いのちの写真と光の言葉
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恐怖
2010-08-27 Fri 13:12
                                           『白い流れ』
白い流れー27-oct_07_10
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『恐怖』     
  
自己保存の本能である恐怖については、何も問題はない。
では、何が問題をつくり出すのだろうか。
その犯人は、思考だ。
思考が過去の恐怖体験を基に、未来の恐怖を必要以上に煽(あお)り立てる。
それが自由な行動を制限する。

過去の恐怖体験は貴重な財産だ。
それは自分の身を守るのに役に立つ。
実際、動物はそのようにして生きている。
ところが、人間は?
人間は恐怖体験を生かしきれていない。
むしろ、恐怖体験に縛られて生きている。

未来の恐怖を考えすぎるあまり、身動きがとれなくなっている場合が多い。
それでは、何のための恐怖体験だったのかわからなくなってしまう。
経験は生かすためにある。
自分を縛るためにあるのではない。

失恋を経験する。
そうすると、新しい恋に慎重になる。
それはいい。
同じ過ちを繰り返していたのでは何の進歩もない。
学習したことは生かして使えばいいだけだ。
しかし、失恋の恐怖のために新しい恋ができなくなっては本末転倒だ。
慎重であるのはいい。
しかし、慎重すぎては新しいことは何もできない。

過去の恐怖体験は、黄信号。
しかし、赤信号ではない。
注意して進めではあっても、けっしてストップではない。
それは失恋に限らない。
事業の失敗。
受験の失敗。
結婚の失敗。
就職の失敗。
数え上げればきりがない。
ありとあらゆる失敗は、同じ過ちを繰り返すなという注意信号。
その経験から学び、それを生かして使えばいいだけだ。

ところが、あまりにも失敗を恐れると、それがいつの間にか赤信号に
変わってしまう。
新しいことに何もチャレンジできなくなる。
世間を狭くし、自分の中に閉じ籠もるようになる。
経験を生かすのではなくて、経験に縛られるようになる。

恐怖は生かして使うものだ。
せっかく備わっている自己保存の本能だ。
それを適切に活用することなのだ。
必要以上に思考で恐怖を増幅しない。
過去の経験は記憶の片隅に置いておいて、今にチャレンジする。

過去の経験は生かす。
しかし、過去の経験に支配はさせない。
そこのところを肝に銘じて自覚する必要がある。
思考がつくり出す恐怖から自由になる必要があるのだ。
本能が感じる恐怖は実在のものだ。
しかし、思考がつくり出す恐怖は幻だ。

事実と共に生きる。
本能的な恐怖は尊重する。
しかし、思考がつくり出す幻の恐怖には支配されない。
過去の恐怖体験を、けっして赤信号にはしない。
黄信号として、注意して進む。

人は死を恐れる。
まだ死んだことがないのに恐れるのはヘンな話だ。
まだ自分は未経験なのに、なぜ死を恐れるのだろうか。
それは身の回りの人の死から、思考が自分の死を類推するから
だろうか。
死にそうな目に遭うことはある。
しかし、死んではいない。
死に直面した時に本能的な恐怖はある。
それは何も問題はない。
しかし、まったく死の危険性がないのに死を恐れる必要はない。
それは思考がつくり出す罠だ。

人はいつかは死ぬ。
しかし、死ぬまでは生きている。
今を生きればいい。
先のことを思い煩う必要はない。
それは思考の空回りだ。
今を注意深く生きればいいのだ。

未来のあらゆる可能性を冷静に検討するのはいい。
しかし、それはあくまで可能性に過ぎない。
考えすぎて恐怖に支配されないことだ。
未来は自分でクリエイトすればいい。
過去の恐怖に支配されないで、自由に思い描けばいい。
そうすれば、それが未来からやって来る。
もういつまでも恐怖に支配されている時代ではない。
思考がつくり出す恐怖のカラクリに気づく時。
思考がつくり出す恐怖から自由になる時なのだ。

注意して進めば、何も恐れることはない。
思考がつくり出す恐怖の幻想に支配されない。
事実と共に生きる。
思考に幻惑されないで、しっかりとグランディングして進む。

注意深さが、あらゆる幻想を吹き払う。
思考に支配されない。
思考を使いこなす。
しっかりと主体性を持ち、注意深く生きる。

『完全に 自由になれる 恐怖から 思考に負けず 注意すること』

『幻想の 恐怖にいつも 支配され 自由に生きる 道を忘れる』

『本能の 恐怖を超えて つくり出す 思考の罠に 気づくしかない』

『目の前の 事実かどうか もう一度 恐怖を見つめ 確かめてみる』

               
                  >>日記 無色透明 『386日目 - 続・恐怖』 より

      
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別窓 | 木霊の森 | コメント:4
怒り
2010-08-22 Sun 10:31
                                        『霧の木霊の森』
霧の木霊の森ー23-july_10
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『怒り』     
  
怒りに対して怒りで応じれば、火に油を注ぐようなもの。
相手が怒ると、ついこちらもつられて反応してしまう。
ほとんどオートマチックに怒りで反応しようとする。
あるいは、恐怖で反応する人もいる。
はたまた、始めに恐怖が、次に怒りが出てくる人もいる。
プラスかマイナスか形は違っても、自動的に反応することに違いはない。

こちらが怒りで返せば、相手は更なる怒りで返してくる。
こちらが恐怖で反応すれば、相手は更に嵩(かさ)にかかってくる。
相手の怒りに対して、こちらはどのように対応したらいいのだろうか。

まず、冷静に聞く。
相手がどうして怒っているのか。
相手をわかろうとするスタンスが、相手の怒りを静める。
いずれにしても、相手につられて感情的に反応しないこと。
つまり、普段の自分を見失わないこと。
冷静に、静かに対応すること。

相手が怒ると、普通は身構える。
相手が自分を攻撃していると思い、自動的に自分を守ろうとする。
それは自己保存の本能に近い。
それはそれでいい。
しかし、それだけでは足りない。
身を守るために反撃することも、身を守るために頑(かたく)なになることも、
適切な対応とは言い難い。
静かに状況を見守る。
静かに相手の気持ちをわかろうとする。
自分の心が動揺しないことが何よりも肝要。

心が動揺していては、何をやっても的外れになる。
自分で墓穴を掘るか、相手の怒りを増幅させる結果に終わる。
まず心を静める。
そして、何が起こっているのか状況を見極める。
冷静であれば、対応のしようもある。
心が動揺していては、的確に動くことはできない。

表面の心は動揺し、自動的に反応しようとする。
しかし、それに負けない。
ぐっと踏ん張って、表面の心を見守る。
怒りに怒りで対応しようとしていないか。
怒りに恐怖で対応しようとしていないか。
怒りに、ひたすら身を守るためだけに反応しようとしていないか。
保身のために自動的に自己弁護しようとしていないか。
よーく見極める。
自動的に反応しないで、よーく自身を見守る。
そして、冷静になってから対応する。
それでも遅くはない。

怒りとは、元々、自己保存の本能に源を持つものではないだろうか。
自分の身が危なくなりそうな時、人は怒るのではないだろうか。
自分が気に入らない時や自分が無視された時にも怒る。
それらも元をたどれば、自身の立場が危なくなることに起因する。
自分の身を守ろうとするところから、怒りが沸く。
自分の立場が危ないと思い込むところから、怒りは起きる。
大切なことは、相手の安全を脅かすつもりはないことを伝えることでは
ないだろうか。
相手の立場を極力尊重することを知らせれば、怒りは収まる。
安全が確保されれば、怒る理由はない。

まず相手の気持ちをわかろうと努める。
そして、相手の気持ちがわかったら、相手の安全を保証する。
相手の気持ちがわかるまでは、静かにしている。
けっして慌てない。
落ち着いて静かに対応すれば、事態は変わる。
怒りに対して動揺した状態で反応しても、エネルギー状態は変わらない。
それでは怒りの連鎖反応が起きるだけ。
場のエネルギーを転換する必要がある。
それには静かさがいる。
自分自身が静かでない限り、場の転換はできない。

怒りという火を鎮めてしまうほどの静かさが必要なのだ。
自分の静かさで相手の怒りの火を消す。
そのくらいの心の深さがあれば言うことはない。
相手をわかろうとする深い心。
自分をわかろうとする深い心。
その心の深さが怒りを鎮める。

表面の波立つ心で生きるのか、それとも深い心で生きるのか。
どちらでも可能。
だが、結果はおのずと異なる。
表面の心で生きることは、都会の喧噪の中で生きるようなものだろうか。
深い心で生きることは、静かな森の中で生きるようなものだろうか。
騒音と喧噪の中で生きたいのか。
静かな自然の中で生きたいのか。
人それぞれの人生。

深く、深く生きる時、その静けさは周りにも影響を与える。
周りの人たちも、いつの間にか深く生きるようになる。
自分自身のエネルギーが周りの環境を創り出す。
環境のせいにして生きるのも人生。
環境を変化させて生きるのも人生。
どちらも、この地球での人生。

怒りは自己保存から生まれる。
怒りに対する怒りも自己保存から生まれる。
自己保存と自己保存がぶつかり合う。
それでは動物と変わらない。
思考が介在する分、厄介になる。

怒りに怒りで反応しない。
自己保存に自己保存で反応しない。
怒りを包み込み、自己保存を包み込む。
それだけが怒りを鎮める。
静かに見守り、ゆっくりと対応する。
怒りと同じ次元の意識で対応しない。
深い意識だけが包み込むことができる。
すべてを包み込み、見守る。
そういう意識だけが、怒りを鎮められる。

『静かさに 怒りも消えて 表面の 波立つ心 深く静まる』
               
                  >>日記 無色透明 『383日目 - 怒り』 より

      
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執着
2010-08-15 Sun 19:59
                                    『木霊の森の木霊たち』
木霊の森の木霊たちーkodama-02_10
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『執着』     
  
昨日、屋久島の知り合いが訪ねてきた。
「年賀メールをもらったけど、アセンションて何?」と聞かれた。
少しアセンションの話をする。
しかし、話をするまでもなかった。

彼女は、できるだけ物を手放すようにしているとのこと。
物がない方がスッキリして、気分がいいらしい。
物には執着しない人だった。

そうであれば、アセンションするのは間違いないだろうと話す。
物に対する執着がなければ、軽い。
何ものにも執着しなければ、アセンションするしかない。
地球の波動が上がるにつれて、自然に自分の波動も上がっていく。
殊更(ことさら)に何かをしなくても、無理なくアセンションできる。
執着がなければ、何も問題はない。
あらゆることに執着しないこと。
もちろん、アセンションにも。

執着とは、固定。
本来無常のものを固定させることが執着。
元々無理があるのだ。
だから苦しくなる。
現実と自分の望むこととの間にギャップが生じる。
執着すればするほど、自分が苦しくなる。
自業自得としか言いようがない。
自業とは、執着すること。
自得とは、その結果自分が苦しむこと。
まさにカルマそのもの。
自業の業とは、カルマという意味。
自ら播いた種を自分で刈り取っているだけ。
作用と反作用。

自由に動いているものを止めてしまうことが執着。
自然な動きを縛ることが執着。
縛ってしまえば不自由になる。
縛ったつもりが自分が縛られている。
執着とは不自由と同義語であり、自由の反対語である。

何ものにも執着しなければ、淡々と生きていける。
楽なものだ。
事実を事実として見て、その事実と共に生きる。
何も問題はない。
アセンションしても、しなくても、何も問題はない。
日々、軽やかに生きていけばいいだけ。
何をやるのも自由。
何をやらないのも自由。
自分で決められる。

何もかも決まっていて自分では何も決められないと思っている人は、幸せとは言えない。
どこにも自由がない。
何もない空間には、何の束縛もない。
カルマ?
そんなものがどこにあるの?
あったら見せてほしい。
それはある次元にある。
作用と反作用として存在している。
しかし、それがどうしたの?
特段恐れることもない。
自分が播いた種は、自分が刈り取ればいいだけ。
嬉しい芽が出る時もあれば、嬉しくない芽が出る時もある。
それぞれを楽しめばいい。
嬉しくない芽でさえ、嬉しくないと思わなければ、別にどうということもない。
単なる事実と思えば、それで済んでしまう。
嬉しくないと受け止めるパターンを改めればいいだけ。
どんな事態が起きても、冷静に対応していれば、そんなに動揺しないようになっていく。
まあ、一呼吸置いて、落ち着いてやればいい。

物にも地位や名誉にも、プライドや自分自身にも執着しない。
執着している自分にも、執着しない。
執着している自分に気づいても、自分を責めない。
自分を批判したり非難したりしない。
自分を批判したり非難したりすること自体が、既に自分に執着している証拠。
執着している自分に気づいたら、ただその執着を手放す。
ただ握り締めている指を離せばいいだけ。
離せば自然に落ちていく。
意識的に放下するまでもない。
手離せばいいだけ。

何もない無色透明の空間は、自由。
束縛するものは何もない。
執着するものがないから。
執着するが故に不自由になる。
何も執着しなければ、自由は元々そこにある。
執着が人を不自由にする。

何も持たないから、何でもできる。
何かに囚われると、その途端に不自由になる。
肉体や記憶やカルマや、様々な制約はある。
それらも、そのまま認める。
それでも人は自由。
何も束縛するものはない。
ただ肉体があり、記憶があり、カルマがあるだけ。
それらのものに囚われることはない。
ただ事実を事実として認めれば、人は自由に生きられる。

執着がない方が楽に生きられる。
でも、執着しないことに執着したら、元も子もない。
執着があったら、それをそのまま認める。
まだ持っていたかったら、持っていてもいい。
手放したかったら、手放せばいい。
どちらでもいい。
それが自由だ。

何もない絶対自由の空間がある。
そこには自由というもの自体が存在しない。
自由以外にはない空間では、自由はないに等しい。
その絶対自由の空間から相対自由が生まれる。
選択肢が発生する。
執着する自由と、しない自由。
いったん執着しまくって、それから解放されて徐々に自由になる。
比較による自由は、相対的な自由。
絶対的な自由は、自由という言葉さえ存在しない次元。
その絶対的な自由の中にいて、相対的な自由の世界を生きる。
空の中にあって、色の世界を生きる。
自由も不自由もまたよし、という世界を生きる。

『執着を してもいいよと 認めれば 半分ぐらいは 執着も消える』

『執着を 見守りおれば 執着の 心もゆるみ 消えてゆくのみ』

『絶対の 境地に立てば 相対は 海の波間に 浮かぶ白波』

               
                  >>日記 無色透明 『367日目 - 執着』 より

      
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先祖供養 - 4
2010-08-12 Thu 17:29
                                         『トンボと誠蓮』
トンボと誠蓮ーseiren-2_10
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   「先祖供養」のテーマで連載をお送りしています。
   今日の日記は『無色透明』で大晦日に掲載されたものです。



『先祖供養 - 4』     
  
昨日掲載したメールに対して、次のような返事が届いた。

「この間はさっそくお返事をいただきありがとうございました。
ご先祖様のことよくわかりました。

でも、お墓のことでまだわからないことがあります。
わたしは二人姉妹の長女ですが、長男の所へお嫁にきてしまいました。
わたしの両親のお墓に入る者はいなくなりますので、先では供養が出来なくなります。
どうしたらよいのでしょうか。
そして、私どもの子供も二人姉妹なので、先では婿養子を考えたほうが良いのでしょうか。

こんなことまでkimiさんにお聞きして申し訳ありません。
またお時間のある時で結構ですので、お考えをお聞かせください。」

この問いに対して、次のように返事をした。

「墓とは何でしょう?
それは先祖の肉体が眠るところでしょうか。
既に大地に還った肉体もあることでしょう。
最近の祖先は遺骨が少しあるだけですね。

ほとんどの先祖は、墓にはいません。
迷えるものだけが墓の周りにいる場合があります。
墓を自分の住処(すみか)と間違えているのですね。

墓というところは、肉体の先祖を思い出し、感謝のエネルギーを送る場所です。
でも、毎日出かけるのは大変だから、自宅に仏壇を置いて、そこで供養することになった
のでしょう。
仏壇には肉親の位牌が置かれています。
仏壇は墓の代理みたいなものです。
そこで、毎日、感謝と愛のエネルギーを送るということですね。

自分の実家と夫の実家の両方の先祖に、感謝と愛のエネルギーを送ればいいでしょう。
自分が亡くなった後?
その頃には地球はアセンションしているでしょう。
アセンションしているということは、既に迷える霊は存在しないということです。
また、既に肉体はないということでもあります。
そんな次元になった時に、先祖供養がまだ必要でしょうか。

自分が肉体を持っている間だけで十分でしょう。
アセンションした後では、墓など存在しないでしょう。
まったく無意味です。
既に肉体の世界は終わったのです。
何も心配いりません。

それでも心にかかるのならば、自分が死んだ後も、あの世から肉体の先祖に感謝と愛
のエネルギーを送ればいいでしょう。
別に子孫が墓に行くまでもありません。
要は、感謝と愛のエネルギーが重要なのですから。
でも、たぶんそんな必要はないでしょう。
時代がまったく変わっていますから。
光の体で生きる時代になるのですよ。
やがて、肉体の形ではなくて、光そのものとして存在するようになります。

そんなに肉体の先祖や墓や供養を気にすることはありません。
光の中で光と共に生きればいいのです。
あまりこの世的なことに囚われないことです。
物質的な幸せよりも、精神的な幸せを求めることですよ。
光の中を生きることですね。」

墓や供養にこだわることはない。
ただ感謝と愛のエネルギーを送っていればいい。
それで十分。
それよりも、日々の生活を真実に生きること。
自分に正直に、周りに誠実に。
それが何よりの供養になる。
それに勝るものはない。

今年も今日で終わり。
最近は本当に早い。
時間がどんどんスピードアップしている。
地球の波動が上がってきている。
時代は急速に変化している。
光の時代に近づいている。

古いものは手放し、軽やかに、さわやかに生きよう。
除夜の鐘と共に一年の心の垢を洗い流そう。
過去のものは何も持たないで、空っぽで新年を迎えよう。
新年は、心新たに迎えるものだ。

『一年の 汚(けが)れを落(音)す 除夜の鐘 心に残る 思いを放下(はな)す』
               
                
      
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先祖供養 - 3
2010-08-06 Fri 17:29
                                     『木霊の森の一番奥』
木霊の森の一番奥ー20-july_10
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
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   「先祖供養」のテーマで連載をお送りしています。
   ホームワークの続きです。  



『先祖供養 - 3』     
  
次は、せきせきさんですね。

「私はこの2年ご先祖の供養を主に行ってきた。
病気も治らず、対応できない出来事がエンドレスに続き、お手上げの末に出てきた、
自然な流れであった。

供養する前から、先祖が後から後から私の体を借りて話しだした。
祖父、親戚の叔父、遠い遠い時代の先祖など、とても苦しんでいる様子であった。
やりたいことがあった人、心を残して他の人に思いを伝えたい人、先祖の痛み苦
しみそのものが私の肉体を痛めていたものもあった。

私の家は、誰の命日も知らない家であった。
死んだ人はそれまでという考えだった。
この2年私は供養の日々。
先祖とともにいた。
墓参りは行けないが命日手帳なるものも作った。

先祖は私に沢山のことを教えてくれた。
先祖供養は見えないもの、繋がっていることを知り、自分が生かされている
すばらしさを一番わかりやすく感じるから、ご先祖供養は素敵な習慣であると思う。
供養を望んでいるご先祖も沢山いるのも事実だと思う。
でも、私が先祖の苦しみを受けてしまったというより、私が、苦しみの中で生きて
いたので、先祖の苦しみに同調し余計引き出しててしまったのかなとも思う。

先祖の苦しみは私の苦しみであった。
今の私の中にあった。

Kimiさんの日記を読ませていただいてから思ったこと、
それは「私は私で全てである」のではないかなあ?ということ。
先祖も過去世も今の私に繋がっている、そのために今の私が大きく左右される
ことはある。
でも、私が私を大事にして、素直にこの魂とこの世界とこの宇宙と生きていけたら、
(これがまた慣れてなくて大変なことなのだけれど)それは、先祖供養が目じゃない
位ものすごくパワーなんじゃないか?
それを望んで人は生まれてきたのだったら先祖も大喜び?
私の魂も大喜び?
何もかも大喜び?
かもと思っているところです。
私の中に先祖も過去世も全てあるからこそ、今の私ができることなのかもです。
でもこれからも、ご先祖様を思う気持ちは、形としてあらわして大切に続けていく
つもりです。
わぁお、初ホームワーク参加!
今年の〆は素敵だ(一人酔い)

先祖供養のことを考えながら、今日一日を過ごして、ひとつ思ったことは、
先祖供養という枠が私にとって、とても窮屈に感じていたということ。
もちろん、先祖を邪険に思うとかじゃなくって、自分だけいいやってものじゃなくって、
うまくいえないけど、狭い世界と感じました。
自由ではないという感じです。
うーーん、もう私にとって必要ないってことなのだろうか。。。」


2年間、先祖供養をしてきたんだね。
あまり先祖を大切にする家系ではなかったんだね。
それは良いことをしたね。
もう充分かもしれないね。
もう次のステップへ行く時かもしれない。
既にせきせきさんも自分で気づいているように、先祖供養という狭い範疇ではなくて、
もっと広い、もっと大きな世界へ出ていく時なんだね。

これまでは自分の中のネガティブなものと同調してきた。
それらをじっくり体験してきた。
でも、もうそろそろ光の世界へ行く時かな。
もっと次元の違うレベルで先祖供養をする段階かもね。

自分の中にすべてがある。
光も影も。
先祖も子孫も。
争いも平和も。
すべてのすべてが自分の中にあるんだね。
それを自分の中で実感する。
それがすべてを癒す。
すべてを光にする。
いわゆる先祖供養とは、まったく次元が異なるんだね。
それがこれからの生き方なんだね。
新しい時代の先祖供養。
光と共に生きることが本当の先祖供養なんだね。
自分自身が光になることが真の先祖供養なんだね。
自分自身の真実を生きてください。


次は、えりさんですね。

「こんにちは。
初参加よろしくおねがいします☆
先祖供養を辞書で引いてみたら、
死者の冥福を祈って法会を営むこと。
また、開眼供養、経供養など寺院の仏教行事をもいう。
とありました。
死んでも魂は今までの続きをやっていると私は勝手に思っているので、法事とかは、
この日はこの場で一緒に遊びましょ♪って感じでお坊さんに先導されて一緒にお経を
歌ったりする日だ!
とか勝手に思っています。

水子供養は、悲しかったり、辛かったり、罪の意識がでたりするんですけど、縁がなか
ったということで、終わったことはしょうがないじゃん!っていうのはどうでしょうか?」


初めまして。
これからよろしくね。
お経って、歌うものなの?
お経というのは、お釈迦様が説いたことを書いたものだよね。
それは唱えるものではなくて、実践するものだよね。
お釈迦様がお経の中で述べていることを理解し、そのように生きること。
それが一番大切なことだよね。
お経をあげるだけという仏教は、既に形式仏教になってしまっているのですね。
法事であれば、先祖に感謝し、迷える霊に愛と光を送ることだよね。
そうすれば、すべてが光に満たされていく。

水子に関しては、
ごめんなさいという気持ちと、光になってほしいという気持ちかな。
でも、一番癒される必要があるのは、水子ではなくて、その母親の方かもね。
母親が自ら癒されるために水子供養をする場合も多いのではないかな。
二度と水子を出さないように心に決め、愛の中で身籠もることを祈るのかな。
愛の中で生きることだよね。
それがすべての癒しに通じるんだね。


最後は、アリスさんですね。

「先祖供養って
今、ここに私が生きていることに感謝することだと思います。」


そのとおりだね。
先祖によって、今の自分がある。
それを思えば、自然に感謝になるよね。
基本的にはそれでいいのではないかな。


久しぶりにホームワークをやって、みなさんいかがでしたか。
なかなか楽しかったですね。
               
                
      
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別窓 | 木霊の森 | コメント:1
先祖供養 - 2
2010-08-03 Tue 20:44
                                           『緑の世界』
緑の世界ー19-july_10
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   「先祖供養」のテーマで連載をお送りしています。
   このテーマでホームワークを行いました。
   みなさんのワークも興味深いですし、それに対するkimiさんの回答がとても
   参考になると思いますので、アップします。
   一緒にワークするつもりで読んでみてください。 



『先祖供養 - 2』     
  
ホームワークについて検討してみましょう。

質問は次のようなものでした。

「屋久島のお墓は、お花がとてもきれいだとありました。
屋久島の方々は、御先祖を大切にされているんですね。
御先祖様の供養というのは、どう考えればよいのでしょうか。
供養と感謝は、やはり意味が違うのでしょうか。
ある人に、家系図をきちんと作って、祀りもれている人がいないかをみて、
水子霊などがあれば、お祀りした方がよいと勧められたのですが、なんとなく
一歩踏み出せないでいます。
どのように考えたらよいか、よろしければご指導いただけましたら幸いです。」

先祖供養というのは、どういうことだろうか。
別に答を期待しているわけではない。
一緒に検討してほしいのだ。
改めて見つめ直してもらいたいのだ。
わからなければ、わからないでもいい。
感想でも、自分の考えでもいい。
特に正解というものはないだろう。
但し、一度はきちんと自分の中で整理しておいた方がよいテーマだ。
誰もが直面する問題でもある。
そういう意味で、ホームワークということにしてみた。


たくさんの回答、ありがとうございました。
では、具体的に一人一人の回答を検討していきましょう。

まず、えっちゃんから。

「今、勤め先で私の当番の日だけ、仏壇のお花とお茶を変えて、お線香たてを
キレイにする。
他人の仏壇だけど、皆さんの無事を祈って手を合わせる。
いいもんだなあって気がする。

仏壇はなかったけど、子供の頃は、毎年お墓参りをしていた。
父の山深い田舎に行くのは楽しかったし、家族や親族が集うのも楽しかった。
私は特に年の離れた末っ子で、先祖は実は、両祖父、両祖母とも知らないし、
親類の誰がどうなってるのかよくわからない。
けれど、時々こうして親族が集まる口実としては、お墓参りはいいもんだなって
思ってました。
そうでもないと、親類なんて会うこともないから。

けれど、最近読んだ「いのちのまつり」という絵本で、先祖を想う事もいいことだ
なって気付いた。
この場合、先祖といっても誰々と指名できるものではなく、自分が生まれてくる
ために膨大な数の先祖が存在して、まったく奇跡としか言いようがないような確率
で、私が生まれた・・・という感謝を込めての先祖を想うということです。

屋久島のお年寄りは毎朝お墓参りをします。
私の下宿先だったところのおばあちゃんは、未だ暗いうちから起きてお墓の手入れ
をしに行くのです。
そうすることでおばあちゃんは、亡くなられたご主人をいつも傍に感じていられたんだ
と思います。
こういう素朴な生活のリズムは、いつも自分をニュートラルに戻して、そして一日を
始動するという意味では、いいもんだなあって思います。
それが先祖の墓参りでも、神社へ参拝することでも。

だから私は、きちんと祭らないと霊が浮かばれないとか、祟りがあるとかは思わない
けれど、先祖を想う事はいいことだと思います。
自分の存在を感謝する事であり、近しい先祖(私の場合父や母、兄達)を想う事は、
私にとっての彼らの存在を感謝する事になると思えるから。 」


子供の頃、親類がみんな集まるのは、なんとなく嬉しいことでしたね。
従兄弟たちと遊ぶのは楽しかった。
えっちゃんの場合は、仏壇に手を合わせる時に、勤め先の先祖だけでなく、自分の
先祖や、すべての人の先祖に対しても感謝の気持ちを伝えるといいかもね。
せっかく仕事で仏壇の前に座るのですから、それをお薦めします。
ただ「ありがとうございます」だけでいいですから。


次はやちよちゃんですね。

「私は『先祖供養』とは一番縁遠い生活を送っているかな...
幼い頃、父の転勤で北海道から現在の県に引越した。
その後の親戚付き合いはすべて親まかせで、私は...誰が誰の子供なのかさえ
把握できていない。
葬式で2、3度北海道へ行ったが、ご先祖の墓参りはしていない。
具体的な場所もわからない。

昔々若い頃、ハンコ売場の姓名判断で『色情因縁』があると言われた。
(なんですとぉ~?!と思ったっけ)
結婚できないのはその祟り?
先祖の墓参りもしていないし?

実は、今はほとんど気にしていない。
ご先祖を敬う気持ちが日常にあれば、それでいいのではないかと。
ご先祖だけではない、全ての魂。ひとつの魂。
今ここに在ることに感謝。
だめかな?
わたしもイロイロな意見が聞きたいです。」


先祖の墓の場所も知らない?
それは珍しい人だね。
別に墓の場所はどうでもいいけど、感謝と愛のエネルギーは、時には送った方が
いいかもね。
例えばお盆の時期とかに。
今ここに自分があることに感謝し、周りの人に感謝し、先祖に感謝する。
常にそれができていれば何も問題ないね。


次は、ぴあのさんですね。

「生まれた時から 信心深い そして先祖は大切に大切にお祭りしなければならない
という祖母のもとで育てられた私の向こうには いつも”先祖”の存在がありました。

よく、梅の咲く時期に法事が行われていました。
幼い私は、梅の木のそばで、梅の香りに包まれ浄土三部経を聞いていました。
その時の私は、本当に 幼いながらも お経の波動が心地よく 梅の花と香りの
相乗効果もあってか 心地良い至福とともに ”心はお浄土” を体験していました。

お仏壇に手を合わせ 亡き父や母、かわいがってくれた祖父や祖母、そして 私の
知らない多くのご先祖様に思いを馳せるとき、今ここにいる私を再認識し、ただ、
ありがとうございます と心からの感謝の念が湧き上がってまいります。
そして、心が静まってまいります。

ただ、何かうまくいかないことがあると ご先祖さまに浮かばれていない人がいるからでは 
または、お墓が悪いのでは etc. 
巷でまことしやかのように言われていることには疑問を感じます。
そのような世界のことは 実際私に見えるものではありませんので それはないでしょう 
とも言い切ることができませんが、何か腑に落ちないものを感じ 違うようにも思います。

『一人出家すれば九族天に生まる』 という言葉があります。
文字通り、私が出家すれば という意味ではなく、私はこの言葉を 私が 今、ここに魂の
代表選手として生まれてきたことを心から受け止め、真理を求め、愛と光を感受し、自分
が内奥から真の光に包まれ輝くことで 私に繋がるご先祖様にもその光が届くのでは・・・ 
計り知れない影響があるのでは・・・ と 思っています。

これは、私個人とご先祖を分離するものではなく、すべては ひとつ と 繋がっている
からです。
そして、時間の軸を 今、過去 と見るのではなく、時間を外したひとつの宇宙での繋がり 
と見るからです。
そして、それは、三次元的な血のつながりだけではなく 森羅万象へも必ず影響がある
ものであると思います。」


『一人出家すれば九族天に生まる』ということの真の意味は、単に一族から一人お坊さん
が出ればいいということではなくて、ぴあのさんが書いているように、真に悟る必要がある
のだね。
一人の悟りは、まさに九族を救うんだね。
九族というのは、九世代ということでしょう。
膨大な数の人々です。
実際は、先祖だけでなく同時代の人も救うし、子孫にまで影響があるでしょう。
一人の人が悟るということは、それほど偉大なことなのですね。

自分自身が真に宇宙とひとつであることを体現する。
それが万民を救います。
その光によって縁のある無数の人が救われるのですね。
そういう意味では、一番の先祖供養は自分自身が光り輝くことだということになりますね。
ぴあのさん、大正解かな。


次は、たろうくんですね。

「私は、一つの宗教を信仰している両親の元に生まれ、仏教の家庭で育ちましたので、
嫁ぐまでは、毎日仏壇に手を合わせお経を読んで、その宗教のやり方で先祖供養を
してきました。

今は、私自身の中で祈る気持ちを持ち続けていれば、一つの宗教に囚われなくても
いいと感じたので、両親と同じ宗教を歩むことは離れました。

主人の両親は亡くなり、長男ということで両親の信仰していたお仏壇は我が家へ置いて
います。
お骨もお墓に入れないで、そのまま自宅に置いています。
それに関しては、たくさんの意見もありますが、私たちもその時がくればお墓に入れて
あげたいという気持ちもあります。
今は、いつも側で私たちと共に過ごすことが、私たちの自然の流れです。

ご先祖様の命のバトンが引き継がれ、今の私がいます。
今ここに生きることを感謝して、自分のバトンを命いっぱい生きることが先祖供養と
思って、感謝の気持ちを持ち続けています。」


宗教や宗派にこだわることはないよね。
真心からの感謝かな。
日々、今あることに感謝だね。
その気持ちは先祖にも伝わるし、子孫を守ってあげることにもつながるでしょう。
お骨は早く自然の中に返せるといいね。
地球からいただいたものは、地球へ返す。
先祖の愛に対しては、愛の感謝で返すということだよね。


* 先祖供養[3]に続きます。
               
                
      
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