
ろうか。
愛や直観から来る信仰ではなくて、思考の思い込みによる信仰によって、
すべてが狂ってしまったのだろうか。
同じことが、オウム真理教や統一教会などについても言えるのだろうか。
巷に氾濫する多くの新興宗教も同じ陥穽(かんせい)にはまっているのだろうか。

これまでの歴史的な宗教戦争も、同じパターンだろうか。
思い込みの信仰が、自分が信じる以外の宗教を敵と見なし、殲滅(せんめつ)
しようとするのだろうか。
それは愛ではなくて、自己保存の本能の延長だろうか。
神への愛という美名の下、多くの殺戮が繰り返されてきた。
それが人類史と言っても過言ではない。
美しい純粋な自己犠牲もあった。
それが、いつのまにか思考の思い込みによって大量殺人に変わってしまった。
圧倒的な自我の力と、ごく少数の彗星のような自己犠牲の煌めき。
それがこれまでの人類史だろうか・・・

思考が人の意識の中心となり、信じることは妄信・狂信と化してしまった。
狂信は狂気となり、やがて凶器に変わる。
無差別自爆テロの源は、狂信。
つまり、思考による思い込み信仰。
今の段階で信じることは、思い込み信仰になってしまう。
もう信仰の時代は終わった。
それは、はっきりと断言できる。
アクエリアスの時代は、クリアーな意識の時代。
そんな時代に、信仰は時代遅れ。
今も信仰している人たちは、過去世の名残に浸っているだけ。
今は信仰している場合ではなく、思考によって曇ってしまった意識をクリアーに
する時。
次のピュアーな意識の時代に備える時。

「信じない」と決めることではなくて、信じる必要がないのを理解すること。
明確に見えれば、何も信じる必要はない。
「信じない」と決めることは、「信じる必要はない」と信じるみたいなもの。
理解すること。
理解されれば、後は何もいらない。
信じる必要のないことが真に理解されれば、信じるという行為は消える。
理解があるところに、信じることはない。
理解がないから、信じるという行為が生まれる。
明確にクリアーに理解することに尽きる。

信じる・信じないの次元から、まったく異なる次元へ飛ぶ。
信じる必要もない世界へワープする。
赤ちゃんや幼子が絶対的に母親を信頼しているように、疑う余地のない信頼の
次元へ。
信頼や信じるという言葉が必要のない世界へ。
直にありありと愛が感じられる次元へ。
愛に満たされ、愛によってつながっている世界へ。
思考から愛の次元へ。
歌にあるガンダーラのような愛の国へ。
さてさて、そんな国があるのだろうか・・・

それはいくら言葉で説明しても、実感されることはない。
一人一人がその国へ行ってみるしかない。
その国はどこにあるの?
地図にはない。
では、どうやって行くの?
磁石はある。
磁石?
そう、磁石だけは誰もが持っている。
どこに?
ハートの中に・・・

『身を捧(ささ)げ 愛に殉じた 歴史こそ 人の歴史の 無上の至宝(たから)』

『敵もまた 愛する心 あるならば 無差別テロは あり得ないこと』

『信頼も 信じることも ことさらに 必要のない 世界へワープ!』

『ガンダーラ 愛の国は どこにある? 一人一人の ハートの中に』
               
               >>日記 無色透明 『414日目 - 続・信じること』 より

      
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信じること
2010-09-09 Thu 10:51
                                            『入道雲』
入道雲ー02-july_07_10
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『信じること』       

信じると裏切られるは、一対。
信じることがなければ、裏切られることもない。
信じるが表で、裏切るが裏?

裏切られるのは、自分の思い込み。
裏切られるとは、想定外ということ。
想定内では、裏切られないことになっていた。
しかし、結果は想定外。
そこで、裏切られたと言って相手を非難する。
しかし、相手が裏切ったわけではない。
相手は自由に行動しただけ。
こちらが勝手に相手の動きを想定しただけ。
それが見事に外れたというだけのこと。

それは相手のせいではなく、まさに自業自得。
自分の想定ミス。
にもかかわらず、普通は相手を責める。
相手のせいで自分が被害をこうむったかのように主張する。
その時、自分の想定ミスは棚上げされている。

何度か裏切られる経験をすると、今度は裏切られるのが怖くなり、
誰も信じないようになる。
これ以上傷つくのがいやなので、自ら信じることを封印する。
でも、人を信じることができないと、さびしい。
結果、心が揺れ動く。
信じたいけど、信じられない。
信じれば裏切られそうで、もう一歩深く踏み込めない。
それが、あらゆる人間関係に影を投げかける。

信じても裏切られないものはないのだろうか。
それは永遠の真理だろうか。
人は信じても裏切られないものを求めて旅に出る。
精神世界という旅へ。
しかし、そこにも信じれば救われるという世界が広がっている。
救世主やメシアを信じる。
グルや教義を信じる。
生まれ変わりや永遠の魂を信じる。
天国や自己の成長を信じる。
それらを信じれば本当に救われるのだろうか。

救われる場合もある。
但し、それが永続するという保証はない。
いつ裏切られるかもしれない。
なぜなら、信じることと裏切られることは表裏一体だから。
それは精神世界も一般世界も変わらない。
自分の想定外のことが起きれば、いつでも裏切られる。
自分が想定した時点で、裏切られる準備をして待っているようなもの。
いつでも裏切られるスタンバイ状態。

相手は裏切ろうとは思っていない。
しかし、こちらの想定外のことをすると、裏切ったと見なされる。
それは精神世界、一般世界を問わない。
なにしろ信じる・裏切るの世界は、信じた人の想定範囲にかかっている。
その想定範囲が狭ければ、すぐに裏切られる。
想定範囲が広ければ、裏切られるのに時間の余裕がある。
ホリエモンは拘置所に入ることを想定していただろうか。
もし想定していれば問題はないが、想定していなければ、世間に裏切ら
れたと思っているだろうか・・・

信じれば、裏切られる!
場合が多い。
それは自分の狭い了見で信じるから。
想定範囲がこれまでの自分の人生に限定されているから。
人は自分の経験を通して物事を見ている。
結果、自分の過去からしか想定できない。
だから、不確定な未来に、すぐに裏切られてしまう。
未来は過去の繰り返しではない。
未来は常に想定外のことに満ちている。
信じた途端、同時に裏切られる高いリスクを背負うことになる。

それでも、信じる?
それとも、信じることをやめる?

絶対に裏切られることのないものがある!
と言ったら、信じる?
もう何も信じない?

絶対に裏切られないもの。
それは信じることの必要のないもの。
信じる・信じないの次元を超えたもの。
比較・相対の思考の次元を超えたもの。
そこでは、既に信じるという行為そのものが存在しない。
なぜなら、信じる必要がないから。
誰の目にも明らかなものは、信じる意味がない。

信じる・信じないという次元は、不明瞭な世界。
はっきりしないから、信じようとする。
あるいは、はっきりしないから、信じることを躊躇(ためら)う。
明確であれば、何も信じる必要はない。
信じなくてもクリアーに生きていける。

要は、そのようなクリアーな意識で生きることではないだろうか。
何事も明確に見えるクリアーな意識であれば、信じる必要はまったくない。
意識が曖昧だから、信じようとするだけ。
意識が明晰ならば、何も信じる必要はない。

そもそも信じるというのは、自分に自信がなくて、何かに寄りかかろうとする
行為ではないだろうか。
信じれば救われる?
から、信じようとする?
救いを求める弱い心?
自分の足だけでは立っていられない弱い意識?
だからこそ、救いを求める?

しかし、その救いは弱い意識が想定した範囲内のもの。
弱い意識は必死に縋(すが)ろうとするが、ガラスのように繊細な想定範囲は
すぐに破られてしまう。
疑いが生じ、やがて裏切られたという気持ちに変わる。
信じたものに裏切られるのに、そんなに時間はかからない。

何ものにも裏切られない生き方。
それは何も信じないこと。
何も信じないで、クリアーに生きること。
裏切られるのが怖いから信じないのではなく、信じる必要がないから信じない。
そういう選択肢もある。
ある次元まで行けば、そういう選択肢しかない。
信じる・信じないの次元を抜ければ、信念や信仰は無用の長物。
ただ事実と共に生きればいいだけ。

いつまでも信じる・信じないという曖昧な思考の次元にいないで、スッキリさわやか、
クリアーな次元で生きればいい。
自分を理解すれば、その空間が待っている。
いつまでも泥沼の中で生きていたい?
それとも、泥沼から咲く蓮の花になる?

『信じれば 裏切られるのは 当たり前 自分本位の 想定範囲』

『信じれば 相手を縛る ことになる 想定外の 自由認めず』

『信じれば 応えてくれる 人ならば 信じなくても 応えてくれる』

『泥沼を 抜けて花咲く 蓮の花 地上の穢(けが)れ 残すことなし』
               
                     >>日記 無色透明 『413日目 - 信じること』 より

      
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別窓 | 風景 | コメント:2
欲望
2010-09-03 Fri 13:42
                                    『完璧な緑と白の世界』
完璧な緑と白の世界ー30-sep_07_10
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『欲望』     
  
最近は、思考のカラクリについて書いている。
今日は、欲望について書く。
欲望はどこからやってくるのだろう?
元をたどれば、これも自己保存の本能に行き着く。
食欲と性欲と安全欲。
それは動物の本能だ。
これがなければ種族を維持できない。
だから、本能自体は何も問題はない。

動物には本能はあるが、欲望はない。
では、欲望はどこから生じるのだろうか。
最近の悪役は、決まって思考。
ここでも思考の出番となる。

ベースは本能。
しかし、思考はそれをより確実に確保しようとする。
ストック、ストック、ストック・・・
欲望は限りない。
食料だけではない。
自らの安全を確保するために、軍隊を創設し、軍備を整える。
相手が軍備を増強すれば、こちらも負けてはいられない。
自分の安全がお金で確保できると思う人は、お金に走る。
いくら溜めても、完全に安心はできない。
いつ盗まれるかもしれないし、いつハイパーインフレになるかもしれない。
より安全を確かなものにするために、土地や貴金属も確保する。
しかし、財産が増えれば増えるほど、盗まれる危険性も増す。
安全を確保しようとすればするほど、心のやすらぎは遠くなる。
それだけではない。
病気になったら元も子もない。
健康のためにジムに通い、健康補助食品を大量に飲みまくる。
それでも、地震が来たらひとたまりもない。
地震にも負けない耐震構造の家を建てるしかない。
それでも、ミサイルが飛んできたら耐えられない。
庭にシェルターを掘るしかない。
しかし、毒ガスや細菌戦になったら・・・
心配や不安はキリがない。
安全対策を施せば施すほど、不安はいや増すばかり。

いくら万全の安全対策をしても、風邪さえ防げない。
新型のインフルエンザが大流行したら、一歩も外に出れなくなってしまう。
ハンバーグもアメリカ産牛肉は危険なので食べられない。
ヘタにセックスしようものなら、常にエイズの危険が付きまとう。
どこにも安全確実は見当たらない。
考えれば考えるほど、危険は増すばかり。

安全に対する欲望は果てしない。
しかし、その欲望そのものが、不安の原因となっている。
これではイタチごっこ?
いや、自分の尻尾を追いかけ回す犬だ。
安全を求めれば求めるほど、安全は遠ざかる。
安全を求めれば求めるほど、不安が増大する。

美味しいものをいくら食べても、一日に食べられる量は知れている。
ところが、食欲というのは限界がない。
美味しいものを求めて世界中から珍味を集める。
美味しい店を探して世界中を食べ歩く。

性欲も肉体的には限界がある。
連日連夜、何人もの人と交わり続けることは不可能だ。
にもかかわらず、性欲に限りはない。
魅力的な人を求める旅は終わらない。

食欲も性欲も肉体的には限界がある。
動物たちは本能の範囲内で生きている。
ところが、人間だけは、自分が食べられる範囲を越えて食糧を備蓄しようとする。
よそでは飢え死にしている人がいても、美食にふけり大量の残飯を出す。
世界中の魅力的な異性を独り占めにしようとする。
欲望は自己中心的だ。
自分さえよければいい。
自分の安全が確保されれば、他のことはどうでもいい。
それが極めて短絡的な思考であることには気づかない。
それがやがて身を滅ぼすことになろうとは、その時になるまで気づかない。

本能には限界がある。
しかし、欲望に限界はない。
それは本能が肉体に基づいているのに対して、欲望が思考に基づいているからだ。
思考に限界はない。
考えることに限りはない。

その欲望と欲望がぶつかり合い、戦いが起きる。
それは果てしない戦いとなる。
憎しみと恨みがぶつかり合う。
それは子々孫々にまで受け継がれる。
アラブとイスラエルの戦いは、いつ果てるとも知れない。

すべては思考がつくり出す罠。
思考は必要以上のものを確保しようとする。
足ることを知らない思考に限界はない。
そういう思考の性質を知って、どうするか。
思考任せにしていては、地球は危ない。
思考の思うままに翻弄されては、地球は破滅してしまう。

理性的に話し合う?
しかし、思考は疑り深い。
相手を信頼する術(すべ)を知らない。
何を信頼するのだろう?
人間性?
いかなる人間性?
これまでの歴史を振り返れば、裏切りと下克上の歴史以外の何ものでもない。
それではお互いを信頼することはできない。
アラブとイスラエルが、どうやってお互いを信頼するというのか。
それは憎しみと恨みの歴史そのものだ。
思考のレベルで信頼を見出すのは不可能に近い。

では、いかにして地上に平和をもたらすのか。
いかにして欲望の無制限の跳梁を抑えるのか。
感情に訴えても、一時的なものでしかない。
理性に訴えても、思考の猜疑心に邪魔される。
では、どうやって・・・

たぶん、思考を超えたものによって、としか言いようがない。
第四チャクラ、即ちハートによって、としか答えようがない。
ハートには、既に信頼関係がある。
ハートの中には、思考の猜疑心を超えた相互信頼が眠っている。
そのハートを呼び覚ます?
たぶん、それしかないだろう。
ハートが思考の上に立つ時、地球は平和になるだろう。
そうでない限り、地球の平和の可能性は見当たらない。

思考に翻弄されない。
思考の奴隷にならない。
思考をマスターする。
思考を自由に使いこなす主体となる。

欲望に振り回されない。
欲望の性質を見極める。
欲望は不安の裏返しでしかないことを見抜く。
欲望に心のやすらぎはないことを深く自覚する。

多くの人が、思考ではなくハートをベースにして生きる時、地球の新しい時代が
やってくるだろう。
それまでは欲望をベースとした争いは収まらないだろう。
思考に中心がある限り、本能と自己同一化した欲望の拡大は避けられない。
ただハートに中心が移った時にだけ、相互信頼をベースとした社会が成り立つ
可能性がある。

思考を見守り、思考を理解し、思考を超える。
ハートにベースを置き、ハートで生きる。
ハートの時代の到来だけが、新しい平和の地球を切り開く。

『時満ちて 多くのハートが 開く時 地球の平和 自(おの)ずからなる』

『人類の 永き争い 終わらせる ハートの時代 目の前に見ゆ』

『自(みずか)らの ベースをハートに 置き換えて 地球の平和 共に開かん』
               
                     >>日記 無色透明 『387日目 - 欲望』 より

      
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