いのちの写真と光の言葉
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屋久島石楠花の蕾
2006-09-30 Sat 09:13
石楠花ー7
 

   愛   感情の源 - 4   
   
   自分の中が乾いていると、周りにやさしくできませんね。
   自分の中が潤っていると、自然に周りにもやさしくできます。
   時間に追われているとか、とても忙しいとか、心の余裕がないと、
   心豊かに生きることは難しくなります。
   心の豊かさというのは、いかに自分の中の深いところと一緒にいるか
   なのですね。
   忙しくなると、意識が表面だけになってしまいがちです。

   表面だけの心は、表面的なものに反応します。
   人の意識の表面は、それぞれ異なります。
   異なるところをベースに生きれば、トラブルが絶えません。
   深い共通の意識のところにベースを置かないと、心やすらかに生きることは
   できないのですね。

   認めてもらいたいという意識は、そんなに深い意識ではありません。
   子供の頃から引きずっている意識ですね。
   いわゆるインナーチャイルドです。
   それもまた事実ですから、そのまま認めるしかありません。
   しかし、その意識をベースに生きれば、いつも満たされない思いで生きる
   ことになります。

   愛を求め続ける意識をベースに生きる時、人は幸せではありません。
   そこに留まる限り、常に不満が付きまといます。
   愛そのものの意識領域で生きる時、もう何も求めることはありません。
   自分自身が愛そのものなのですから。

   愛を求める意識領域で生きる限り、愛の代償として様々なものを欲しがります。
   自分の存在を認めてほしい。
   そのために、お金や地位や名誉を求めます。
   異性を支配しようともします。
   人をコントロールし、弱者をつくって満足しようとします。
   すべて愛の代償行為です。

   愛を求める不安定な自我を満たすために、必要以上に強がったり、権力を
   保持したりもします。
   それでも満たされることはありません。
   愛の源へ還らない限り、永遠に満たされることはないのです。
   愛を満たすためには、愛を求める意識の更に奥へ向かうしかないのです。
   そこにだけ、深いやすらぎがあります。

                                  (明日に続きます)   

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オオキンケイギク
2006-09-29 Fri 09:31
オオキンケイギク
  

   否定されること  感情の源 - 3   
   
   相手に誤解される。
   それだけなら、まだ許せるのかもしれませんね。
   誤解は誰にでもあることですから。
   でも、否定的に誤解されると・・・

   ちょっと許せませんね。
   自分が否定されたような悲しい気分になってしまいます。
   どうして悲しくなるのでしょう?
   自分が否定されたから?

   では、自分が否定されると、どうして悲しくなるのでしょう。
   自分が否定される=悲しいということでしょうか。
   自分が否定されることは悲しいことでしょうか。
   悲しいという反応以外にはあり得ないのでしょうか。

   では、逆に肯定されたら?
   もちろん、嬉しい。
   人は、否定されて悲しみ、肯定されて喜ぶのでしょうか。
   ほとんどオートマチックに?

   普通は、褒められると喜び、けなされると悲しくなります。
   それは子供でも大人でも同じです。
   その根底にあるものは、認められたいという願いでしょうか。
   それは幼児期から見られます。

   親に認められ、褒められ、肯定されると嬉しくなります。
   逆に、親から叱られ、否定されると悲しくなります。
   それは人の意識の中でかなり根深いものです。
   それが成長した後も尾を引いています。

   人から認められることが、自身の安全や安心に繋がるのですね。
   逆に否定されると、身の安全が脅かされます。
   そういう幼児期以来の持ち越したものがあって、悲しくなったり
   嬉しくなったりしているのでしょうか。

   自分の存在を認めてもらうということが、
   人にとってどれほど大きなウエイトを占めていることか。
   それを深く理解する必要があるのかもしれませんね。
   自分の中にある、認められたい、わかってほしいという気持が
   どれほど強いか・・・

   「この人には伝わらない」と決めつけて、相手を悪者にすることに
   よって、否定された自分を正当化しようとします。
   あるいは、この人は自分を認めてくれないと諦めて、自分の世界に
   引き籠もり、自分を守ろうとします。
   いずれも認められたい気持の裏返しです。
   相手を判断・解釈することによって、人は自分を守ろうとするのですね。
   しかし、それもまた思考の悲しいパターンなのです。

   自分の悲しみやさびしさの奥にあるものを深く理解しましょう。
   それらと共にいて、見守り、抱きしめてあげましょう。
   認められたい、否定されたくないという思いの奥には、生きようとする
   意志があります。
   生命力が漲(みなぎ)っています。
   そこまで辿り着ければ、また人生が変わってくるでしょう。

                                  (明日に続きます)   

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苔の雫
2006-09-28 Thu 13:52
苔ー37


   感情の見極め   感情の源 - 2

   ほとんどの感情は、自分ベースから起きてきます。
   その根底にあるものは、自分を守ろうとする意識です。
   肉体を維持するためには、自己保存の本能が必要です。
   自己保存の本能から感情は生まれます。
   感情は肉体の快・不快から出発して、複雑に発達していきます。
   やがて、思考力が発達するにつれて、自我ベースの感情になって
   いきます。

   その自己中心的な感情を理解しない限り、感情に振り回されます。
   自分を守ろうとして出て来るいろんな感情。
   その一つ一つを注意深く見守り、理解する必要があります。
   そうしない限り、人は感情の奴隷です。

   人は、思いの奴隷であり、感情の奴隷であり、肉体の奴隷です。
   それらをマスターするまでは、真の主体性は確立できません。
   これまで主体性と思っていたものは、思いや感情や肉体の反応に
   過ぎません。
   それは肉体の自己保存の本能に端を発する反応人生なのです。
   スピリチュアルな主体性は、微塵もないのですね。

   肉体、感情、思考を見守り、理解しないことには、真のスピリチュアルな
   主体性は確立しません。
   いくら精神世界の本を読んでも、セミナーに出ても、自分を理解しない限り、
   単なる思い込みです。
   それは自分を守るための自我の行為に過ぎません。
   自己を主張したいがための個の成長であり、永遠の魂です。
   それは自我からの自由ではありません。

   自分の中にある肉体感覚、感情、思考を、しっかりと理解する
   必要があります。
   それらがクリアーされない限り、精神世界は絵に描いた餅です。
   どこにも真の自由はありません。

   感情が出てきた時に、その感情はどこから来たのかをしっかり
   見極めてください。
   自己保存の領域から来ているのか、それとも、それ以外の感情が
   あるのか・・・
   よーく見極めてみるといいでしょう。
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シマイボクサ
2006-09-27 Wed 10:01
シマイボクサー07-july


   感情の源 - 1
   
   人は自分の思うようには動いてくれません。
   それぞれのペースで動いています。
   そうなると、自分の気に入らない言動も出てきます。
   そこで、いろんな感情が生まれます。
   落胆、悲しみ、怒り、さびしさ・・・

   そういう感情の源は何でしょうか。
   それは相手に対する期待、こういう場合にはこのようにすべきだ
   という自分の思い込みでしょうか。
   その期待や先入観に反したことを相手がすると、自分の中から
   ムラムラと感情が沸き出してきます。
   相手が間違っている。
   自分は正しい。
   という価値判断から出てくる感情です。

   意識が相手に行き過ぎると、自分の意識状態がお留守になります。
   自分のことは棚に上げて、相手を非難したり、批判したりすることに
   なります。
   自分の中の思い込みや価値基準に気づけません。
   外側の現象に流されるだけです。

   やはり、自分の意識状態を注意深く見守っていることですよね。
   もちろん、外側も見ている必要があります。
   両方必要なんですね。
   外側と内側を両方見守れている状態では、そんなに感情的になることは
   起きません。
   冷静に対応できます。

   多様性を認めることもできるし、軽くアドバイスすることも可能です。
   何気なくバックアップするような形でサポートすることさえできるかもしれません。
   相手と自分の主観だけで生きていると、いろんなトラブルが発生します。
   お互いに主観同士では、ぶつかるしかありません。

   自分を見守る客観的な意識が必要です。
   その時に、感情を超えられる可能性が出てきます。
   主観だけでは、感情の虜。
   感情のままに翻弄されるしかありません。

   自分を見守る意識がある時には、相手も見守ることができます。
   自分を見守る意識がないと、相手も見守れません。
   短絡的に相手に反応して、感情の泥沼にのめり込むだけです。

   自分を見守っていれば、相手に対する感謝も湧いてくるし、職場に対する
   感謝も湧いてきます。
                           (明日に続きます)   

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ハイビスカス
2006-09-26 Tue 12:09
ハイビスカスー17-june
  


       君の名は? 見知らぬ虫に 名を問わば

         虫は虫視して  虫心に動く

                     K-Communication №24 より


   ☆ぴあの編集後記
   今日はちょっと小休止。
   カラフルなハイビスカスと名前のわからない虫さんで和んでくださいませ。
   屋久島のいのちの写真をデスクトップ用壁紙カレンダーに作成いたしました。
   明日より、ダウンロードできるようアップいたします。
   皆様のパソコンのデスクトップに使っていただけると幸いです。

   

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飛翔する雲
2006-09-25 Mon 13:28
飛翔する雲
 

   光 - 3   (昨日の続きです)
   
   長年の人間的な思い込みを外し、これまでの人間の枠を超える時が
   近づいている。
   枠を超えること自体は、以前から可能だった。
   その証拠に、釈迦やキリストは従来の人間の枠を超えていた。
   しかし、一般の人が枠を超えるのは不可能だった。
   時代が、まだそこまで熟していなかった。
   しかし、時は満ちた。
   多くの人が変容する時が来た。

   従来の人間から、これまでの枠を超えた人間へ。
   意識の次元が変わる。
   波動が一段アップする。
   そういう時が来た。

   これまでの思い込みを手放し、新しい次元に飛翔する。
   意識を物質から解き放つ。
   自由の天地で輝く。
   そういう時がやって来た。

   裡に裡にフォーカスする。
   裡にこそ無限の可能性がある。
   外に目を向けても、物質次元を超えることはできない。
   内側にこそ、物質から飛翔するエネルギーが宿っている。

   意識の奥の奥の精妙なエネルギーを感じる。
   精妙で希薄なエネルギーの中に、無限の世界が広がっている。
   それは大気圏から大気圏外へ抜け出るようなもの。
   従来の地球人間から、宇宙人間へ変容する時。

   物質界から、非物質界へ。
   固定的な観念から、自由な意識へ。
   思い込みの塊から、思い込みを超えた世界へ。
   固体から液体へ。
   液体から気体へ。
   たぶん、固体から一気に気体へ変わるような変容の時期。
   凝縮度が薄れ、自由なエネルギー体に変わる時。

   これまでの意識の枠を取り払う。
   人間的な制限された意識を手放す。
   非物質的な、スピリチュアルな意識に目覚める。
   それも物質的な自己中心的なスピリチュアルではなく、非物質的な
   非自己的なスピリチュアルに。

   自己の成長という精神世界の呪縛を超えて、完全自由の地平へ。
   それは無限ということ。
   過去も未来も現在も、すべて含めた無限。
   無限の中で、人を生きる。
   人、人にあらず。
   人は、霊止(ひと)なり。

   霊(ひ)とは、ひとつのものであり、すべての源。
   それが多くの存在に別れ、なおかつ、ひとつとして存在している。
   その無限の存在が裡に宿る。
   それが人=霊止(ひと)。

   それが自覚できる次元へのシフト。
   物質人間から、霊止(ひと)への脱皮。
   あなたは、晴れやかに舞うことができるだろうか。
   飛翔の時は近づいている。

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滝に咲く石蕗
2006-09-24 Sun 03:06
滝に咲く石蕗ー20-aug
  

   光 - 2   (昨日の続きです)
   
   肉体は、幽体を入れる器。
   幽体は、霊体を入れる器。
   霊体は、神体を入れる器。
   神体は、神を入れる器。
   神は、器ではない。
   宇宙の本質。

   魂も、また器。
   幽体や霊体や神体とは、また違った表現のエネルギー場。
   器とは、エネルギー場。
   肉体は、物質界というエネルギー場の乗り物。
   幽体は幽界の、霊体は霊界の、神体は神界の乗り物。
   それぞれの界に、それぞれの乗り物があるだけ。
   乗っているのは誰?

   乗っているのは、神。
   宇宙の本質。
   いのち。
   愛。
   光。

   呼び方は、いろいろある。
   その性質に応じて異なる呼び方をする。
   しかし、本質はひとつ。
   宇宙にひとつのもの。
   唯一絶対。

   宇宙とは、唯一絶対のものの光のバリエーション。
   波動の違い。
   壮大な宇宙の、ひとつの営み。
   今、私達は波動の遅い人間として存在している。
   しかし、裡には無限の可能性が宿っている。
   唯一絶対の宇宙の本質が宿っている。

   その本質をどれだけ輝かせるかで、波動が異なってくる。
   可能性としては、無限。
   不可能はない。
   不可能を存在させているのは、思い込みのみ。
   思い込みを外せば、不可能はない。
   なぜなら、本質は無限の存在だから。

                            (明日に続きます)

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光のショー
2006-09-23 Sat 06:10
光ー31


   光 - 1
   
   スタジオで写真を撮る時、人に照明を当てる。
   光が当たると、人の肌は美しくなる。
   更に強い光を当てると、まるで透き通るような肌に変わる。
   もっと強い光を当てると、どうなるだろうか。
   ディテールは飛び、光そのもののようになってしまう。

   これは光の強さ、波動の細やかさと似ている。
   この世の存在よりも、天国の存在の方が光が強い。
   天国の存在よりも、天使は更に光が強い。
   天使よりも、如来や菩薩は更に光が強い。

   地上から離れれば離れるほど、存在の光は強くなる。
   肉眼ではとても正視できない。
   たぶん眼は潰れてしまう。
   モグラが太陽の光に耐えられないように。

   光が一番暗いところは、地上だろうか。
   いや、地下はもっと暗いかもしれない。
   いずれにしても、極めて単純な構造になっている。
   光がだんだん弱くなる。
   そして、波動がだんだん遅くなる。

   人間よりも波動が遅くなると、植物になり、鉱物になる。
   それはエネルギーが凝縮されるプロセス。
   動きが鈍いということは、エネルギーが凝縮されて不活性化して
   いるということ。
   水に熱を加えれば、エネルギーは活性化して水蒸気になる。
   液体から気体になると同時に拡散する。
   熱によって活性化され、凝縮から解放される。

   大宇宙の無限のエネルギーが、徐々に波動が落ち、凝縮され、
   形を取っていく。
   神々の意識となり、如来や菩薩の意識となり、天使の意識となり、
   やがて人間の意識となる。
   それは光が落ちていくプロセスであり、不自由になっていくプロセス
   であり、小さく固まっていくプロセスでもある。
   エネルギーは更に凝縮され、動物となり、植物となり、鉱物とになる。

   肉体人間になるということは、波動が落ちることであり、光が弱まる
   ことであり、物質化することでもある。
   だから、この世に生まれると、物質に溺れ、肉体に執着しても、
   誰も責めることはできない。
   光が弱いのだから。
   植物よりも少し波動が速いだけの肉体に入っているのだから。

   それでは今の現状は仕方がないのかと言うと、そうでもない。
   なぜなら、肉体がすべてではないから。
   肉体の中に、無限の可能性が宿っている。
   幽体、霊体、神体・・・
   そして、体ではない神そのもの。
   宇宙の本質が宿っている。

   その宇宙の本質を活性化させれば、肉体の中にいても無限の
   可能性が現実化する。
   霊としての本質が輝けば、肉体自体が変わっていく。
   光の肉体となる。
   内なる本質によって、その周りのものは変容していく。
   肉体も、幽体も、霊体も、神体も変わっていく。
   それらは器。
   器は、その中身によって変容する。

                            (明日に続きます)

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霧の木霊の森
2006-09-22 Fri 09:30
霧の木霊の森ー23-july


   慈母観音
   
   悲しみの裏側に、慈しみがある。
   悲しみと同時に、慈しみがある。
   それを慈悲と言う。

   愛よりも更に深い愛。
   悲しみをも癒す愛。
   すべてを包み、すべてを癒す愛。
   何もすることなく、遠くから見守り続けている愛。
   直接人生に介入することなく、ただ包み込んでいる愛。
   共に悲しみ、共に苦しみ、すべてを見守っている愛。

   そういう愛を超えた愛が生まれるために、
   人は非苦の巷に住んでいるのだろうか。
   人の中に非苦を超えるものが芽生えるために、
   非苦を体験しているのだろうか。
   非苦を体験し、非苦を超え、非苦の彼方へ行くために、
   人は非苦の海で生きているのだろうか。
   非苦があることによってのみ生まれる慈悲を求めて、
   人は非苦の海を彷徨(さまよ)っているのだろうか。

   非苦と共にある時にのみ、人はそれがわかる。
   非苦から逃げていては、非苦の意味はわからない。
   非苦と共にある時にのみ、非苦の深さがわかる。

   人類の非苦は、慈しみによって見守られている。
   人類の非苦を、無上の慈しみが包み込んでいる。
   非苦の巷で迷う一人一人を、慈しみは見放してはいない。
   懐(ふところ)深く抱きしめ、黙って涙している。

   無始無終の愛。
   愛を超えた愛が、静かに見守っている。
   愛が昇華された慈悲という名の無上の愛が、
   無条件に包み込んでいる。

   慈悲に至る道。
   非苦を超え、慈悲に至る道。
   目に見えない慈悲に包まれ、人は非苦の海を泳いでいる。
   地球という愛の星は、慈母観音の掌(てのひら)の上で青く
   輝いている。

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ミヤコグサ
2006-09-21 Thu 06:38
ミヤコグサー03

      
   ここから読まれる方、ぜひ 『初めに言葉ありき - 1』 からお読みください。

   
   初めに言葉ありき - 4

   結局、『人を見て法を説け』 とは、人を判断して話をするのではなく、
   真剣に人を ”見ながら” 話をするということではないでしょうか。
   自分の過去から ”見た” 結論を基に話をするのではなく、今・現在の
   ”見る” ことの中から言葉が自然に出てくるということです。
   過去から見るのではなく、今・現在を見るのです。
   その時に、真の意味での 『人を見て法を説く』 ということができるの
   ではないでしょうか。
   過去の反応がない時にのみ、”法” を説くことができるでしょう。

   法は聖書や仏典の中にではなく、そのような関係の中に存在するのでは
   ないでしょうか。
   法は生きたものであり、それは真の関係の中においてのみ生れ得る
   ものでしょう。
   聖書や仏典の言葉は容易に思考化され、自我の道具にされます。
   そこに法の生命はありません。
   ただ刻々の真の関係においてのみ、生きた法が存在するのではないで
   しょうか。
   真実の言葉は、自我ではない別の次元から出てきます。
   それのみが人を変え、世界を救います。
   その時にのみ、言葉に生命が宿るのではないでしょうか。
   その時に初めて、『初めに言葉ありき、言葉は神なりき』 という聖書の
   言葉が生きてくるのではないでしょうか。

                          K-Communication №17より
   

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ヤクシマシャクナゲ
2006-09-20 Wed 09:47
石楠花ー6
      
   ここから読まれる方、ぜひ 『初めに言葉ありき - 1』 からお読みください。

   
   初めに言葉ありき - 3

   もちろん私たちにとって、一気に自我がない状態で話すことは難しい
   ことかもしれません。
   私達にできることは、話している中で、それが自分の過去の反応から
   出てくる言葉かどうかに気づいているということでしょうか。
   無自覚に、出てくるにまかせて話をするのではなく、自分の言葉に
   注意していることが必要ではないでしょうか。

   瞬間・瞬間自分の反応と相手の状態に注意していることの中から、
   自我ではない言葉が突然出てくるかもしれません。
   それは、一言であるかもしれないし、もう少し続くかもしれません。
   いずれにしても、それは意識的に出てくる言葉ではないはずです。
   それは自分の ”過去から” 無意識に出てくる言葉ではなく、
   ”自我とは別の次元から” 無意識に出てくる言葉です。
   そのような言葉だけが、真に相手に響いていくでしょう。
   そういう言葉のみが、人の深いところに響き、影響を与えていくのでは
   ないでしょうか。
   深い部分が揺り動かされ、目覚めていく・・・
   その時にのみ、真の意味での関係があるのかもしれません。
   その時にのみ、お互いの深い部分が共振するということが起きるのかも
   しれません。
   
                       (明日に続きます)

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野アザミ
2006-09-19 Tue 07:09
野アザミー3
      
   ここから読まれる方、ぜひ 『初めに言葉ありき - 1』 からお読みください。

   
   初めに言葉ありき - 2 

   では、『人を見て法を説け』とは、どういうことでしょうか。
   それは相手によって話し方を ”変える” のではなくて、相手によって
   話し方が ”変わる” ことではないでしょうか。
   ”意識的に変える” のではなくて、相手によって話し方が
   ”自然に変わる” ことではないでしょうか。
   何かを意識的にしている限り、それは自我であり続けることでしょう。
   それは工夫や改善をもたらすかもしれませんが、
   依然として自我の拡大や改良の域にとどまるのではないでしょうか。
   そうではない、全く違う取り組み方というものはないでしょうか。

   『人を見て法を説け』 とは、自我ではなく、ただ ”見て”、
   その ”見ること ”の中から自然に言葉が出てくるということでは
   ないでしょうか。
   自分の過去の反応としての言葉ではなく、今、その場における相手との
   関係の中から出る言葉。
   自分の ”過去” ではなく、”今の” 二人の関係が生み出す言葉。
   自分の過去から言葉が出てくるのではなく、今、その場の相手との関係
   の中から言葉が出てくる時、意識的に話し方を変える必要は全く
   ありません。
   意識的に変えるのではなく、自然に変わります。
   相手によって、その時その場の状況によって、出てくる言葉は自然に
   変わっていきます。
   もしそれがいつも同じであれば、その時、そこには真の意味での関係
   はないことでしょう。
   同じ相手でも、出てくる言葉はその時その時で違ってくるはずです。
   それが自分の過去の反応でない時、その時に一番ふさわしい言葉が
   二人の関係の中から自然に生れてくるのではないでしょうか。
   それは意識的に相手によって話し方を変えようとすることの中からは
   決して生れないでしょう。
   自我がない状態で話される時にのみ、そういうことが起こりえるのでは
   ないでしょうか。

                       (明日に続きます)

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ムラサキカタバミ
2006-09-18 Mon 14:00
ムラサキカタバミー01
      
   今日から四日間、生命の宿る真の言葉とは 『初めに言葉ありき』
   をアップします。どうぞ四日間、通して読まれることをお薦めします。
   写真はその間、お花シリーズです。
   毎日いろんなお花をアップしていきます。お楽しみください。

   
   初めに言葉ありき - 1 

   『人を見て法を説け』 と仏陀は語りました。
   『人を見て法を説く』 とは、どういうことでしょうか?
   一般的には、相手によって話し方を変えることのように
   受け取られています。
   同じパターンではなく、その人にわかるように話す、
   というような意味です。
   しかし、はたしてそうでしょうか?

   『人を見て法を説け』 とは、本当に相手によって話し方を”変える”
   ことでしょうか。
   もしそうであれば、相手によって話し方を変える時、そこには相手に
   対する判断が入っていないでしょうか。
   この人はこういう人だ、だからこういう難しい話はわからないだろう。
   この人はこのレベルだ、だからこの程度がふさわしいだろう・・・
   その時、人は自分の過去の経験から相手を判断し、自分の過去の
   経験や知識から話をするのではないでしょうか。
   人を見て、”意識的に”話し方を変えることは、明らかに自我では
   ないでしょうか。
   自分の過去から相手を判断し、自分の過去から話をする ― 
   それはあくまで自分の世界であって相手と共に生きてはいません。
   そこに真の意味での関係があるでしょうか。
   相手と私はそれぞれ別の世界に住んでいて、そこから壁越しに
   話し合っているのではないでしょうか。
   はたして、そこに真の関係が成り立つのでしょうか。

   では、『人を見て法を説け』とは、どういうことでしょうか。

                       (明日に続きます)

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光のショー
2006-09-17 Sun 13:01
光ー27
  

   愛と創造 - 4  (昨日の続きです)
   
   (ここから読まれる方、ぜひ愛と創造 - 1からお読みください)
  
   
   愛と言い、創造と言っても、元はひとつのもの。
   それを源と呼び、いのちと呼び、神と呼んでも同じこと。
   ひとつのものの様々な姿であり機能だ。
   離合集散によって宇宙の創造は成り立つ。
   その集合を、愛と呼び、統合と呼ぶ。
   その離散を、創造と言い、分離と言う。
   それは物理現象にも、心理現象にも共通している。
   宇宙の森羅万象に共通しているのだ。

   わかりやすく言えば、結びつける力と、引き離す力。
   引力と斥力。
   求心力と遠心力。
   収縮と膨張。
   吸う息と吐く息。
   統合と分離。
   愛と創造。
   プラスとマイナス。
   陽と陰。

   それらの組み合わせによって、宇宙の森羅万象は
   できあがっている。
   人の心も物理現象も。
   それらのことをクリアーに理解する時代になろうとしている。
   これまでのように感情的に捉えるのではなく、
   明晰に理解すればいいのだ。

   人は生まれて来る時に息を吐き、死ぬ時に息を吸う。
   生まれて来る時は、母胎から分離し、魂から分離し、
   個としての分離の人生をスタートさせる。
   息を吐くのは、分離・創造の証だ。
   人が死にゆく時は、分離した肉体を離れ、魂のふるさとへと
   向かう。
   吸う息は再統合の象徴なのだ。

   宇宙には、すべてを結びつける愛があり、
   同時に、すべてを解き放つ創造がある。
   個々に分離し、一見バラバラに見えるものも、
   根底では愛でつながっている。
   愛でつながっているが故に、分離できるのだ。
   分離とは、ひとつのものの仮の姿。
   すべては愛でつながっているのだ。
   つながりながら分離しているのだ。

   星々が宇宙空間に浮かんでいるように、
   分離・創造されたものは愛の海の中に浮かんでいる。
   それらは、分離しているようで統合されている。

   それらは空の中に浮かぶ色であり、愛の海を泳ぐ創造なのだ。

                 >>日記 無色透明 より    全文は >>こちら

   

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苔の上の紅葉
2006-09-16 Sat 13:45
苔の上の紅葉ー29-j
  

   分離と統合  愛と創造 - 3  (昨日の続きです)
   
   (ここから読まれる方、ぜひ愛と創造 - 1からお読みください)

   
   食べものを食べるという行為は、愛だ。
   それは、食べものと自分がひとつになることだから。
   食べものと自分が統合されるのだ。
   「食べてしまいたいほど愛しているよ」「わたしとひとつになってね」と、
   食べものに話しかけながら食べたら、消化は完璧だろう。
   拒食症になる必要はないのだ。
   食べものを愛すればいいだけだ。
   太ったりやせたりするのは、自分の身体と相談すればいい。
   どうにでも調整できるだろう。
   食べることは、愛することだ。
   食べることは、統合へ向かう動きなのだ。

   では、食べないことは?
   無食は愛の行為ではないのか?
   三次元の食べものを食べないことは、三次元とは統合しないということ。
   三次元のものを食べなければ、光を食べることになる。
   つまり、光と統合するということ。
   別の次元と統合するのだ。
   愛の行為に変わりはない。

   食べて統合されることによって、分離が生じる。
   身体と食物が統合された、まさにその時、分離が始まる。
   エネルギーとなって、動き出すのだ。
   肉体と食物が統合されれば、三次元の創造活動が始まる。
   統合と同時に分離が生じるのだ。

   磁気的、電気的なプラスとマイナス。
   陽と陰。
   統合と分離。
   愛と創造。
   いろんな呼び方があるけれども、原理は同じだ。
   分離し、創造し、愛し合い、統合する。
   その絶えざる繰り返しによって、宇宙は成り立っている。

   愛する者との離別。
   それが死別であれ生別であれ、分離は統合の始まりだ。
   新たな統合へ向けてのスタートでしかない。
   同様に、結婚も分離の始まりとも言える。
   統合された瞬間に分離の種が宿っている。
   新しい生命が生まれる。

   どんな関係でも、常に一定の愛をキープしなければならないと
   いうことはない。
   実際、それは難しい。
   分離と統合の間で、揺れ動いていればいいのだ。
   太陽系みたいにバランスを取っていればいい。
   愛と創造の中で、自分なりに揺れていればいいだろう。
   ファジーでいいのだ。
   その方が自然に近く、楽に暮らせるだろう。

   なんとなく、とりとめもなく書いてきたが、愛というのを統合、
   創造というのを分離、プラスとマイナス、求心力と遠心力、
   引力と斥力(せきりょく)というような見方で見ると、また日常の
   景色が違ってくる。
   これまでは、統合は善で分離は悪みたいな受け止め方が
   多かったように思う。
   世間一般では、いや、精神世界でも、愛はすばらしく、離別は
   よくないみたいな風潮が支配的だ。
   でも、統合と分離は不離一体のもの。
   表と裏の関係に他ならない。

   それはプラスがあって初めてマイナスがあるようなもの。
   分離がなければ、愛もないのだ。
   分離があるが故に、愛があるのだ。
   愛があるためには、分離が絶対必要条件なのだ。
   分離こそが愛を生み出す。
   分離こそが宇宙を創造する。
   愛だけでは宇宙はできないのだ。

                               (明日に続きます)

                 >>日記 無色透明 より    全文は >>こちら

   

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深い谷
2006-09-15 Fri 08:43
深い谷
  

   アセンションのキー  愛と創造 - 2  (昨日の続きです)
      
   太陽系は、太陽の周りを9惑星が同心円を描いて運行している。
   もし、分離のエネルギーだけであれば、つまり、遠心力だけであれば、
   太陽系の形を維持することはできない。
   逆に、統合のエネルギーだけであれば、つまり、求心力だけであれば、
   太陽系の惑星はすべて太陽に吸収されてしまう。
   遠心力と求心力とのバランスによって、現在の太陽系が維持されている。
   分離と統合のバランスの上に、現在の太陽系があるのだ。

   しかし、いつの日か、分離=創造のエネルギーが尽きる時、
   すべての惑星は太陽に吸収される。
   もしかすると、太陽系そのものも銀河系の中心太陽に吸収されてしまうの
   かもしれない。
   銀河系の中心太陽にすべての銀河系の星々が吸収される時、
   統合が頂点に達した時、つまり、愛が絶頂を極める時、極限まで凝縮された
   中心太陽は大爆発を起こすだろう。
   男女の愛が極まった時と同じように。
   陽極まれば陰。
   統合の極点は分離の始まりなのだ。
   そこからまた新しい星系が創造される。

   分離した男と女が肉体的に一つになる時、その頂点において精子と卵子も
   合体する。
   その統合の頂点において、新しい分離が始まる。
   新しい生命が誕生するのだ。
   新しい生命は分離のスタート。
   統合から、創造=分離が始まる。

   今、地球はアセンションしようとしている。
   アセンションとは、宇宙の源との統合へ向かう動きだ。
   地球が統合へ向かおうとする時、まだ分離を押し進めようとする人は、
   地球と一緒にアセンションすることはできない。
   地球とは逆の方向性のため、別の星で分離の生を生きるしかなくなる。

   統合とは、愛だ。
   だから、アセンションのキーは、愛のハートチャクラを開くことにある。
   統合は、男女間の分離をなくすだけでなく、他の人たちとの分離をなくすこと
   であり、自分の魂との分離をなくすことでもある。
   また、地球や動植物や精霊や神々との分離をなくすことも意味する。

   統合とは、愛。
   ひとつになることだ。
   分離とは、創造。
   新しく宇宙を創造することだ。

   今の地球の流れは、分離から統合へ向かっている。
   愛の方向へ流れている。

                               (明日に続きます)

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ハイビスカスと七五岳
2006-09-14 Thu 09:27
七五岳-01
  

   愛と創造 - 1  
   
   精子と卵子が結合する。
   その際、精子は数億個の中から生存競争に打ち勝った一つだけが
   生き残る・・・
   世間一般では、そのように言われることが多い。
   それが競争社会を正当化する口実にもなってきた。
   本当だろうか?

   精子と卵子が合体するのは事実だ。
   その精子が数億個の中の唯一であるのも事実だ。
   では、その精子は競争を勝ち抜いて卵子に到達したというのは
   事実だろうか?
   プラスとマイナスの磁石は、自然にくっつこうとする。
   それと同じ原理ではないだろうか。
   卵子のマイナスエネルギーに最も遠いプラスエネルギーを持った
   精子が、最初に卵子に到達するのではないだろうか。
   最もエネルギー的に引き合うものどうしが、最初に合体するのだ。
   つまり、相思相愛ということ。
   お互いに引き合うのだ。
   別に精子が生存競争を勝ち抜くのではなく、精子と卵子が
   お互いに引き合う。
   それが事実ではないだろうか。
   精子は卵子に引かれて、必死で卵子のところへ行こうとする。
   人が愛する者のところへ苦難を乗り越えて会いに行くのと、
   なんら変わりはない。
   愛が結びつけるのだ。

   愛とは、結びつける力。
   引力、求心力。
   男と女は惹かれ合う。
   なぜか?
   持っているエネルギーが異なるから。
   磁石のプラスとマイナスが引かれ合うように、男と女も互いに
   惹かれ合う。
   分離したものは、統合へと向かう。
   統合こそが、愛なのだ。
   男女に分離したものが、統合される姿が愛。
   分離と統合という原理は、男と女、精子と卵子、
   磁石のプラス・マイナスを問わない。
   同じ宇宙の原理だ。

   実は、分離したものの中に既に統合の種が宿っている。
   分離しているが故に、統合を希求するのだ。
   逆もまた真なり。
   統合の中に分離の種もある。

   実は、分離こそが創造とも言える。
   宇宙の創造は分離以外の何ものでもない。
   ひとつの源からの分離。
   それが宇宙の創造だ。
   しかし、分離だけでは宇宙は空中分解してしまう。
   分離と統合のバランスが取れていることによって、宇宙は維持
   されている。

                              (明日に続きます)

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苔の雫
2006-09-13 Wed 18:48
苔ー36
  

   見ること - 3   (昨日の続きです)

   もちろん、”ただ気づいている” ということとは別に、
   思考で徹底的に考える、自分自身を見つめる、ということもあるように
   思います。
   深く考える中で、気づきや洞察が起き、とらわれが落ちていく・・・
   それを積み重ねていく中で、思考が思考の限界を悟り、おのずから静まる・・・
   それも一つのあり方だと思います。
   もしかしたら、最初はこちらから入った方が入りやすいのかもしれません。
   (その中で客観的な思考力がつくように思います)
   日常生活の中で、瞬間・瞬間気づいていることは並大抵のことではありません。
   ですから自宅に帰って静かになって、今日一日のことを振返る、
   自分の今日の反応を深く見つめてみる、それによってその構造が見え、
   とらわれが消えるということは確かにあります。

   それをずーっとこれまでやってきたように思います。
   でも、それは思考で見つめるというか・・・瞬間・瞬間ではないのですね。
   瞬間気づいて、その気づいた瞬間消えるということではありません。
   即座ではないのです。
   思考では、‘今’の瞬間・瞬間に気づくことはできません。
   なぜなら、それは‘過去’の記憶の反応ですから。

   それはややもすると分析や自我が納得する理由を見つけて安心するという
   ことにもなりかねません。
   あるいは、頭だけでわかって何の変化も起きないということもあり得ます。

   確かに、思考で静かに見つめる中で、それなりの理解の深まりや、
   こだわりが外れるということは起きますが、それはまだ個々の反応の理解で
   あって、全的な思考の理解ではないような気がします。
   思考が本当に思考の限界を理解して沈黙しない限り、
   それはまだ思考の領域内にあるのではないでしょうか。

   ただ気づいている、ただ見ている、というのは即自我ではない意識の状態
   ではないでしょうか。
 
                            K-Communication №17 より
   

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行き交う船
2006-09-12 Tue 11:11
行き交う船
  

   見ること - 2   (昨日の続きです)

   どれほど強い感情も、全てが現われてやがて消えていきます。
   それに巻込まれて慌てて何かをしなければ、ただ静かに眺めている
   ことができれば、自然に消えていきます。
   瞬間的にあるいは、しばらく心が乱されることがあるかもしれませんが、
   それにとらわれなければ、やがてまた平静な心に戻ります。
   (こう書くと、ほとんど禅に近い感じですね?)

   反応にとらわれない、ということでしょうか。
   でも、本当はそれが一番難しいのかもしれませんね。
   心が掻き乱されると、すぐあれこれ考え出してしまいますから・・・
   反応をただやり過ごすことができるか、反応に反応しないでスーッと
   通り過ごさせることができるか・・・
   (風邪をひいた時、静かに休んでうまく風邪を経過させると、
   自然に回復した時、風邪に罹る前の何倍も体がリフレッシュされます。
   それと似ているでしょうか)

   それができるようになると、心はいつも平静でいられるのかもしれません。
   そして、そのうち反応さえも起きなくなる・・・それは見続けることによって、
   反応が起きる意識のゾーン(振動率) をはるかに超えてしまうということで
   しょうか・・・

   そうなると、真の意味での瞑想状態、気づいていることにも気づいていない、
   ただ見ている、回りに起きることをただ観照している・・・ということが実現する
   のかもしれませんね。

   観照とは、文字どおり、観ることがあたりを照らすことです。
   内なる光が輝き出し、回りを照らす光になるということです。

                                (明日に続きます)
 
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光のショー
2006-09-11 Mon 15:44
光ー30
  

   見ること - 1

   ”自分の反応を見ている” とは、どういうことでしょうか?
   あるいは、”自分の反応に気づいている” とは、どういうことでしょうか?
   もちろん、「あ、また反応した。また怒っている。しょうがないな・・・」 と
   言いながら見ていることではありませんね。
   それでは自我が自我を裁いています。
   「反応した。怒っている・・・」 と言語化すること自体がすでに自我の認識
   です。
   そうではなくて、ただ‘黙って’気づいていることはできないでしょうか。
   それは一切言語化しないで、一切反応にかかわらずに、ただ気づいている
   ということです。

   無視するのでも抑圧するのでもなく、もちろん増幅するのでもなく、
   ただ静かに気づいているだけです。
   反応に振り回されないで、ただ反応を見ている・・・
   反応は、ただ見ているだけであれば、現われてやがて消えていきます。
   反応に反応して、いろいろ考えたりしなければ、それは自然に消えて
   いきます。
   それがどこから来るのか、それは何なのかとあれこれ詮索しだすと、
   その時にはたいてい思考の渦にまき込まれています。

   思考で考えなくても、静かに見ている中で瞬間的に何かがわかる、
   ということが起きるのではないでしょうか。

                            (明日に続きます)
   
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苔に咲いたハイノキの花
2006-09-10 Sun 11:26
苔に咲いたハイノキの花ー27-may

   責めること - 2   (昨日の続きです)  

   不満=人のせい=人を責める。
   そういうパターンが無意識のうちに自分の中にできあがる。
   成長した後も、そのパターンは継続する。
   相手を責めることによって、不満を解消する。
   相手のせいにすることによって、現状を自分に納得させる。

   そこには甘えや思い込みや先入観や期待が、ない交ぜになっている。
   それらが裏切られる時、怒りや憎しみ、恨みや悲しみが生まれる。
   期待という思い込み。
   当然やってもらえるという先入観。
   こうあるべきだという固定観念。
   そういう思い込みが裏切られる時、自分の中で不満がつのる。
   そして、人を責めるというパターンに陥る。

   この泥沼から抜け出す道は、このプロセスを深く理解すること。
   自分自身を通して理解すること。
   すべての期待を外すこと。
   すべての思い込みを手放すこと。

   いかに自分が他人に依存して生きてきたかを深くわかること。
   他人が自分の期待に応えてくれない時、相手を責める。
   それが自分のパターンであることを理解する。

   真に自立している人は少ない。
   多くの人は、いつも誰かに依存している。
   その依存が裏切られる時、相手を責める。
   信頼という名の甘え、期待。
   そして、裏切り、失望。
   そういう自分のパターンを理解する必要がある。

   いかなる先入観も固定観念もなく人と接すれば、裏切られることはない。
   一切の思い込みがなければ、人を責めることも起きない。
   自分の中にある思い込みが、人を責めることに導く。
   それは無意識のパターン。
   気がつかない限り一生ついて回る癖。

   思い込みから自由になる時、初めて人は自立できる。
   それまでは思い込みという依存に振り回される。
   気づくこと、自覚すること。
   それなしには、本質的には幼児期のまま変わらない。
   自分をもう一度根本的に見つめ直さない限り、人は刷り込まれたままの
   人生で終わる。
   基本パターンは一生変わらない。
   それに気づかない限りは・・・

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苔に咲いたサクラツツジ
2006-09-09 Sat 12:59
苔に咲いたサクラツツジ
  
   責めること - 1    
   
   人を責めるとは、どういうことだろうか。
   あの人のせいで、こうなった。
   相手が悪い。
   自分は悪くない。
   相手が加害者。
   自分は被害者。
   自己正当化と責任転嫁。

   相手を悪者にして自分の正しさを主張しても、何の問題解決にも
   ならない。
   自分を納得させるための解釈に過ぎない。
   解釈によって気に入らない現実を納得しようとしているだけ。
   事実は少しも変わらない。

   もしそれが望む現実でなかったら、行動して変えるしかない。
   他人のせいにして納得している場合ではない。
   自分の望む現実を創造する。
   それが一番シンプルで素直な生き方。

   行動しないで相手を非難するだけでは、何の問題解決にもならない。
   相手を批判して自分の責任を棚に上げても、現実は何も変わらない。
   非難や批判している暇があったら、現実を変えるための方策を考えた
   方がいい。
   何らかの行動をすることが、現実を変えることに繋がる。

   人はなぜ他の人を責めるのだろうか。
   幼児期に両親や家族から、いろいろ面倒を見てもらう。
   しかし、兄弟が増えたり、自分が成長することによって、
   やがて自分の望むようにはやってもらえなくなる。
   本当はこうもしてほしい。
   ああもしてほしい。
   でも、その願いが叶うとは限らない。

   そこから人を責めることが始まる。
   以前は当たり前にやってもらえたことが、やってもらえない。
   親ならば当然やると思っていたことを、やってくれない。
   周りの人も、こちらが期待するほどにはやってくれなくなる。
   冷たい。
   不親切。
   思いやりがない。
   自分勝手。
   私のことなんてどうでもいいんだ。
   みんな自分さえよければいいと思っている。

   ひがんだり、拗(す)ねたり・・・
   受け入れがたい現実に、無意識に人を責めてしまう。
   たぶん、周りにいた人たちも無意識に人を責めていただろう。
   幼児は無意識のうちに周りの人の反応パターンを吸収してしまう。
   気がつかないうちに、自分の気に入らない時は人を責めるように
   なっている。
   それはほとんど刷り込みに近い。

                             (明日に続きます)
   
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苔のしずく
2006-09-08 Fri 14:52
苔ー35
  

   バランス - 3   (昨日の続きです)  

   人生とは、小さな舟に乗って川を下るようなものだろうか。
   常に舟のバランスを保つ必要がある。
   バランスを保ちながら、行き交う舟や景色との出会いを楽しむ。
   その楽しみも、度を越してはバランスが崩れる。
   意識が外のものにばかり向いても、意識が内にばかり向いていても、
   アンバランスとなる。

   右脳と左脳のバランス。
   右半身と左半身のバランス。
   肉体と精神のバランス。
   この世のこととスピリチュアルなこととのバランス。
   ありとあらゆるバランスがある。
   それら十重二十重(とえはたえ)のバランスの上で、人は生きている。

   陰と陽。
   プラスとマイナス。
   動と静。
   引力と遠心力。
   能動と受動。
   二つの力のどちらかに偏れば、動きが止まってしまう。
   微妙なバランスの中で、すべてが変化している。
   それが生命現象というもの。
   何重ものバランスによって、すべての生命現象が成り立っている。

   釈迦が見出した中道というのは、単なる真ん中というだけに留まらない。
   深い深い宇宙的な意味を秘めて、中道は存在している。
   それは生命の根源に関わる。
   バランスがなければ、生命現象は止む。
   限りない変化はバランスから生まれる。

   絶え間ないバランスのオーケストラによって、すべての生命現象は
   成り立っている。
   偏らないということ。
   囚われない、こだわらない、執着しない。
   偏れば、生命現象は継続できなくなる。
   バランス。
   調和。
   それが生命の源。
   それが生き方の基本。

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不思議な木
2006-09-07 Thu 15:40
不思議な木
  

   バランス - 2   (昨日の続きです)  

   生きるとは、バランス
   バランスが崩れれば、病気になったり、死を迎えることになる。
   仕事とプライベートのバランス。
   家族と自分のバランス。
   あらゆるもののバランスを整える。
   それが生きるということ。

   川の流れが激し過ぎては、すべてが流されてしまう。
   川の流れが淀んでは、水が死んでしまう。
   ほどほどに流れることによって、すべてが生かされる。

   川の流れが淀めば、時に激流となって溜まっていたものを一掃する。
   それが台風のようなもの。
   自然はそのような微妙なバランスの上に成り立っている。

   肉体を持って生きるとは、肉体だけに執着することでも、
   スピリチュアルだけにこだわることでもない。
   肉体とスピリチュアルのバランスを取ること。
   それがこの世で健全に生きるということ。
   想いと行いのバランスを取る。
   そのバランスは一人一人が自分自身で見出すしかない。

   やり過ぎれば、壊れる。
   やらな過ぎれば、退化する。
   ちょうどよくやれば、調和する。
   この大原則を忘れないことだろうか。

                              (明日に続きます)

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宙に浮く毛虫
2006-09-06 Wed 11:54
宙に浮く毛虫
  

   バランス - 1  

   釈迦は、中道と言った。
   楽器の弦は、強く張り過ぎれば切れてしまう。
   弱くては音が出ない。
   ちょうどよく張って、良い音が出る。

   過ぎたるは及ばざるがごとし。
   やり過ぎれば、壊れたり、執着が残ったりする。
   十分にやらなければ、何も学べないし、何も完成しない。
   やり過ぎない、けれども、やり足りないということもない。
   そのバランス。

   これで十分というポイントは、人それぞれ異なる。
   中道というのは、客観的な基準がある訳ではない。
   バランスがとれている状態。
   調和されている状態。

   それは刻々に動くので、その感性を身につけるしかない。
   バランス感覚。
   偏らないという感覚。
   すべてを生かすという感覚。

   想いと行動のバランス。
   肉体と精神のバランス。
   物質とスピリチュアルのバランス。
   運動と休憩のバランス。
   男性性と女性性のバランス。

   いろんなバランス感覚を自分で身につけていくしかない。
   いろいろ試行錯誤しながら、自分で体得する。
   偏れば、アンバランスになる。
   人生が不安定になる。
   安定した人生を生きたかったら、中道のバランス感覚を磨くしかない。

   それは一度身につければ、それで終わりというものでもない。
   常に揺れ動いているのが現実。
   目の前に起きて来る事態に、その都度バランスを見出す必要がある。
   それはまるでサーカスの綱渡り。
   それを大変と捉えるか、面白いと捉えるか・・・

                              (明日に続きます)

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完璧なアーチ
2006-09-05 Tue 16:44
虹ー25-d
  

   感受性 - 2   (昨日の続きです)  

   肉体も感情も思考も浄化され、クリアーであることが求められる。
   あらゆる条件がそろわないと、深い感受性は期待できない。
   感受性は、まさに自分の意識の深さに比例する。
   精神が細やかであればあるほど、感受性も細やかになる。
   豊かな感受性を求めるのであれば、精神を研ぎ澄ます必要がある。
   クリアーで透明な精神状態の時、三次元を超えた豊かなものが
   感受できる。

   意識の広がり。
   自分から溢れ出すエネルギーが、いろいろなものを感受する。
   広がりゆく意識が、いろいろなものに出会い、感受する。
   その次元にいるということ。
   その次元にいるから、その次元のものが感受できる。
   すべては、自分の意識しだい。

   それは五感も変わらない。
   視力について言えば、車のヘッドライトが当たる範囲のものが
   見えるようなもの。
   自ら光を出して感受している。
   感受性とは、自らエネルギーを出して感受するもの。
   単なる受け身ではなく、内から溢れるエネルギーと外のものとの出会い。

   内なるエネルギーが充実し、それが自然に溢れ出す。
   それが様々なものと出会い、細やかに感受していく。
   感受性に必要なものは、精神の静かな充実。

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秋の屋久島
2006-09-04 Mon 16:06
秋の屋久島ー01-d
  

   感受性 - 1   

   感受性とは、単なる受け身ではない。
   単なる受け身状態では、ボンヤリしているだけ。
   心に隙があるので、簡単に傷ついてしまう。

   感受性が豊かであるということは、自分の波動が精妙であるということ。
   自分の波動が精妙であればあるほど、細やかに感受できる。
   自分の波動に応じたものが感受できるだけ。

   五感にしても、感度の違いがある。
   アフリカの原住民には、視力8.0という信じられない視力の持ち主もいる。
   聴力にしても、都会人では聞き分けられないものを遠くから聞くことができる。
   臭覚も、排気ガスで鈍感になっていなければ、微妙なものが嗅ぎ分けられる。
   味覚も、合成添加物や化学調味料に犯されていなければ、体に悪いものが
   わかるはずだ。
   皮膚感覚も、厚着をしていなければ、ぜんぜん違ってくる。

   誰もが持っている五感でさえ、かなりの程度の差がある。
   五感を超えた感受性となると、それこそ千差万別。
   敏感な人から鈍感な人まで、百人百様。

   食べ過ぎたり、疲れていたり、夜更かしすると、感受性は鈍くなる。
   思い込みが多くても、感受性は鈍る。
   思考が常時動いていても、感受性は鋭敏になれない。
   深い感受性のためには、頭がクリアーで静かである必要がある。
   自分自身がエネルギー的に充実していないと、高度な感受性は望めない。

   感受性とは、自分の中から精妙なエネルギーが溢れ出し、それが精妙なものを
   キャッチする感じ。
   自分の中が荒っぽくては、精妙なものを感受することはできない。
   いかに自分の波動を細やかにするか、いかに自分の心の中を静かにするか、
   感受性はそれにかかっている。
           
                                   (明日に続きます)

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永田いなか浜よりの硫黄島
2006-09-03 Sun 11:25
永田いなか浜よりの硫黄島
  

   傷つくということ - 5   (昨日の続きです)

   多くの人の心の中に子供が住んでいます。
   子供の頃に満たされなかった思いを持ったままの子供が。
   そういう部分を持ちながら、みんな大人になっています。
   ですから、大人の顔と子供の顔の両方を持っているのですね。
   寛大な自分と我が儘な自分。
   外面(そとづら)と内面(うちづら)。
   建前と本音。
   まあ、いろいろあるわけです。
   ここでは、そういうものを全部ありのまま認めて、理解しようとしています。
   見て見ぬふりをしないのですね。
   見たくないものには蓋をして目を逸らしがちですが、そうすると、
   見てほしいと言って内なる子供が暴れ出すのですね。
   いずれにしても、いつかは直視せざるを得ないのです。

   自分自身をケアーしてあげることです。
   ケアーしなかったら、いつまでも傷つきっぱなしです。
   一番可愛そうなのは、あなた自身です。
   さびしくて、つらくて、悲しいのですよ。
   子供の部分も大人の部分も満たされていないのですから。

   突き放されて、さびしいと思った時、自分の気持ちを受け入れてもらえ
   なかった時、傷つくのですね。
   そして、傷ついている心許なくて不甲斐ない自分を見て、また傷つくの
   ですね。
   傷ついているのは、プライドと我が儘な心。
   依存心が足下をすくわれて、我が儘が行き場を失うのですね。

   本当は自分の気持ちを受け入れてもらいたいのですね。
   でも、受け入れてもらえないと、傷つく。
   そんな自分を見て、また傷つく。
   よほど傷つくのが好きなのですね。
   傷つくことによって、何か良いことがあるのかな?
   自分で自分を慰めているのですね。
   自分の中に閉じ籠もっている子供ですね。
   自閉症?
   そうやって自分を守っている?
   これ以上ひどい仕打ちを受けないように、しっかり傷ついている。
   このくらい傷ついていれば、もう傷つけられることはないだろう。
   こんなに弱い者を傷つけてはいけない。
   被害者は守ってあげなければならない。
   大切に、大切に保護してあげなければならない。
   私は傷ついているのです、みなさん!
   みんなさん、私を見てください!
   こんなに傷ついているのですよ!
   可愛そうでしょう!
   だから、これからは大事にしましょうね!
   みなさーん、わかってますか!
   ハイ、まさに悲劇のヒロインそのものです。

   傷ついている暇があったら、自分自身を見つめた方がいいのかも
   しれませんね。
   そうすれば、悲劇のヒロインや被害者のドラマを演じなくてもすみます。
   弱者でも被害者でもなく、そういうレッテルのない、ありのままの自分で
   いられます。
   思い込みというドラマ。
   それこそが、まさに人間の悲喜劇。
   人生そのものですね。
   それがこれまでの人生でした。
   これからは?
   あなたは、これまでどおりの人生がいいですか。
   それとも、これまでのドラマにはもう飽きましたか。
   もうそろそろ新しいドラマに取り掛かりたいですか。
   それは思い込みがないというドラマですが・・・
   さて、どうします?
            
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幻想の森
2006-09-02 Sat 11:38
幻想の森ー03-june
  

   傷つくということ - 4   (昨日の続きです)

   では、何が傷ついているのでしょうか。
   何も傷ついてはいません。
   傷ついたというイメージがあるだけです。
   ショックを受けて自分は傷ついたという思い込みです。
   自分が傷つくことによって、自分を弱者にしているのです。
   可愛そうな被害者にすることによって、自己を正当化しているのです。
   悪いのは相手で、自分は正しい。
   自分は攻撃され否定されている可愛そうな弱者であり、被害者である。
   これで自分を守っているのではないでしょうか。

   弱者がいやな人は、相手を非難して、相手を悪者にすることによって
   自分を正当化します。
   それが怒りです。
   傷つくの逆は、怒り?
   いずれも自分のイメージが否定された時に出てきます。
   自分の思い込みが攻撃されると、相手を反撃するか、
   反撃できそうになければ自分を弱者にして自分を守るのですね。
   いずれも自分を守るための行動であることは共通しています。
   戦うことがいやな人は、傷つくふりをして自分を守るのですね。
   弱者や被害者になることによって、自分を守っているのです。
   そういう意味では平和主義者ですね。
   怒りにまかせて反撃する人は、好戦的なのでしょうか。
   ところが、どっこい!
   平和主義者が、相手が自分より弱いと見ると反撃したりするのですよ。
   そう、自分の子供に対しては、どんな平和主義者も好戦的になります。
   どこが平和主義者?
   そう、平和主義も好戦的も相対的なのですね。
   相手次第で変わります。

                              (明日に続きます)
            
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ヤクジカ
2006-09-01 Fri 11:44
ヤクジカー02
  

   傷つくということ - 3   (昨日の続きです)

   傷つくとは、どういうことでしょうか。
   人は本当に傷ついているのでしょうか。
   それとも、それさえも思い込みなのでしょうか。
   身体の傷は、明確ですね。
   見てわかりますし、痛みもあります。
   心の傷も痛みはあります。
   でも、事実でしょうか。
   傷つけられたのでしょうか。
   それとも、傷ついたのでしょうか。
   他の人に傷つけられたのでしょうか。
   それとも、自分から傷ついたのでしょうか。
   それとも、傷ついたと思い込んでいるのでしょうか。
   すべては思い込みなのでしょうか。

   心の中に傷ができるのは確かでしょう。
   それが長年潜在意識の中にあることも確かでしょう。
   下手をすると過去世からの傷とかもありますからね。
   ということは、心の傷は事実でしょうか。
   それは幻想や思い込みではなくて、厳然たる事実でしょうか。
   心の傷が潜在意識にあることは事実ですが、傷そのものは事実では
   ありませんね。
   それは思い込みでしょう。
   傷があることは事実ですが、傷の中身は幻想です。
   傷の中身は単なる思い込みです。

   ということは、本当は傷もないのかもしれませんね。
   傷ついたという思い込みが潜在意識の中にあるだけかもしれませんね。
   そうです。
   人は傷つかないのです。
   ピカピカの光り輝くままなのです。
   けっして傷ついたりはしないのです。
   傷つくのは、ただの思い込み。
   本当のあなたは傷つかないのです。
   常にピカピカ。
   最初から最後までピカピカ。
   生まれたての赤ちゃんのように、いつも光り輝いているのです。

   では、何が傷ついているのでしょうか。

                              (明日に続きます)
            
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