いのちの写真と光の言葉
不安も恐れもない生き方
2014-03-29 Sat 11:04

青と白ー31-aug_08



『不安も恐れもない生き方』

今、不安な人は、将来も不安に違いない。
今、安心な人は、将来も安心だろう。
不安は、心がつくり出すもの。
将来は、今の投影に過ぎない。

将来は、本来はない。
あるのは、今だけ。
今が、将来をつくり出す。
今、健全であれば、将来も健全に違いない。

なぜ不安になるのだろうか。
それは、考えるから。
これまでの経験と現状を見比べて、いろいろ考える。
その結果、不安になる。

別に不安にならなければならないことはない。
実際、同じような状況下でも不安にならない人もいる。
それは、癖だろうか。
発想のパターンだろうか。

自分にとって良くないことが続くと、不安になる。
このままいくとどうなるだろうか・・・
本当は、先のことはわからない。
にもかかわらず、不安になってしまう。

それは、過去の辛い経験からくるものだろうか。
もう同じような目に二度と遭いたくないので、不安になるのだろうか。
潜在的な恐れがあるということだろうか。
だから不安がよぎるのだろうか。

幼児も不安を感じることはある。
しかし、それは親の雰囲気を感じてのもの。
自分で考え出したものではない。
しかし、辛い経験が続くと、自分で不安を考え出すようになる。

経験ベース。
記憶ベース。
似たような状況になると、不安がよぎる。
それは、自分の身を守るため。

しかし、不安が慢性化すると不安神経症になる。
過度の不安は、精神的な病気をつくり出す。
身の危険を感じて、警戒する。
それは、本能的に備わっているもの。

それは、身を守るために必要なもの。
しかし、それに思考が加わると、必要以上に警戒することになる。
「過ぎたるは及ばざるが如し」
過度の警戒は、自分の身心を傷つける。

思考が空回りし、思考に呑み込まれる。
思考に振り回され、自分を見失う。
主体性の喪失。
自分が見えなくなってしまう。

冷静に、一つ一つ紐解いていくしかない。
一つ一つその元を辿っていく。
一つ一つ元に戻していく。
そうやって自分の意識構造を理解する。

不安の元は、潜在意識にある。
何かを恐れている。
何かが再現されるのを恐れている。
自分が辛い立場になるのを恐れている。

恐れているということは、それを避けようとしているということ。
つまり、逃げようとしている。
しかし、逃げている限り、問題は解決しない。
問題を解決するには、直面するしかない。

直面すれば、恐れは消える。
なぜなら、恐れは逃げる時に生まれるものだから。
逃げなければ、恐れはない。
つまり、逃げようとしなければ、不安もない。

どのような現実であれ、逃げない。
直面する。
そのまま受け止める。
そうすれば、不安も恐れもない。

ただ事実と共に生きる。
極めてシンプル。
それだけで、不安や恐れは解消される。
事実に直面すればいいだけ。

今の事実に直面する。
ありのままの事実と対峙する。
その事実に自分でよけいな脚色をしない。
単なる事実として受け止める。

事実によけいな脚色を施せば、不安や恐れが沸いてくる。
ただ事実といるだけなら、不安も恐れもない。
冷静に、いかに対処するかを検討すればいいだけ。
ただ霊性に生きればいいだけ。

不安も恐れも必要不可欠のものではない。
別になくてもいい。
不安や恐れのない人生は、快適。
心やすらかに生きることができる。

あれこれ思い煩わないこと。
ただ、どんな事実であれ直面すると決めること。
逃げない、避けないと決めること。
そうすれば、もう怖いものなし。

逃げているから、怖くなるだけ。
避けようとするから、不安になるだけ。
すべて直面する気になれば、何も恐れるものはなくなる。
極めて単純。

冷静に事実に直面すれば、たいていのことは乗り越えられる。
乗り越えられないものは、まずない。
意外となんとかなる。
不安や恐れがなければ、事態はなんとかなるもの。

ただ直面する勇気があればいいだけ。
ただ逃げないと決めればいいだけ。
何事も避けようとしない。
何であれ、正面から直視する。

その生きる姿勢が、人生を切り開く。
真っ直ぐに前を向いて生きる姿勢が、困難を乗り越えさせる。
逃げよう、避けようとする姿勢は、更なる困難をもたらす。
生きる姿勢の違い。

あらゆる事態に正面から立ち向かえば、超えられないものはない。
道はある。
道は見つかる。
逃げたり、避けたりする必要はない。

逃げたり避けたりしている限り、どんどんツケが膨らんでいくようなもの。
いつかは、そのツケを払わなければならない。
溜まりに溜まったツケを払うのは、大変なこと。
重過ぎて自己破産する人も出る。

精神が壊れたり、遠くへ逃避したり・・・
最悪は、自殺ということも考えられる。
そんなになるまでツケを溜め込まないこと。
生きる姿勢を転換すること。

目を逸らさない。
逃げない。
避けない。
すべて直視する。

事実のみを直視する。
事実によけいな脚色をしない。
淡々と事実と共にいる。
そして、冷静に解決法を探る。

そのような生き方をすれば、人生が変わる。
不安や恐れから解放される。
何も難しいことはない。
逃げたり避けたりしなければいいだけ。

いかなる事実であれ、直面すると決める。
直面すると決めれば、不安も恐れも消える。
事実に負けない。
事実に押し潰されない。

しっかりと事実を見つめる。
しっかりと自分にグランディングして、事実に対処する。
そうすれば、道は開ける。
生きる姿勢が、人生を開く。

くれぐれも逃げないこと。
間違っても避けようとしないこと。
直視すること。
何事も真正面から見つめること。






別窓 | 風景 | コメント:1
永田いなか浜
2013-07-12 Fri 10:29


永田いなか浜ーnagata-01_10


ゆったりとリラックスして。
どう転んでもたいしたことはない。
失敗したらやり直す。
間違ったら改める。
それで十分。
もっと気軽に生きてもいい。








別窓 | 風景 | コメント:0
本心を自覚する道
2012-09-07 Fri 03:12

滝つぼの虹ーrainbow-9_11


『本心を自覚する道』

自分の運命を知るにはどうしたらいいのだろうか。
今生の目的を知りたい人は多い。
しかし、知っている人は、ほとんどいない。

幼児の頃までは、おぼろげに覚えている人もいる。
しかし、思春期を過ぎると、たいていは忘れてしまう。
ほとんどこの世限定バージョンになりきってしまう。
この世だけの視点では、人生の見方が限られる。

霊能者やチャネラーに聞く人もいる。
しかし、教えてもらっても確信が持てない。
本当だろうか?
心のなかで疑問が渦を巻く。

それでは、どうすればいいのだろうか。
どんなに偉い人から言われても、自分で自覚しない限り確信は湧かない。
では、どうすれば自分で自覚できるのだろうか。
それは・・・

一朝一夕にはいかない。
簡単には、わからない。
なぜ?
それは、どっぷりとこの世に浸っているから。

先ずは、この世の垢(あか)を落とさないことには、生まれてきた目的を
自覚するのは無理な相談。
いつものパターンで過ごしたり、惰性のままに生きていたのでは、深い
自覚は生まれない。
もう一度、すべてを問い直す必要がある。
日々の日常生活から一つ一つ見つめ直す必要がある。

当然と思っていること。
当たり前と受けとめていること。
無意識にやっていること。
無選択に自動的におこなっていること。

そういうものをすべて見直す。
これでいいのか。
本当に自分は、このようにしたいのか。
こんな生き方をするために生まれてきたのか。

一つ一つ身近なことから見直す。
そして、必要があれば改める。
自分の本心に近いように改める。
自分が真に望むように修正する。

何かを選択する際も、本心は何を望んでいるかをチェックする。
すべて一つ一つ見直す。
そういうことを積み重ねることによって、自分の本心が徐々に現れてくる。
今は、世間の波に流されているだけ。

世間ではなく、自分を生きる。
自分を生き切ることのなかからしか、本心は目覚めない。
世間に迎合していたのでは、いつまで経っても世間並みのまま。
今生の目的が自覚されることはない。

世間の人は、世間並みで生きている。
ほとんどの人は、今生の目的を喪失している。
ただ人より良い暮らしをしたいだけ。
世間的に幸せになりたいだけ。

それも悪くはない。
しかし、自分に真実に生きたかったら、世間並みとはサヨナラするしかない。
常に自分に問い続けるしかない。
自分は、本当は何をしたいのか。

今ここで常に問い続ける。
そういうことを続けていると、やがて本当の自分が現れる。
奥に隠れていた本心が姿を現す。
今は、世間の塵(ちり)と埃(ほこり)にまみれて姿が見えないだけ。

自分は本当は何をやりたいのか。
そう問い始めると、最初に出てくるのは欲望かもしれない。
世間に影響された欲望が、次から次と出てくる可能性がある。
マスコミや環境や教育に影響を受けた諸々・・・

でも、最初は、そこからスタートするしかない。
初めに出てくるのは、世間の塵や埃。
そういうものを取り払わないと、奥に隠れているものは出てこない。
先ずは、世間的欲望であっても、できるだけ叶えてあげる。

自分が望むとおりにやってみる。
先ずは、そこから始めなければ、本心は顔を出さない。
最初から突然本心が出てくることはない。
潜在意識の闇は深い。

目の前の一つ一つを丁寧に生きる。
本当はどうしたいのか、自分に聞きながら決める。
そういうことを繰り返していると、だんだんと自分の本心に近づいていく。
それは、時間がかかるかもしれない。

しかし、始めないことには、本心に出会えるチャンスは永遠にやってこない。
何事であれ、もう一度見直す。
これが本当に自分のやりたいことかどうか・・・
別のやり方や違う生き方があるかもしれない。

大切なことは、絶えず自分自身に問いかけること。
そうすることが、真実の自分に辿り着く唯一の道。
自分の本心を常に聞こうとする姿勢が、本心とのパイプを作り出す。
その姿勢が、真剣な人生を生み出す。

最初は、日常の些細なことから始める。
小さなことを一つ一つ見直すことが、深い意識へつながる。
一見遠回りのように見えるが、それが最短のコース。
日常で実践することは、高いセミナーに出ることよりも遙かに効果がある。

すべてのことは、日常の些細なことの積み重ね。
真剣に生きるとは、日々の日常生活を大切にすること。
小さなことも見逃さずに問い直すこと。
常に自分の本心で生きることを心掛けること。

急がば回れ。
日常生活のなかで自分自身を見つめ直すことが、何よりも本心に近づく道。
それが、自分の運命を知り、人生の目的を発見することにつながる。
そこから、今生の目的を達成する可能性が開ける。




別窓 | 風景 | コメント:0
浄化の循環
2012-08-07 Tue 00:49
青と白ー31-aug_08_11



自分を浄化することは、人類を浄化すること。
周りを浄化することは、人類を浄化すること。
人類を浄化することは、自分を浄化すること。
浄化の循環。

浄化は浄化を呼び、更なる浄化へとつながる。
浄化は地球全体に広がり、地球全体が浄化される。
地球の浄化は、太陽系へと広がる。
太陽系の浄化は、銀河系へと広がる。

銀河系の浄化は、宇宙全体へと広がる。
浄化の波は、やがて地球へ還って来る。
それは、自分へ還って来る。
まるでこだまのように・・・





別窓 | 風景 | コメント:0
いのち
2012-01-20 Fri 11:56
                                        『竜宮行きの亀』
竜宮行きの亀ー18-dec_12
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


日記『無色透明』  2010年 ”2141日目 - インカローズ” より転載。

☆いのち

体のことは、体にまかせればいい。
体のことは、体が一番知っている。
人間が知っているのは、体のほんの一部。
断片的なことしか知らないのに、体をいじりまわす。

今の医者が、体をトータルに知っているだろうか。
体は、自分のことをトータルにわかっている。
いのちは、いのちを知っている。
いのち以上にいのちを知っているものはいない。

いのちは、いのちにゆだねる。
それ以上のヒーリングはない。
いのちは、必要なことをしてくれる。
人が為すべきことは、それをサポートすること。

いのちが働きやすいようにすること。
いのちの働きを妨げないこと。
いのちを尊重し、いのちと共に生きること。
そのことを肝に銘ずべきではないだろうか。

今の医学は、本末転倒。
医者が、主役になっている。
医者が、病気を治してくれることになっている。
医者は、病気を治せない!

そんな当たり前のことが、世間では通用しない。
世の中全体が、おかしくなっている。
医者は、病気を治せない。
病気を治せるのは、体=いのちのみ。

体にまかせる。
自然にまかせる。
宇宙にまかせる。
それには・・・

深い理解がいる。
理解のないままにまかせれば、信仰になってしまう。
信仰は、不安定。
信じてよいのかどうか、常に疑いと背中合わせ。

信じるのではなくて、理解すること。
体を理解し、宇宙を理解する。
理解すれば、信じる必要はない。
無知であるが故に、信じるしかなくなる。

気づくことによって、自分への理解が深まる。
自分自身に気づくことが、真実に生きることを確かにする。
思い込みだらけの自分で生きたのでは、人生の真の豊かさはわからない。
自分自身を知ることが、宇宙の真理へ導く。



   ホームページ 
   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


   Twitterボタン



別窓 | 風景 | コメント:0
2011-07-18 Mon 01:44
                                       『青い空と青い海』
青い空と青い海ー04-july_07_11.jpg
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


多くの方にこのメッセージが届きますよう、共鳴していただけた方は
ブログランキングへのクリック応援ををお願いできますと、大変うれしく
思います。      ぴあの



日記『無色透明』  2005年 ”39日目 - 「私」” より転載。

『私』

えっちゃんが書いていたけど、確かに一人では「私」は存在しない。
神様オンリーワンだったら、「私」も他人もない。
ということは、「私」というのは比較によって初めて存在するということになる。
対比によって「私」は存在する。
違いということだね。

確かに、名前が違う、背の高さが違う、顔つきが違う、経験が違う・・・
それぞれ違うから、個々の「私」が存在する。
ところが、同じ一人の「私」でも、「私」はいろいろ存在するらしい。
本当の「私」と嘘の「私」。
昔の「私」と今の「私」。
怒っている「私」と泣いている「私」。
どれが「私」なの?
そのすべてが「私」だと言う人もいる。
本当の「私」だけが「私」だと言う人もいる。

過去に人殺しをした人がいるとしよう。
今は悔い改めて人のために奉仕しているとしよう。
その人は悪い人?
それとも良い人?
殺された遺族にとっては悪い人。
今世話になっている人にとっては良い人。
評価は人によって異なる。
人はある側面を見て評価する。
その人のすべてを知って評価する人はいない。
そんなことは不可能だ。
でも、その個人差のある評価を基に、「私」はこういうものかなと自分で
思ってしまう。

バカだ無能だと周りから言われて育った子供は、自分をバカで無能だと
思い込んでしまう。
そして、思い込んだ通りの人生を歩んでしまう。
もちろん、逆もあり得る。

周りからの評価によって「私」はできあがるのだろうか。
他人によって「私」はつくられるのだろうか?
「私」は他人がつくったもの?
何かヘンだね。
「私」は他人の産物なの?

「私」は他人の評価を基にした思い込み?
そんなことはないわ。
「私」は「私」よ。
その「私」はいつの「私」?
過去の「私」?
それとも、今の「私」?
そのすべての「私」?

眠っている時は?
忘れてしまったことは?
そういう「私」も存在したのに、それは「私」の中に入ってないの?
「私」の中に入っているものは?
今自分が「私」だと思っていることだけ?
ザッツ、オール。
それがすべて。

自分が今、「私」と思っているのが「私」。
それ以外の「私」は存在しない。
どこにもない。
実体はない。
あったら見せてほしい。
どこにあるの?
「私」は自分が思っているだけのもの?

「私」というのはイメージ。
はっきり言ってしまえば、思い込み。
過去の記憶をベースとした思い込み。
どこにも「私」なんかない。

確かに肉体はある。
しかし、その肉体も子供の頃とはまったく異なっている。
同じ肉体?
少なくとも細胞はまったく違うだろう。
少しは子供の頃から生き残っている細胞があるのかな?
三年ぐらいですべて入れ替わるのでは?
となると、肉体は同じではない。
別人と言ってもいい。
DNAは同じ?
しかし、それも変化しているらしいよ。
「私」の継続性は怪しい。

では、精神の方はどうか。
精神も一瞬一瞬変わっている。
何が継続しているの?
記憶を除けば、他に何があるの?
記憶だけが継続性をもたらしている。
ところが、この記憶も忘れたりする。
「私」は減少するの?
いや、逆に記憶は増加しているかもしれない。
長生きすればするほど記憶は増加する。
「私」は増殖中?

増えたり減ったりする「私」。
固定した「私」ってあるの?
「私」は刻々に変化している?
それって「私」と言えるの?
昨日の「私」と今日の「私」は違う。
明らかに違う。
昨日はみんなに褒められて、自信満々の「私」だった。
でも、今日はみんなにけなされて、自信喪失の「私」がいる。
元気いっぱいの「私」と意気消沈した「私」。
どっちが本当の「私」?
どっちも「私」?
と思っているだけでは?
昨日はすばらしい「私」と思っていた。
今日は最悪の「私」と思っている。
日によって「私」は変わる。
のに、「私」という呼び名は変わらない。
ので、「私」は同じだと思っている?

昨日思っていた「私」と今日思っている「私」は異なる。
子供の頃思っていた「私」と、今思っている「私」は異なる。
どちらも「私」と呼んでいるけど。
それでも同じ「私」?
確かに名前は同じだ。
結婚しても、養子に行っても、名の方は変わらない。
だから同じ「私」?
「私」は名前?
では、ないはずだよね。

「私」っているの?
どこにいるの?
もしかしたら、どこにもいないかも?
それって虚無主義じゃない?
すべてが虚しくない?
そうかな?
事実ではないの?
事実を基に生きた方がいいのではないの?
それとも、「私」という幻想と一緒に生きたい?
「私」が消えたら困る?
「私」が無くなったら困るよね。
自分の拠り所が消えちゃうもの。
でも、「私」が消えたら、悟りかもよ?
自他の差が取れたら、差取りなんだって・・・

「私」って何?
何だろう?
「私」って、自分が思っているイメージ?
実体のないもの?
刻々に変わるもの?
「私」は本当は存在しないの?
「私」って何?

「私」って、イメージだよね。
あるエネルギー場に存在するイメージ。
記憶によって繋(つな)ぎ止められている思い込み。
まるで映画のように、フイルムが回っているから繋がっているように見える
けれども、一枚一枚のフイルムを見たら、バラバラ。
しかも、一枚ごとに異なる。
「私」が継続しているように見えるのは、波動が遅くて、フイルムを一枚一枚
見れないから。
だから、繋がっているように見えるだけ。
目の錯覚?
いや、意識の錯覚。
実際は一瞬一瞬異なる。
一瞬一瞬の「私」が無限に存在するだけ。
どこにも継続性はない。
継続していると、記憶によって思い込んでいるだけ。
意識の波動が早くなると、今瞬間の自分がいるだけ。

エネルギー場がある。
そこに記憶がストックされている。
それを基に「私」というイメージをつくって、人生ドラマを織りなしている。
しかし、その記憶がストックされているエネルギー場も刻々に変化している。
なぜなら、生きているから。
生きているということは、固定していない、変化しているということ。
すべては変化している。
すべては無常。
だから、固定的なエネルギー場も存在しない。
もちろん、「私」も存在しない。
ただ、波動が遅い時に「私」という継続性の幻想が存在するだけ。
人も魂も星も、単なるエネルギー場。
変化し続けているエネルギー場。
器なのさ。
肉体も精神も魂も星も。
無限のエネルギーの器。
ひとつのいのちの無限の器。
ひとつのいのちが自己表現する場。

やがて「私」の真実が誰の目にも明らかになる時が来るだろう。
そうなれば、「私」と「私」、自我と自我、エゴとエゴがぶつかり合うことも
なくなるだろう。
まったく異なる世界になるだろう。
今この瞬間に、すべての真理がある。
波動の遅い世界にのみ幻想が存在する。
どこで生きるか?
どの波動領域で生きるか?



  人気ブログランキングへ  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


  
               
別窓 | 風景 | コメント:2
全体主義
2011-06-27 Mon 06:59
                                『永田いなか浜よりの硫黄島』
永田いなか浜よりの硫黄島ー4-nagata-05_11
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


多くの方にこのメッセージが届きますよう、共鳴していただけた方は
ブログランキングへのクリック応援ををお願いできますと、大変うれしく
思います。      ぴあの



日記『無色透明』  2006年 ”402日目 - 全体主義” より転載。

『全体主義』

人は、家族のため、会社のため、国のため、民族のため・・・
と言いながら、自己の利益を追求する。
自己の延長が家族であり、会社であり、国であり、民族に他ならない。
もし、家族の中に自分に敵対する者がいれば、即、勘当となる。
会社の中で違う派閥に属する人とは、絶交だ。
同じ国民でも、戦前は共産党員は非国民だった。
同じ民族でも少数派は常に弾圧される。

それらは、みな思考の為せる技。
自己保存の本能を思考で拡大しただけ。
家族も会社も国も民族も、みんな自分の延長。
自己同一化の世界。
それらのものは、全て自己の拡大バージョン。
それは贔屓(ひいき)のチームであったり、住んでいる地域であったり、
所属するグループであったり・・・
それらと自分を自己同一視し、一喜一憂しているだけ。

ヨーロッパのサッカー場では、死傷者まで出る騒ぎとなる。
チームと自己同一化したサポーターが、相手チームのサポーターを
敵と見なす。
自分が応援するものは、自己が投影されたもの。
自己の拡大バージョン以外の何ものでもない。
人は自己同一化によって、自己実現を図ろうとする。

それはスターに憧れることのなかにも見られる。
映画やテレビの主人公と自己同一化し、ハラハラドキドキを繰り返す。
それらは全て自己の延長。
全てに自己を投影し、自己を拡大して物事を見ている。
その結果としての全体優先。
それは正確に言えば、全体優先ではなく、自己の延長としての全体優先。
スターリンも毛沢東も自分に敵対する者は容赦なく粛正した。
全体のために反するという理由だが、実は自分の安全に反しただけ。

全体主義とは、所詮、そのようなものだ。
それは思考の産物。
思考がやることは、常に自己の安全が最優先。
自分第一主義の延長が全体主義に他ならない。
そういう意味では、政治家の全体優先発言は注意した方がいい。
全体の裏に自己の利益が隠れている。
宗教も同じ。
教祖の自己保存の本能の膨張が勢力拡大のベースとなる。

基本的には今の社会は、自我ベースでできている。
社会奉仕にしても、自我の満足や世間体のためにやられている場合が多い。
純粋に愛が動機というのは少ない。
最初はそうでも、途中から思考が介入する。
自分のことを少しでも考えた途端、愛は歪んでしまう。

個人主義も全体主義も思考の生み出したもの。
個人主義は、露骨な自分最優先。
全体主義は、隠れた自分最優先。
両者に根本的な違いはない。
思考ベースで生きる限り、人類に救いはない。
思考ベースをいかに超えるか、ただそれだけが問われている。

自己の延長としての全体に関心はない。
それはまだ思考の次元。
それでは何の解決にもならない。
思考を超えた全体。
自己保存にベースを置かない全体。
そういう全体はないのだろうか。

無理に全体のために生きようとしている間は、思考の次元。
頭で納得して全体のために生きなければと思っている限りは、思い込みの世界。
そうではなくて、自然に全体のために生きる。
全体のためにとか意識しないで、結果的に全体のためになっている。
自然の行為が、全体的な行為。
そういう生き方はないのだろうか。

全体のために生きようとしている間は、全体のためにはならないだろう。
自分が全体になれば、そのような意識は消える。
生きること自体が全体のためになる。

全体のために生きるのではなくて、生きることが全体のため。
そこが思考の次元と決定的に違うところだろうか。
思考は目的を持ち、それに自分を合わせようとする。
しかし、そのような生き方は思考に支配された生き方。
思考が決めた枠に自分を収めるのは苦しい。
それは、まさに自縄自縛。

何の無理もなく自然に起きる行為。
それが結果的に全体のためになる。
そのような生き方は可能だろうか。
その中にのみ自由は存在する。



  人気ブログランキングへ  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


  
             
別窓 | 風景 | コメント:0
肉食
2011-06-13 Mon 13:46
                                           『布引の滝』
布引の滝ー17-june_08_11
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


多くの方にこのメッセージが届きますよう、共鳴していただけた方は
ブログランキングへのクリック応援ををお願いできますと、大変うれしく
思います。      ぴあの



日記『無色透明』  2007年 ”1049日目 - 肉食” より転載。

『肉食』

最近、肉を食べられなくなったという話をよく聞くようになった。
明治時代になるまでは、日本では肉はほとんど食べなかった。
明治維新で西洋化した時に肉文化も入ってきた。
それまで、四つ足の肉は日本では忌み嫌われていた。

肉を食べなかったので、日本人の性格は穏やかになった。
肉食の習慣がなかったので、こんなに繊細な文化が生まれた。
肉を食べると、どうしても波動が荒くなる。
一見、元気に見えるのは、荒っぽくなっただけ。

肉をたくさん食べていると、精妙さとは縁が遠くなる。
こまやかな波動はキャッチできなくなる。
肉を食べれば食べるほど、短気になる。
体が酸性化するので、静かに忍耐力のいることはできなくなる。

動物たちを見ても、肉食と草食では明らかに性格が異なる。
同じウミガメでも、肉食のアカウミガメと草食のアオウミガメでは
荒々しさが違う。
シカとライオンの違いは、明白。
人間も食べものによって、かなり影響される。

完全にアクエリアスの時代になれば、肉食をする人はいなくなる。
動物たちとも平和に付き合うようになる。
可愛い動物を殺して食べるということはなくなる。
殺して食べるために育てるという文化は消滅する。

いのちを殺すということは、痛みを伴う。
自分も同じいのち。
いのちがいのちを殺すのは、矛盾している。
いのちを殺さないでも生きていけるようになる。

食べることも減ってくる。
だんだん食べなくても生きていけるようになる。
エネルギーによって生きていけるようになる。
肉や植物を構成しているものも、元はエネルギー。

エネルギーを直接摂り入れれば、別に食べ物を摂る必要はない。
だんだんとそれができるようになっていく。
肉を食べられなくなっている人が増えているのも、その一環。
時代は、平和に向かっている。

動物性のものを入れないで育つと、性格が穏やかになるのは間違いない。
ゆったりとした包容力と忍耐力が育つ。
それに愛情がこもった食事であれば、それ以上のものがある。
イージーな食事は、イージーな結果しかもたらさない。

何をするにも、心を込め、魂を込め、愛情を込めてやることだろうか。
そうすれば、それなりの結果がついてくる。
いい加減にやれば、いい加減な結果。
心を込めてやれば、心を込めただけの結果。

肉をたくさん食べていると、心を込めるということができにくくなる。
波動が荒っぽくなるので、自我が入ってしまう。
自分の思うようにしたいという支配欲。
支配欲で何事もやるようになる。

こまやかな意識は、こまやかな食事と関係する。
こまやかな食事の極限は、無食。
一気にそこまではいかないが、徐々に食事は減っていくだろう。
意識がこまやかになれば、そんなに食べられるものではない。

いろんな意味で、時代は着実に変化している。
人の意識も、生活様式も変わっている。
これから更にスピリチュアルな意識が浸透していく。
人はスピリチュアルに生きるようになる。

肉をたくさん食べていると、だんだん生きにくくなる。
時代の波動と合わなくなるので、時代から取り残される。
やがて肉食文化は過去のものになる。
これからは菜食が主流になっていく。

人は、平和に穏やかに暮らすようになる。
明るく楽しく、動物を殺さずに暮らすようになる。
動物たちと気持を通わせながら暮らすようになる。
いのちといのちを共感しながら幸せに暮らすようになる。


『新しい 時代の波動 着実に 変化もたらす 心と体に』



  人気ブログランキングへ  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


  
            
別窓 | 風景 | コメント:0
意識
2011-05-24 Tue 14:19
                                         『雄大な新緑』
雄大な新緑ー17-may_08_11
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


多くの方にこのメッセージが届きますよう、共鳴していただけた方は
ブログランキングへのクリック応援ををお願いできますと、大変うれしく
思います。      ぴあの



日記『無色透明』  2008年 ”1230日目 - 意識 ” より転載。

『意識』

天変地異が起きると、何かをしなければという気持になる。
それをきっかけとして、行動するのもいい。
これまでの行動と違った行為が起きるかもしれない。
震災ボランティアのような・・・

天変地異によって、人々の絆が再び結ばれるのも悪くはない。
これまでのバラバラに分断された生き方を見直すきっかけとなる。
それはそれでいい。
しかし・・・

意識が外にばかり向くと、せっかくの天変地異が十全に生かされない。
行動するのは、自分の意識を変えるのに比べたら、むしろやさしい。
自己変革ほど難しいことはない。
意識が変わらないことには、本質的には何も変わらない。

これまでの古い意識で行動しても、混乱が増すばかり。
緊急の時はいい。
そういう時は、お互いに助け合う。
しかし、いったん事が収まると、元の状態に戻る。

もちろん、戻らない部分もある。
お互いに助け合った記憶は残る。
まさかの時には、それが役に立つ。
しかし、日常は、元の自己中心的な生き方に戻ってしまう。

意識が変われば、思いが変わる。
思いが変われば、行動も変わる。
行動が変われば、世界が変わる。
すべては、意識に帰着する。

不調和な意識で行動しても、混乱に拍車をかけるだけ。
自己満足で慈善行為やボランティアをしても、批判されたりすると、
すぐにやめてしまう。
認められないと続かない。
意識の変容から起きる行為こそが、間違いのないもの。

動機は、いらない。
ただ行為がある。
目の前の現実に対して、自然に行為が起きる。
意識がピュアーであれば、無理なく起きる。

小さな子供が溺れそうになったら、誰でも助ける。
そこには、動機はない。
思考による思案はない。
自然に行為が起きるだけ。

意識が変われば、思いが変わる。
思いが変われば、行為も変わる。
意識をピュアーにすること。
意識を純化すること。

それが、いかなる行為よりも優先されるべきこと。
思いや行為は、意識の結果。
元を正さなければ、結果をいじってもしかたがない。
水源地が汚れていたら、いくら川下で浄化してもキリがない。

水源地を浄めれば、何もしなくても川下には美しい水が流れていく。
意識が変われば、思いも行為も自然に変わる。
フォーカスを意識に向けることだろうか。
すべての元は、意識にある。

自分自身の意識を見守りながら、見極める。
大きく、やさしく包み込みながら、繊細に見極める。
見極めている時に、些細な事柄に囚われない。
木を見て森を見ずということにならないように注意する。

全体をあたたかく見守りながら、個々のことを見極める。
すべてを包み込むように見守りながら・・・というのがミソ。
見守りがないと、自分を深く見つめていくだけでは、全体を見失う。
気づきだけでは足りない。

見守りがないと、方向を間違える。
自他を見守る。
すべての現象を大きく見守る。
そのなかで、今、何を為すべきかを検討する。

見守りというのは、大きな心。
どこまでも広がる心。
つまり、大和心。
抱(いだ)き参(まい)らせの世界。

すべてを包みながら静かに見守る。
母心とも言える。
慈母観音の心であり、お釈迦様の心でもある。
限りなく深い心。

すべてを包み込みながら、個々を見極めていく。
そうすれば、道を誤ることはない。
ゆっくり、落ち着いて見守ればいい。
行くべき道は、おのずから明らかとなる。


『大和とは すべて包んで 抱きしめて 慈しみつつ すべてを生かす』



  人気ブログランキングへ  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


  
              
別窓 | 風景 | コメント:0
自尊心
2011-04-25 Mon 03:31
    
                                      『モッチョム春景色』
モッチョム春景色ー4-05-mar_08_11
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


日記『無色透明』 ”1965日目 - 自尊心” より

多くの方にこのメッセージが届きますよう、共鳴していただけた方は
ブログランキングへのクリック応援ををお願いできますと、大変うれしく
思います。      ぴあの



『自尊心』

コメント欄に、自尊心について書き込みがあった。
自尊心とは、何だろうか。
自分を尊ぶ心とは?
・・・

それは、自分の拠り所だろうか。
自分が、依って立つ基盤だろうか。
自尊心こそが、自分を支えているものだろうか。
「自分は、○○○」

仕事が遅いと言われても、自分は丁寧にやっているというのが自尊心。
商品が高いと言われても、自分は質の高いものを売っているというのが自尊心。
成績が悪いと言われても、一生懸命努力しているというのが自尊心。
食事がまずいと言われても、インスタント食品ではないというのが自尊心。

自分は、できる。
自分は、大学を出ている。
自分は、大きな会社で働いている。
自分は、管理職をしている。

自分には、やさしい配偶者がいる。
自分には、頭の良い子供がいる。
自分には、持ち家がある。
自分には、お金や財産がある。

自分は、信頼されている。
自分は、尊敬されている。
自分は、認められている。
自分は、信用されている。

自分には、友達がいっぱいいる。
自分には、少ないけれども親友がいる。
自分には、才能がある。
自分には、才能はないけども人気がある。

自分は、失敗したけれども誠実にやった。
自分は、批難されているけれども間違ってはいない。
自分は、悪く言われても世の中のためにやっている。
自分は、間違ったけれども誤魔化したわけではない。

自分は、自分は、自分は・・・
数え上げたらキリがない。
それらすべての「自分」が、自分というものを支えている。
それこそが、まさに自分自身。

その自分というのは、自己イメージ。
これが自分という思い込み。
自分という客観的なものがあるわけではない。
それは、自分が自分に持つ自己イメージに過ぎない。

その自己イメージこそが、自分の正体。
その自己イメージこそが、自分のバックボーン。
「貧乏でも、後ろ指を指されるようなことはしていない」というのが、自分を支えているもの。
「たとえ出世できなくても、人を裏切ったりはしない」というのが、自分の拠り所。

人は、たくさんの拠り所を持っている。
仕事ができないと非難されれば、趣味に拠り所を見い出す。
才能がないと言われれば、努力していることに価値を見い出す。
美しくないと言われれば、スタイルのよさでカバーする。

容姿に自信がなければ、才能で自分をキープする。
才能にも自信がなければ、人柄で自分を維持する。
人柄にも自信がなければ、お笑いで自分の存在感をアッピールする。
お笑いも苦手なら、カラオケでみんなに認められるようにする。

どんな些細な事でも自分の拠り所となる。
小学生の頃は、成績が良かったとか。
運動会で一番だったとか。
親が地域の有力者であったとか。

たとえ今は落ちぶれても、昔はお金があったとか。
以前は、会社を経営していたとか。
ある時期、大きな家に住んでいたとか。
贅沢三昧をしたことがあるとか。

有名人と握手したことでさえ、自分の誇りとなる。
同じ町に著名人がいるだけで、自分のことのように誇れる。
母校が甲子園で優勝すれば、自分が優勝したように話す。
自分の子が有名校に受かりでもしたら、自分自身が受かったよりも鼻高々。

外車に乗っているだけでも、自尊心は十分満たされる。
ブランド物を持っていることは、自尊心をくすぐる。
人が持っていないものを所有していることは、何よりも誇らしい。
高級な香水を付けているだけで気分が高揚する。

誰も行ったことのないところへ行った。
多くの外国を旅した。
有名人をたくさん知っている。
病気をしないことさえ、自分の誇りとなる。

たとえ病気がちであっても、それに負けないで頑張っていることが自尊心。
たとえ貧しくても、万引きしないのが自尊心。
たとえ万引きしても、捕まらないのが自尊心。
たとえ捕まっても、もっと悪い奴がいるというのが自尊心。

自尊心は、どこまで行ってもあり続ける。
もしこれがなくなると、自己の存在が危うくなる。
自尊心を手放せば・・・
自信は消え、自分を信じられなくなる。

そこには、死が待っているかもしれない。
事業に失敗し、債権者にボロクソに言われ、自尊心がズタズタになって・・・
自殺する人は、後を絶たない。
失恋で自殺する人もいる。

失恋こそは、まさに自尊心が傷つくことの最たるもの。
まるで自分が否定されたかのよう。
自信を喪失し、生きる気力が失せてしまう。
そうならないためには・・・

相手を否定し、自分をキープするしかない。
相手の欠点を数え上げ、人を見る目がないと非難する。
自分のことを何もわかっていないと、慰める。
相手でなくても、周囲や状況のせいにすることもできる。

何であれ、自分以外のもののせいにして自尊心を守ろうとする。
自尊心とは、自分そのもの。
どんな些細なことであれ、自分を支えているもの。
それこそが、実は「自分」の正体。

「自分」とは、自尊心の集合体。
自尊心を支えているものこそが、自分の中身。
そんなことはない?
自分は別にある?

それでは、自尊心以外の自分とは?
どこにあるのだろうか。
自尊心ではない自分は、どこに・・・
愛?

愛した人が自分を非難したら?
愛した人が自分を傷つけるようなことを言ったら?
愛した人が他の人と親しくしていたら?
愛は、自尊心に勝るだろうか。

自尊心が否定されても、愛し続けることができるだろうか。
自分を否定されても、愛は継続するだろうか。
自分というものは、自尊心で成り立っているのではないだろうか。
自分から自尊心がなくなったら、自分も消えるのではないだろうか。

自分には、何の才能もありません。
自分には、恋人も友達もいません。
自分には、仕事も家もありません。
自分には、何も誇れるものはありません。

と言う人でさえ、人に迷惑はかけていないと主張するかもしれない。
悪いことはしていないと言い張るかもしれない。
悪事をさんざん働いた人でさえ、家族を守るためにやむを得なかったと言うことだろう。
会社の犠牲になっただけと言うに違いない。

最悪の状況になっても、何とか自分を維持しようとする。
その拠り所が、自尊心。
自尊心こそが、自分自身。
自分そのもの。

自己否定する人でさえ、自己否定することによって自分を維持しようとする。
自殺する人でさえ、世の中のせいにして自己正当化しようとする。
最後の最後まで自尊心を持ち続ける。
自分というものを持ち続けようとする。

自分、自分、自分・・・
自分こそが、この世を生きる基盤。
自分こそが、自分そのもの。
その自分の実態は・・・

本当は、よくわかっていない。
自分の中身を吟味している人は、ほとんどいない。
自分とは?
・・・

自分の実態をよく理解することだろうか。
自分の中身を深く理解することだろうか。
それは、意外と浅いものかも?
ブランド物や外車が自分を支えていたりして・・・

いやいや、そんな浅いものではない?
もっと深い精神世界が自分を支えている?
魂?
神?

しかし、ほとんどの人は、神も仏も知らない。
知っているのは、そのイメージだけ。
思い込みという偶像。
自分の都合のよいようにアレンジされた神や仏。

自分より偉大と思えるものを拠り所にしているだけ。
自分より安定していそうなものを拠り所としているだけ。
それもこれも自分を維持するため。
自分を守るために他ならない。

神も仏も自尊心も、その根は同じ。
自分を守るため。
突き詰めれば、自己保存の本能。
動物と同じ。

人は、動物と同じ次元で生きているのだろうか。
ただ自己保存の本能だけで生きているのだろうか。
長い人類史を振り返ると、それを否定するのは難しい。
人生に自己保存の本能が占める割合は?

今日は、このあたりにしよう。
あまり自尊心を傷つけると、この日記を読んでもらえなくなるかもしれない。
自己否定されて喜ぶのは、マゾヒストだけ。
普通は、自尊心をくすぐられる方が気分がいい。

この日記は、間違っても自尊心をくすぐることはない。
自己否定される場面の方が、圧倒的に多い。
ハー、この日記の読者は、みんなマゾヒスト?
自分は自己否定している、という自尊心も・・・


『ささやかな イメージ頼り 身を守る 自尊心とは 自己維持装置』

『ズタズタに されても何か 見つけ出し 自分支えて 自分を守る』

『依って立つ 基盤は己が 自尊心 自分支える 最後の砦』

『身を守り 維持するための 自尊心 傷つけること 誰も許さず』

『自尊心 なければ楽に 生きられる あれば傷つく ことが絶えない』

『守ろうと しているものは 自尊心 その実態は ただのイメージ』
 


  人気ブログランキングへ  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


  
              
別窓 | 風景 | コメント:0
神の祈り
2011-03-22 Tue 08:49
                                             『青と白』
青と白ー31-aug_08_11
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


日記『無色透明』 より、3月19日 ”2268日目 - 神の祈り” 転載

多くの方にこのメッセージが届きますよう、共鳴していただけた方は
ブログランキングへのクリック応援ををお願いできますと、大変うれしく
思います。      ぴあの



『神の祈り』

神とは、何だろうか。
神は、慈愛の存在だろうか。
それとも、天罰を与える怖い存在だろうか。
あるいは、神も仏もいないのだろうか。

今回の地震も津波も原発も、すべて神は許している。
もし許していないなら、それらは存在することはできない。
この宇宙に存在するすべては、神が容認したもの。
この悲惨な現実も、すべて神の御手のなかで起きていること。

「神様、どうかこのような惨事が二度と起きませんように。」
「神様、どうかすべての人が幸せに暮らせる世の中になりますように。」
と、人々は祈る。
しかし、大惨事は終わることがない。

どうしてこのような大惨事が起きるのだろうか。
神仏がいるなら、どうして止めてくれないのだろうか。
神仏を信仰している人は、統計上は人類の数より多い。
にもかかわらず、神仏は悲惨な大惨事を終わらせようとはしない。

なぜ?
どうして?
神も仏いないの?
と、思う人も多いことだろう。

神様のやることが気に入らない人間たちは、神様にいろいろ注文する。
「一日も早く元の平和な世の中にしてください。」
「どうかもっと楽に暮らせるようにしてください。」
「どうかここでは地震が起きないようにしてください。」

全人類が、いろんなことを神様にお願いする。
こうしてください。
ああしてください。
自分のことはいいですから、他の人が幸せでありますように・・・

我欲もあれば、善意もある。
いずれにしても神様への注文。
平身低頭しての神様への要求。
さてさて・・・

神様としては、できれば人々の願いを聞いてあげたい。
幼い子供の願いもあれば、死ぬ間際の願いもある。
可能であれば、すべての願いを叶えてあげたい。
ところが・・・

「どうか敵が全滅しますように!」
という願いもある。
その敵方からは、「敵の戦意をくじいてください。」
というお願いが来ている。

みんな一生懸命。
どちらも必死。
さて、神様はどちらの願いを聞いてあげたらいいのだろうか。
戦いながら、「早く平和な世の中になりますように。」と祈っている人たちもいる。

神様は、思う。
お互いに戦うことをやめればいいのに。
そうすれば、祈らなくても、すぐに平和になるのに。
どうして人は、いつも争ってばかりいるのだろう?

最近は、「原発事故が、速やかに収まりますように。」という祈りが増えている。
神様は、思う。
どうしてそんな危険なものを造ったの?
自分で造っておいて、何とかしてほしいとは・・・

神様は、最近悩んでいる。
人間は、何でもすぐに神様にお願いする。
神様にお願いすれば、何でも叶うと思っている。
しかし、万能の神といえども、できないこともある。

お互いに自分こそ正しいと主張する人たちを仲良しにすることは、神様と
いえども難しい。
酒や麻薬に浸って自暴自棄になっている人を、心身共に健康にするのは、
いくら神様だって無理。
地球の自然を破壊しておきながら、きれいな空気を吸いたいと言われても・・・
酒を飲んで車を運転して、交通事故をなくしてほしいと頼まれても・・・

「神様は万能のはずではないのですか。」
「神様にできないことはないでしょう。」
「どうかみんなが幸せになるように導いてください。」
そんな声も聞こえてくる。

「でもねぇー。」
神様の独り言が漏れる。
「イエス・キリストは、磔になったし・・・」
「火炙りになった預言者も多いし・・・」

せっかく人類を正しい方向に導こうと天使を派遣すると、寄って集(たか)って
石を投げる。
自分の神だけが本物と主張して、受け入れを拒否する。
人類は、自分に都合の悪いことは受け入れない。
自分の意に反する者は、神の使いでさえ悪魔の手先にしてしまう。

神様も可愛い天使たちを、これ以上は無駄死にさせたくない様子。
できれば自分たちの問題は自分たちで解決してほしいというのが、神様の本音。
神様にお願いはするが、神様の言うことは聞かない。
なんとも厄介なのが、人類という種族。

敬虔な祈りを捧げる人もいる。
我欲の願いでお参りする人もいる。
いろんな人が、いろんなことを神様にお願いする。
まったく矛盾するお願いも多々ある。

そういう祈りやお願いを聞きながら、神様は思う。
「自分のことは、自分でできないものだろうか。」
「いつも神様頼りでは、いつになったら独り立ちできるのだろうか。」
「こんな子供のような人類に、地球のことを任せておいて大丈夫だろうか。」

そこで神様は、人類にメールを送った。
そのメールには、次のように書かれてあった。

----------------------------------------------------------------------

人間様へ

どうか、自分のやっていることを、よーく見つめてみてください。
こちらにたくさんのお願いが来ていますが、それをみんな叶えることは不可能です。
なぜなら、矛盾するお願いがあるからです。
お互いにケンカしている人たちを仲良くすることはできません。

どうか自分たちでケンカすることをやめてください。
そうすれば、すぐにでも平和になります。
原発が危険だったら、すぐにでも原発をやめてください。
エ?

それでは暮らしが貧しくなる?
貧しくなるのがいやだったら、原発の危険と一緒に暮らしてください。
両方とも叶えろなんて、そんな都合のよい話は、いくら神様でも実現不可能です。
もっと安全な発電システムを自分たちで工夫してください。

それからお願いがあります。
困ると何でも神様にお願いするのは、やめてもらえませんか。
祈ればいいというものではないでしょう。
自分のことは、自分でやってくださいよ。

そのための能力は、既に与えてあります。
自分たちで危険なものを造っておきながら、困ると神様にお願いするのは、いかがな
ものでしょうか。
それでは、宝の持ち腐れです。
もう少し叡智を働かせてください。

みんなでよく話し合って、みんなが幸せになるように生きてください。
自分さえよければいいと思っているようですが、それでは自分さえ幸せになることは
できません。
みんなが幸せな時に、自分も幸せになれるのです。
一人だけ抜け駆けの幸せというのは、あり得ないのです。

人類は、バラバラではありません。
みんなつながっています。
実は、一つなのです。
肉体があるので別々に見えるだけなのです。

人類は一つですから、お互いに争い合ったりしないで仲良く暮らしてください。
そうすれば、問題はすべて解決できるでしょう。
何でも神様に依存しないでくださいね。
それでは、いつまで経っても大人の宇宙人にはなれませんよ。

----------------------------------------------------------------------

以上が、神様からのメール。
人類にとっては、耳の痛い話。
でも、どう見ても神様の方が、マトモ。
人類の方が、我が儘で幼稚。

人類は、困った時は何でも神様に祈ればいいと思っているフシがある。
祈りは美しいものだから、何でも叶えてもらえると誤解している。
その姿は、パパやママにおねだりしている幼児とそっくり。
みんな神様にオンブにダッコ。

神様としては、いつも無茶なお願いをする人類に対して、もう少し自立してほしい
と願っている。
地球というすばらしい星を無償で提供しているのだから、もう少し仲良く暮らして
ほしいと望んでいる。
どうしてこれほどまでに自分勝手で、自己中心的なのか理解できない。
どうしてこんなに争いが好きなのかも、理解を超えている。

宇宙は、広い。
神様も忙しい。
地球人類のことばかり構っている訳にもいかない。
そこで神様は、人類に対して祈りを捧げた。

-----------------------------------------------------------------------

人類様、どうか平和に暮らしてください。
どうかみんなで助け合って生活してください。
どうか原発のような危険なものは造らないでください。
どうかこれ以上、神様にお願いはしないでください。

人類様、どうか神の願いをお聞き届けください。

偉大なる人類様へ。
人類の僕(しもべ)である神より。

-----------------------------------------------------------------------


『神様の 願いは一つ 人類よ 自分のことは 自分でやって』

『いつまでも 甘えていれば いつまでも 神の御国は 実現しない』

『神の子で あるなら神に 頼らずに 愛の地球を 自分で造れ』

『神様に 頼ることなく 自(みずか)らが 愛と光に なればいいだけ』


これが日記を書き始めて2268日目の心境。

     

  人気ブログランキングへ  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


  
           
別窓 | 風景 | コメント:2
信じること
2010-09-09 Thu 10:51
                                            『入道雲』
入道雲ー02-july_07_10
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


『信じること』       

信じると裏切られるは、一対。
信じることがなければ、裏切られることもない。
信じるが表で、裏切るが裏?

裏切られるのは、自分の思い込み。
裏切られるとは、想定外ということ。
想定内では、裏切られないことになっていた。
しかし、結果は想定外。
そこで、裏切られたと言って相手を非難する。
しかし、相手が裏切ったわけではない。
相手は自由に行動しただけ。
こちらが勝手に相手の動きを想定しただけ。
それが見事に外れたというだけのこと。

それは相手のせいではなく、まさに自業自得。
自分の想定ミス。
にもかかわらず、普通は相手を責める。
相手のせいで自分が被害をこうむったかのように主張する。
その時、自分の想定ミスは棚上げされている。

何度か裏切られる経験をすると、今度は裏切られるのが怖くなり、
誰も信じないようになる。
これ以上傷つくのがいやなので、自ら信じることを封印する。
でも、人を信じることができないと、さびしい。
結果、心が揺れ動く。
信じたいけど、信じられない。
信じれば裏切られそうで、もう一歩深く踏み込めない。
それが、あらゆる人間関係に影を投げかける。

信じても裏切られないものはないのだろうか。
それは永遠の真理だろうか。
人は信じても裏切られないものを求めて旅に出る。
精神世界という旅へ。
しかし、そこにも信じれば救われるという世界が広がっている。
救世主やメシアを信じる。
グルや教義を信じる。
生まれ変わりや永遠の魂を信じる。
天国や自己の成長を信じる。
それらを信じれば本当に救われるのだろうか。

救われる場合もある。
但し、それが永続するという保証はない。
いつ裏切られるかもしれない。
なぜなら、信じることと裏切られることは表裏一体だから。
それは精神世界も一般世界も変わらない。
自分の想定外のことが起きれば、いつでも裏切られる。
自分が想定した時点で、裏切られる準備をして待っているようなもの。
いつでも裏切られるスタンバイ状態。

相手は裏切ろうとは思っていない。
しかし、こちらの想定外のことをすると、裏切ったと見なされる。
それは精神世界、一般世界を問わない。
なにしろ信じる・裏切るの世界は、信じた人の想定範囲にかかっている。
その想定範囲が狭ければ、すぐに裏切られる。
想定範囲が広ければ、裏切られるのに時間の余裕がある。
ホリエモンは拘置所に入ることを想定していただろうか。
もし想定していれば問題はないが、想定していなければ、世間に裏切ら
れたと思っているだろうか・・・

信じれば、裏切られる!
場合が多い。
それは自分の狭い了見で信じるから。
想定範囲がこれまでの自分の人生に限定されているから。
人は自分の経験を通して物事を見ている。
結果、自分の過去からしか想定できない。
だから、不確定な未来に、すぐに裏切られてしまう。
未来は過去の繰り返しではない。
未来は常に想定外のことに満ちている。
信じた途端、同時に裏切られる高いリスクを背負うことになる。

それでも、信じる?
それとも、信じることをやめる?

絶対に裏切られることのないものがある!
と言ったら、信じる?
もう何も信じない?

絶対に裏切られないもの。
それは信じることの必要のないもの。
信じる・信じないの次元を超えたもの。
比較・相対の思考の次元を超えたもの。
そこでは、既に信じるという行為そのものが存在しない。
なぜなら、信じる必要がないから。
誰の目にも明らかなものは、信じる意味がない。

信じる・信じないという次元は、不明瞭な世界。
はっきりしないから、信じようとする。
あるいは、はっきりしないから、信じることを躊躇(ためら)う。
明確であれば、何も信じる必要はない。
信じなくてもクリアーに生きていける。

要は、そのようなクリアーな意識で生きることではないだろうか。
何事も明確に見えるクリアーな意識であれば、信じる必要はまったくない。
意識が曖昧だから、信じようとするだけ。
意識が明晰ならば、何も信じる必要はない。

そもそも信じるというのは、自分に自信がなくて、何かに寄りかかろうとする
行為ではないだろうか。
信じれば救われる?
から、信じようとする?
救いを求める弱い心?
自分の足だけでは立っていられない弱い意識?
だからこそ、救いを求める?

しかし、その救いは弱い意識が想定した範囲内のもの。
弱い意識は必死に縋(すが)ろうとするが、ガラスのように繊細な想定範囲は
すぐに破られてしまう。
疑いが生じ、やがて裏切られたという気持ちに変わる。
信じたものに裏切られるのに、そんなに時間はかからない。

何ものにも裏切られない生き方。
それは何も信じないこと。
何も信じないで、クリアーに生きること。
裏切られるのが怖いから信じないのではなく、信じる必要がないから信じない。
そういう選択肢もある。
ある次元まで行けば、そういう選択肢しかない。
信じる・信じないの次元を抜ければ、信念や信仰は無用の長物。
ただ事実と共に生きればいいだけ。

いつまでも信じる・信じないという曖昧な思考の次元にいないで、スッキリさわやか、
クリアーな次元で生きればいい。
自分を理解すれば、その空間が待っている。
いつまでも泥沼の中で生きていたい?
それとも、泥沼から咲く蓮の花になる?

『信じれば 裏切られるのは 当たり前 自分本位の 想定範囲』

『信じれば 相手を縛る ことになる 想定外の 自由認めず』

『信じれば 応えてくれる 人ならば 信じなくても 応えてくれる』

『泥沼を 抜けて花咲く 蓮の花 地上の穢(けが)れ 残すことなし』
               
                     >>日記 無色透明 『413日目 - 信じること』 より

      
  人気ブログランキングへ  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、愛のクリックをお願いします。
ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代

      
別窓 | 風景 | コメント:2
ポジティブ
2010-07-01 Thu 08:25
                                        『晴れの屋久島』
晴れの屋久島ー03-july_07_10
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


『ポジティブ』     

ポジティブという言葉にも二種類の意味がある。
一つは相対的なポジティブ。
もう一つは絶対的なポジティブ。

人は常に前向きに生きるしかない。
過去の教訓を生かして、前を向いて生きるしかないのだ。
それは絶対的なポジティブ。
他に選択肢はない。
それが本来の生きる道だ。
だから、絶対的なポジティブ。
人の生き方としての道。

もう一つの相対的なポジティブは、功利的なポジティブ。
便宜的というか、自分に都合がいいから、自分にとってプラスになるから、
ポジティブに考える。
もしネガティブに考えた方が自分にとって得であれば、きっとそうするであろう
日和見主義的なポジティブ。
あなたにとって得だから、リッチになれるし欲望は何でもかなうから、ポジティブ
に考えましょう、というポジティブシンキング。
それはネガティブに考えると、自分にとって不利になるから、ポジティブに考え
ましょうという、極めて功利的な考え方。
自己中心的というか、自分の利益を第一に考えた生き方。
それはネガティブあってのポジティブ。
ネガティブではだめだから、ポジティブに考えましょうという相対的なポジティブ。

そういう意味でのポジティブシンキングには、かなり無理がある。
自分にとっては悲劇としか思えない現実を、無理してポジティブに考える必要がある。
ポジティブに考えることによって自分の未来がバラ色になるならと、ギブ・アンド・
テイクみたいな、取引関係のポジティブ。
それは本当の意味でのポジティブではない。
絶対的なポジティブではない。
揺れ動くポジティブ。
「これでいいのだろうか」
「本当にこれで大丈夫だろうか」
常に不安がつきまとう。
故に、なかなか真のポジティブになりきれない。
常に疑問を伴い、完全なポジティブにはほど遠い。
それ故、思ったような結果が出ない。
一抹の疑念でもあれば、想いは現実化しない。
逆に、疑念の方が強ければ、疑念の方が現実化してしまう。
これがポジティブシンキングの陥りやすい落とし穴。

多くの人がここのところで行き詰まってしまう。
ポジティブシンキングで成功する人は少ない。
最後まで全うできないのだ。
途中で疑念の方が大きく心を占めてしまう。
それではネガティブシンキングだ。

相対的なポジティブシンキングは、その裏にネガティブシンキングを隠し持っている。
ポジティブとネガティブは表裏一体なのだ。
一歩間違えば、すぐにネガティブにひっくり返るのが相対的なポジティブである。
相対的なポジティブは、ネガティブの否定の上に成り立っている以上、常に
ネガティブをはらんでいるのだ。
つまり、ネガティブあってのポジティブなのだ。
ポジティブだけでは存在できないのだ。
それが相対的なポジティブシンキングの限界である。
ある時はポジティブであり、別の時はネガティブに反転する。
相対的なポジティブの宿命である。

一方、絶対的なポジティブというのも存在する。
それはネガティブを前提としないポジティブである。
故に、絶対的なポジティブなのだ。
不動のポジティブ。
揺らぐことのないポジティブ。
ネガティブに反転することのないポジティブ。
それは理解から生まれる。
人生の理解から生まれる。
深い人生の洞察から生まれるのだ。
前向きに生きるしかない。
他に選択の余地はない。
それが真に理解された時、人は絶対的なポジティブになる。

後退はない。
前進あるのみ。
それが人生だ。
前を向いて生きるしかない。
後退はあり得ない。
無限の未来に向かって進むのみ。
実際は、前も後ろもない。
ただ、今を生きるのみ。
生きる姿勢なのだ。
真剣に生きることだ。
前とか後ろというのは喩え。
生きる姿勢だ。
エネルギーのほとばしりだ。
萎縮していないということ。
静かに活性化しているということ。
絶対的なポジティブ。
消えることのない炎。
煌めき続ける光。
                 
                 >>日記 無色透明 『29日目 - ポジティブ』 より

      
  人気ブログランキングへ  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、愛のクリックをお願いします。
ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代

 
別窓 | 風景 | コメント:0
煌(きら)めき
2010-06-22 Tue 06:00
                                        『永田いなか浜』
永田いなか浜ーnagata-01_10
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
  ぜひ大きな画像でご覧ください。↑click
 


『煌(きら)めき』     

「私」は思い込み。
感情も思い込みから出てくる。
人の意識のほとんどは思い込みからできている。
なに?
そんなことはない?
そうかな?

何もかもが思い込みなら、思い込みでないものはないのだろうか。
すべてが思い込みという訳ではない。
目の前にあるものは思い込みではない。
目の前のパソコンは、そこにある。
だからこそ、この日記が読める。

では、何が思い込みか。
この日記がずーっと続くと思うのが、思い込み。
明日終わるかもしれない。
今、目の前にあるのは事実。
でも、明日もあると思うのは思い込み。

思い込みというのは、意識の世界。
事実というのは、意識の外の世界。
思い込みというのは、自分一人の世界。
狭い、狭い「私」ワールド。
他の人との共通性はない。
もっとも、集団思い込みというのもあるにはある。
それはマスコミや教育によってつくられる。

でも、思い込みというのは、基本的に自分の世界に浸っている場合が多い。
だから、周りの思い込みとは異なる。
その結果、周りと軋轢が生じる。
最終的には、戦争にまで発展することもある。

つまり、思い込みとは、信念であり、信条であり、信仰であり、人生観であり、
モットーであり、意見であり・・・
それらが一人一人異なるということ。
だから、意見が合わなかったり、食い違ったりする。

思い込みは、これまでの人生経験によってつくられる。
だから、すべて過去のもの。
過去の遺物。
今、この瞬間には思い込みはない。
思い込みは、すべて頭の中にある。
記憶の中にある。

思い込みとは、曇空のようなものだろうか。
どんよりとして、うっとうしい。
まったくクリアーではない。
重たくのしかかる。
閉塞感。
自由ではないのだ。

思い込みと対極にあるものは?
曇り空の反対。
そう、青空。
どこまでも澄み渡った青空。

何もない空間。
限りない光がある空間。
空っぽの空間。
自由な空。

しかし、それは雲が晴れないと見ることはできない。
思い込みという雲が晴れないと、青空というリアリティは見れない。

仏教では、思い込みのことをマーヤと言う。
つまり、幻(まぼろし)ということ。
人生はマーヤ。
幻の人生。
思い込みの人生。
幻想の人生。
思い込みが消えた時だけ、真実が現れる。
それがリアリティ。

人は思考によって生きている。
つまり、思い。
この思いと自己同一化している。
自分が思いそのものになっている。
人は思いの世界に埋没している。
それがマーヤ。
幻の人生。

人は、肉体も感情も思考も自分自身だと思っている。
まさに、それこそが思い込み。
肉体は、時々、自分の言うことを聞かなくなる。
感情も、勝手に爆発したりする。
思考も、いつも独り言を言っている。
そう、自分のはずなのに、自分の思うようにならない。
なぜ?

肉体も、感情も、思考も、本当に自分自身だろうか。
それとも、それは仮のものだろうか。
今、一緒にいるだけのものだろうか。
肉体に入り、感情を感じ、思考を使っているだけだろうか。
そういう体験をしているのだろうか。
自分は、肉体でも、感情でも、思考でもなく、他の何かだろうか。
魂?
そんなに焦らないで。
ゆっくり、一歩、一歩。

魂?
それもまた思い込みかもしれない。
なぜなら、魂を見たことある?
見たことのない人が圧倒的だろう。
たぶん、人から聞いたり、本で読んだり・・・
それはイメージ、つまり、思い込み。

肉体と一緒にいてみる。
そして、肉体を理解する。
感情と一緒にいてみる。
そして、感情を理解する。
思考と一緒にいてみる。
そして、思考を理解する。

魂と一緒にいてみる?
どうやって?
知らないものは一緒にいられない。

目の前の事実=わかっていることから始めよう。
一歩、一歩、着実に。
一気に飛躍しないように。
そうすれば、やがて魂もわかるかもしれない。
一つ一つ理解していけば、やがて魂の順番になるだろう。
でも、飛躍しないように。
ちゃんとグランディングしないと。

肉体を理解し、感情を理解し、思考を理解する。
それらと一緒にいて、それらを理解する。
それができれば、それらに振り回されなくなる。
そうなれば、自分は肉体でも、感情でも、思考でもなくなる。
自分は肉体であり、肉体ではない。
自分は感情であり、感情ではない。
自分は思考であり、思考ではない。
自分は・・・?

静かに自分を見守っているといい。
肉体に翻弄されたり、感情の奴隷になったり、思考の虜になったりしない。
それらのものと一緒にいて、それらのものを体験し、同時にそれらのものを
見守っている。
けっして、それらに使われない。
主体性をキープする。
自分自身であり続ける。
肉体でも、感情でも、思考でもない。
自分は、自分。

肉体とも、感情とも、思考とも、少し距離を置いて付き合えるだろうか。
そうすれば、それらに翻弄されないかもしれない。
そうすれば、それらとうまく付き合えるかもしれない。
自己同一化しないで、ほんのちょっと距離を持つ。
そうすれば、もう少し楽に生きれるかもしれない。
肉体や感情や思考とベッタリくっついていると、不自由だ。
ちょっとだけ距離があると、楽に生きれる。

肉体と感情と思考からできている「私」とも、ちょっと距離を取ろう。
「私」と自己同一化していると、息苦しくなる。
だから、ほんのちょっと離れてみる。
そうすると、別の人生が始まるかもしれない。
肉体でも、感情でも、思考でもない人生。
どんな人生?
自分を見守る人生?
自分で確かめて。

魚座という思い込みの時代から、水瓶座というクリアーな意識の時代へ
変わろうとしている。
もう、肉体や感情や思考との自己同一化から抜け出す時期ではないだ
ろうか。
もう、「私」という殻を脱ぐ時ではないだろうか。
サナギから脱皮して、大空を自由に舞う。
風に吹かれ、花の香りに誘われ、太陽の光を浴びる。
自由に望むところへ飛ぶ・・・
「私」という頸木(くびき)から解放されたら、人はそうなるだろう。
物質的な三次元限定バージョンから、多次元的な宇宙バージョンへ脱皮
しようとしている。

思い込みから来る同情や慈善ではなくて、もっと違うものがあるかもしれない。
過去をベースにした、やさしさではなくて、もっと違うものがあるかもしれない。
自分の経験をベースにした、あたたかさではなくて、もっと違うものがあるかも
しれない。
思いもかけないようなやさしさが、突然、湧いてくるかもしれない。
事実に直面した時、予想もしないあたたかさが自分の内から湧き出すかも
しれない。
過去の思い込みではなく、今に生きる時、思いもかけない人生が展開する
かもしれない。
人生は、不思議だ。

雷鳴が轟き、稲妻が走る。
人の意識も、あのようなものだろうか。

意識は、光。
瞬間の煌(きら)めき。
火花のような、稲妻のような煌めき。
                 
               >>日記 無色透明 『166日目 - 煌(きら)めき』 より

      
  ブログタグ1  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、
愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧ください。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


   
別窓 | 風景 | コメント:2
山の紅葉
2009-11-17 Tue 12:28
                                           『山の紅葉』
山の紅葉ー09-dec_08
  写真をクリックしますと、1024サイズの大きな画面でご覧になれます。
  ぜひ大きな画面でご覧ください。↑click
 
     

   『山の紅葉』


   感じていけば、意識は限りなくこまやかになっていく。
   これからは、こまやかでないと生きにくくなる。
   荒い波動では、荒い世界で生きることになる。
   それは苦しい人生を意味する。

   精妙な波動になればなるほど、人生は豊かになる。
   無限の豊かさが目の前に展開してくる。
   その無限の豊かさを楽しめばいい。
   それは誰にでも開かれている。

             日記 『無色透明』 1046日目 - エネルギー より


      
  ブログタグ1  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、
愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧くださいませ。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


   
別窓 | 風景 | コメント:2
滝の紅葉
2009-11-13 Fri 23:57
                                           『滝の紅葉』
滝の紅葉ー06-dec_08
  写真をクリックしますと、1024サイズの大きな画面でご覧になれます。
  ぜひ大きな画面でご覧ください。↑click
 
     

   『滝の紅葉』


   小さな人間の意識にこだわることもない。
   限定された意識に執着することもない。
   フォーカスを緩めれば、意識は静かに広がっていく。



      ☆ぴあの編集後記
      セッションレポートの更新が途中で止まってしまってすみません。
      一ヶ月前には、皆様の意識に役立つレポートと感じ、連載していこうと思い
      ましたが、打ち込み、アップしていく過程で、どうも何かが重いので、途中、
      更新する気持ちにストップがかかってしまいました。

      光の加速が速く、先日の意識がもうずいぶん以前の意識のような感覚です。
      ブログを更新をするにあたって、私の気持ち(エネルギー)は常に前向きで
      ありたいと思っています。
      申し訳ありませんが、レポートの更新は終了させていただききます。
      残りはまた、T&Fのサイトのほうにアップします。

      今日更新しました上の文章は、日記 『無色透明』 からのものです。



      
  ブログタグ1  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、
愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧くださいませ。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


   
別窓 | 風景 | コメント:2
メッセージ - 2
2009-09-13 Sun 06:30
                                  『花之江河からの黒味岳』
花之江河からの黒味岳ー30-oct_08
  写真をクリックしますと、1024サイズの大きな画面でご覧になれます。
  ぜひ大きな画面でご覧ください。↑click
 
     
   日記 『無色透明』 より

   メッセージ - 2

   否定の世界から全肯定の世界に入れば、無限の創造力が手に入る。
   好き・嫌い、良い・悪い、正邪、善悪・・・
   そういう二元の世界にいる限り、無限の創造力は使えない。
   全肯定の中にのみ無限の創造力は眠っている。

   全肯定とは、起きてくるすべての現象をそのまま受け止めること。
   良いも悪いもない。
   好きも嫌いもない。
   単なる事実として受け止める。

   すべては縁を媒介として、流れの中で起きてくる。
   そのすべてをありのまま受け止める。
   自分に都合の悪いものを拒否したり、嫌なものから目を逸らしたりしない。
   全部そのまま受け止める。

   起きてくるすべての現象を、けっして否定的に捉えない。
   全肯定。
   起きるべくして起きた事実。
   良くも悪くもなく、すべてOK。

   必要なことが必要な時に起きてくる。
   それをそのまま受け入れる。
   そうすれば、何も問題はない。
   どんどん流れていく。

   事実を直視し、事実と共に生きる。
   選り好みしない。
   何が起きても、それでOK。
   その事実からスタートする。

                         >>日記 『無色透明』

      
  ブログタグ1  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、
愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧くださいませ。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


      
別窓 | 風景 | コメント:2
メッセージ - 1
2009-09-10 Thu 15:05
                                           『九州本土』
九州本土ー30-oct_08
  写真をクリックしますと、1024サイズの大きな画面でご覧になれます。
  ぜひ大きな画面でご覧ください。↑click
 
     
   日記 『無色透明』 より

   メッセージ - 1

   常にフリーハンドでいることです。
   その時にのみ、今必要なものを今創造できるのです。

      
  ブログタグ1  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、
愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧くださいませ。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


   
別窓 | 風景 | コメント:0
メッセージ - 1
2009-05-15 Fri 11:41
                                           『布引の滝』
布引の滝ー17-june_08
  写真をクリックしますと、1024サイズの大きな画面でご覧になれます。
  ぜひ大きな画面でご覧ください。↑click
 
     
   Light News Letter より

   メッセージ - 1

   「大きな広い道が見えます。
   何も思い煩うことなく、この道を歩いていけば自然に流れが起きるでしょう。

   自然にしていることが一番早く行ける近道です。」


   Light News Letterから、個人セッションのレポートよりエッセンスをお届け
   していきます。(セッションを受けている人を見守る存在からのメッセージです)
   何か、深い意識に届く言葉がありましたら幸いに思います。 
                                         ぴあの

                                       
                  Light News Letter №5 (2000年8月1日発行) より
                                 >>T&F光のネットワーク

      
  ブログタグ1  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、
愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧くださいませ。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


 
別窓 | 風景 | コメント:2
編集便り - 6
2009-04-20 Mon 07:49
                               『田植えが終わった永田集落』
田植えが終わった永田集落ー28-apr_08
  写真をクリックしますと、1024サイズの大きな画面でご覧になれます。
  ぜひ大きな画面でご覧ください。↑click
 
     
   K-Communication より

   編集便り - 6

   痛みや苦しみや悲しみと共に留まれば、それは癒されていきます。
   ただそれと共に留まっていれば何もしなくても自然に癒されていきます。
   共に留まるということが、即、ヒーリングのようです。
   ハートから慈しみのエネルギーがあふれ出します。
   本当に何もする必要はなく、ただ静かにそれと一緒に留まっていれば全ては癒
   されていきます。
   一切外に求める必要はなく、ただ静かに自分の全存在で留まっているだけで全
   ては癒されていきます。

   たぶんこのことは対人関係についても当てはまることではないでしょうか。
   相手を変えようとしなくても、心から相手と一緒にいれば、それだけでヒーリング
   効果が生まれるようです。
   意識的に何かをする必要は全くなく、ただゆったりと落ち着いて相手の話を心か
   ら聞いていれば、自然にヒーリングが起きるのではないでしょうか。
   問題は、頭の中で思考がいろいろ考えたり、騒いだりすることです。
   それをやりだすと関係はできません。
   ただ一緒にいるということは、思考が全く動かないことを意味します。
   思考ではなく、自分の全存在で共にいる時、生の本質である、全てを生かす生命
   エネルギーが自他に流れ始めるようです。
   共に留まる、一緒にいるということは、愛を意味しているのではないでしょうか。 

                     K-Communication №33 (1992年 7月号) より
                                     >>K-Communication

      
  ブログタグ1  
ブログランキングに登録しています。
写真と文章をご覧になって、より多くの方に紹介したいと思われたら、
愛のクリックをお願いします。ありがとうございます。 



   屋久島の大自然のエネルギーに包まれる本家サイト
   『屋久島ナチュラルヒーリング』も あわせてぜひご覧くださいませ。

   >>屋久島ナチュラルヒーリング

   日記 
   >>無色透明

   K-Communication
   >>Kimi's Early Writings     
     
   T&F 光のネットワーク
   >>T&F時代


 
別窓 | 風景 | コメント:0
| いのちの島=屋久島 | NEXT