いのちの写真と光の言葉
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思いの世界
2012-02-19 Sun 14:05
                                           『木霊の森』
木霊の森ー10-2-dec_11
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日記『無色透明』  2007年 ”1005日目 - 思いの世界” より転載。

☆ 思いの世界

今日、ものみの塔の人が訪ねてきた。
初めて見る顔だった。
「死について考えたことはありますか」
「まあ、考えないこともないけど・・・」

曖昧な返事をしていると、聖書に回答があると言われた。
聖書を読めば慰められるとも言われた。
死や天国について、聖書に詳しく書かれていると・・・
それを信じれば、救われる?

信じるということは、思い込むということ?
思い込めば、慰められる?
確かに!
死んでも天国へ行くと思えば、心は落ち着く。

でも、それは思い込みの世界。
自分の心地よいように思い込んで、自分を納得させただけ。
自分で納得して、自己満足しているだけ。
思いの世界で生きているだけ。

不安も心配も、思いの次元。
その逆を思うことで、慰められるだけ。
ただ思いが変化しているだけ。
思いによって感情も変化する。

思いによって人は揺さぶられ、思いによって人は変化する。
人の中に占める思いの割合は大きい。
思いベース。
思いの中で、のたうち回っているだけ。

別にそれがいけない訳ではない。
ただの事実。
その事実に気づかないまま終わる一生。
思いの中で右往左往する人生。

思いを変えることで、人生は180度変わる。
しかし、思いの世界に変わりはない。
お釈迦様の掌の上で踊る孫悟空と異ならない。
どこまで行っても思いの世界。

思いの世界で六道輪廻しているだけ。
天国から地獄まで体験しているだけ。
それも悪くはない。
しかし、そのことを理解しない限り、自分のシッポを追いかけ回す犬と変わらない。

六道輪廻の世界にいる限り、自分の思いに振り回される。
生老病死、四苦八苦・・・
カルマの輪の中から抜け出すことはできない。
限られた選択肢があるだけで、完全な自由はない。

人生を理解することだけが、自由をもたらす。
理解がない限り、人はカルマの奴隷。
思いの世界の囚われ人。
そのことにさえ気づかずに一生を終わる。

それが、無明。
明かりがないこと。
光がないこと。
何もわからず闇の中を彷徨うのみ。

思い方を変えることによって、慰められる?
思い方を変えることによって、幸せになれる?
確かにそうかもしれない。
しかし、また思い方が変われば、地獄に落ちてしまう。

思いの世界は一定しない。
常に変化している。
思いの世界に不変のものはない。
思いの世界は動揺する世界。

湖面の波立つ世界。
深い静謐は望めない。
思いの世界を否定する必要はない。
しかし、それがすべてでもない。

思いの世界を理解して、思いの世界から自由になる。
思いの世界をわかって、思いの世界から離れる。
思いの世界を深く体験して、思いの世界を自由に使いこなす。
思いの世界に拘泥(こうでい)しない。



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風邪
2012-02-10 Fri 14:20
                                   『木霊の森の沢の紅葉』
木霊の森ー09-2-dec_11
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日記『無色透明』  2007年 ”772日目 - 風邪” より転載。

☆ 風邪

風邪の時は
風邪を活かす
何も無駄にしない
何も問題はない

風邪の時は
自然に体がゆるむ
心身に固まっているものを解放するために
自然に心身がゆるむ

その結果
体はだるくなり
意識は朦朧とし
締まりがなくなる

いつもは緊張して生きている
適度な緊張は必要
しかし
過度の緊張は負担となる

必要以上の緊張によって
心身はこわばってしまう
心身に硬いシコリができ
やがて限界に達する

その時
風邪をひく
解放の始まり
本来の状態への回帰

それは自然現象
日常的にシコリをほぐしていない限り
限界まで溜まったものは
一気に解放されようとする

それが病気という現象になって現れる
だから
別に病気を嫌がることはない
健康回復のプロセスに過ぎない

体の中や心の中に溜まってしまった塊
それはほぐす必要がある
そのためには
心身をゆるめるしかない

真からゆるめるためには
無理をしないで
ゆっくり休むしかない
体は休息を要求する

無理をして動いたり
薬を飲んだりすると
ゆるむことがストップしてしまう
解放が中途半端に終わってしまう

ゆるみきらせることによって
これまで溜まっていたものが解き放たれる
そして
本来のしなやかな状態に戻る

中途半端にすれば
近い将来
また
同じことの繰り返し

ゆるめるなら徹底的にやらないと
ゆるめる意味がない
中途半端では
何度も苦しい目に遭うだけ

自分の体を
信頼しきることだろうか
信頼すれば
体は信頼に応えてくれる

不安や心配は
体にとって負担となる
せっかくゆるみそうになっていたものが
また緊張してしまう

不安や心配は
体だけでなく
心にも負担になる
それでは心がゆるまない

体も心も自然に解放される
スポンジを強く握って離すと
自然に元に戻るように
心身は健康体に戻ろうとする

それが
自然のシステム
それが
いのちというもの

それを自分で止めないことだろうか
せっかくの健康回帰を
表面意識の不安や心配で
ストップさせないことだろうか

いのちを信頼する
自然を信頼する
宇宙を信頼する
自分自身を信頼する

信頼していれば
ただ任せていればいい
自我でジタバタしない
すべてをゆだねる

健康とは
自然な状態
ならば
自然に任せるしかない

自分でなんとかしようとするから
より不自然になってしまう
せっかくの自然のシステムを
人間がメチャクチャにする

人は自分を信頼しているだろうか
人は自然を信頼しているだろうか
人は宇宙を信頼しているだろうか
人はすべてを信頼しているだろうか

人は自分を信頼していないかもしれない
人は自然を信頼していないかもしれない
人は宇宙を信頼していないかもしれない
人はすべてを信頼していないかもしれない

究極は
どれだけ深く
体を信頼し
心を信頼し

自分を信頼し
自然を信頼し
宇宙を信頼し
すべてを信頼するかに尽きる

信頼があるところに不安はない
では
その信頼は
どこから生まれるのだろうか

それは
理解
深い理解
真にわかることから生まれる

知的な理解ではなく
頭の理解ではなく
表面意識の理解ではなく
もっと深い理解

真にわかることから
信頼は自然に生まれる
殊更に信頼を意識する必要もない
深い信頼がそこにある

意外なことに
人は自分を知らない
人は自分のことをわかっていない
自分のことだけではなく・・・

本質的なことは何もわかっていない
不思議なことに
それでも生きている
それでも生きられる

しかし
その生には
不安や心配が同居している
真のやすらぎはない

いかに深く自分を理解するか
それがそのまま
心のやすらぎに直結する
そこに不動の信頼がある

人は自分の体や心を信頼していない
人は自分の体や心をよくわかっていない
だから
不安や心配と共に生きている

自然のシステムも
宇宙の流れも
ほとんど知らない
それでも生きている

深く深く人生を理解する
理解から信頼が生まれ
安心が生まれ
心のやすらぎが生まれる

心を込め
魂を込め
全身全霊で
自分自身を理解する

風邪の時は
風邪になりきり
風邪を理解する
痛みや苦しみに負けない

負けて薬に頼らない
安直に楽を求めない
真に理解するためには
その中に飛び込むしかない

苦しみから
逃げない
直面し
直視する

直視して
理解する
深く
全身全霊で

その時に
深い深いやすらぎがやって来る
それは
イージーな道ではない

命を賭けるぐらいの気合がないと
飛び込めない
すべてを捨てるくらいの気合がないと
真実はわからない

心を込め
魂を込め
全身全霊で生きる
それが必要な時もある

『倒れたら 倒れたままで いればいい 信頼しきって すべてゆだねて』



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浄化
2012-02-05 Sun 15:25
                                           『木霊の森』
木霊の森ー09-2-dec_11
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日記『無色透明』  2011年 ”2406日目 - 浄化” より転載。

☆ 浄化

心だけでなく、体も調整する必要があります。
波動を速くし、軽やかにする必要があるのです。
体もクリスタル化していくのです。
それには・・・

肉食は、重たすぎます。
波動が、あまりにも遅いのです。
植物性のものの方が、波動が軽やかです。
いつまでも肉を食べていたら、体の波動を速くすることはできません。

別に肉を食べなくても生きていけます。
むしろ食べない方が、健康的です。
肉をたくさん食べれば、心身の波動が荒くなります。
いつもイライラし、心が落ち着きません。

植物性のものを食べていると、心身は穏やかです。
平和になり、安定します。
これからの時代の心身にするには、肉はない方がいいでしょう。
アセンションしたかったら、肉とは決別するしかないと思いますよ。

動物を殺して食べること自体が、もう時代に合わないでしょう。
これからは、もっと平和的に生きる時代です。
肉を食べなくなって、もう40年近くなります。
至って健康です。

病気することもなく、元気に暮らしています。
病院や医者とは、まったく縁がありません。
肉を食べない方が、むしろ健康に生きられると思いますよ。

心身の波動が速くなればなるほど、自分の意識が心身に浸透します。
心身が、自分の意識のままになっていきます。
これまでは、環境や周りの影響下にありました。
しかし、これからは自分の意識の影響を強く受けるようになります。

実は、これまでも最終的には自分の意識のままになっていました。
ところが、あまりにも波動が遅すぎて、わかりにくかったのです。
結果が、すぐには出ませんでした。
しかし、波動が速くなると、即結果が現れます。

意識が、心身の隅々にまで浸透するのです。
そして、すべてが意のままになっていきます。
人生が、自分のものになってくるのです。
運命に翻弄されるのではなく、運命を創造するのです。

それが、新しい時代の生き方です。
主体性をしっかりと確立することですね。
何事もあなた任せにしない。
自分のことは、自分で責任を持つことです。

いかに波動を上げていくか。
心も体も波動を上げていく必要があります。
それには、食べるものにも心のあり方にも気をつける必要があるのです。
無意識ではなく、一つ一つ注意深く生きることですね。

生活全般を見直す必要があります。
自分の生き方を常に問い直す必要があるのです。
その日々の生き方が、アセンションにつながります。
日々の生きる姿勢が、人生を決めていきます。




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霊能
2012-01-29 Sun 11:45
                                           『木霊たち』
木霊たちー06-2-jan_12
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日記『無色透明』  2010年 ”1858日目 - 霊能” より転載。

☆ 霊能

昨日は、長電話が二本あった。
両方とも古くからの知り合い。
しかし、片方の人は、何かが変になっていた。
なぜこんな状態になったのだろうか・・・

彼は、霊的なヒーリングができる人。
そのため、かなり無理をして人を救ったりしていた。
エネルギーも清浄で、知的で冷静な人だった。
ところが・・・

昨日の電話は、明らかに異常だった。
以前の彼とは、まったく違っていた。
落着きがなく、何かに追いかけられている感じだった。
言葉が宙を飛んでいた。

なぜこうなってしまったのだろうか。
彼によれば、誰かに霊的に攻撃されているとか。
実際にストーカーする人までいるとか。
普通の感覚では、精神状態を疑わざるを得ないような内容だった。

彼は、霊能のある人。
ブラックではなくて、ホワイト。
私利私欲に走るような人ではなかった。
にもかかわらず、この状態とは?

あまりにも霊的なことに関わり過ぎたのかもしれない。
霊的なことばかりをやり過ぎて、現実的なことが疎(おろそ)かになった
のかもしれない。
あるいは、霊障を自分で引き受け過ぎたのかもしれない。
いずれにしても、まったくグランディングが効いていない状態だった。

このままいけば、いわゆる「行者の末路」になりかねない。
ミイラ取りが、ミイラになってしまう。
霊能が、身を滅ぼす。
なんとも残念な結果となる。

今の時代に必要なものは、霊能ではない。
今の時代に必要なものは、クリアーな意識。
霊能は、その付随物。
あってもなくても、どちらでもいい。

霊能にばかり意識が向くと、本来の自分を見失ってしまう。
霊能を使い過ぎると、謙虚さをなくす。
力に頼れば、光を見失う。
精神的な力であれ霊的な力であれ、力を行使すれば傲慢になる。

それは、支配や戦いと繋がる。
力任せにやることは、繊細なものを壊してしまう。
愛や美は、繊細さと共にある。
力と共にあることはない。

意識をクリアーにすること。
念によって支配しようとしないこと。
良かれと思ってやることでも、力任せにやれば必ず無理が生じる。
無理が生じれば、必然的に反動が起きる。

そもそもやってあげること自体が・・・
必要最小限であるべきもの。
たとえ、それが親切でも。
やってあげれば、依存心を発生させる。

ヒーリングも医療も、治してあげればいいというものではない。
治してあげるのは、下の下。
できるだけ治してあげない方がいい。
自分で治る方法をアドバイスするのが、ベスト。

治してあげても、また病気になる。
やってあげれば、依存心を増やすだけ。
自分で自立するサポートをする。
それが最上の方法。

ただ黙って見守る。
それが、究極の愛。
ただ愛のエネルギーを送るだけ。
ただ愛おしく包み込むだけ。

何もしないのが、最上。
アドバイスが、その次。
必要最小限の手助けは、最後の手段。
何でもやってあげるのは、最悪。

自分のことは、自分でやってもらう。
それが、人を尊重するということ。
やってあげるのが、親切ではない。
どうしてもできない場合のみ、必要最小限のサポートをする。

お互いに自立して生きる。
それが、これからの基本テーゼ。
やってあげればいいというものではない。
それは、極めて浅はかな考え。

意識が深くなればなるほど、何もしないもの。
何もしないで、ただ見守る。
何かやってあげようとするのは、目立ちたがり屋。
自我そのもの。

褒められたいとか、認められたいからやるだけ。
自分がやってあげているという自負心。
自負心は、やがて慢心に変わる。
いずれにしても、自己満足。

この世的なものも霊的なものも、やってあげるのは必要最小限。
基本は、自立をサポートするという方向性。
親切が仇(あだ)になることもある。
やさしければいいというものではない。

しっかりと相手を見つめる目。
何が必要なのかを見極める意識。
ただやってあげるのは、あまりにもイージー。
透き通るような意識が、何よりも重要。

人を救うことはできない。
人を助けることもできない。
人は、自分で助かるのみ。
できることは、それを応援するだけ。

人を助けようとすれば、人を支配することになりやすい。
それは、他人依存を助長する。
真の自立を遠ざける。
ただただ自立を願って、必要最小限のことをさせてもらうのみ。

時代のトレンドは、「シンプル」に流れている。
救ったり、救われたり・・・
支配したり、支配されたり・・・
そういう時代は、既に終わった。

ヒーリングもほどほどに。
やってあげるのは、必要最小限。
方向性は、自立。
その人が、自(みずか)ら光り輝くように・・・




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思い込み人生からの離脱
2011-09-17 Sat 23:59
                                      『苔の間を流れる水』
苔の間を流れる水ー24-oct_07_10_11
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日記『無色透明』  2010年 ”2163日目 - 思い込み人生からの離脱” より転載。

『思い込み人生からの離脱』

ほとんどの人は、感情的な思いと共に生きている。
けっしてクリアーな思考と共には、生きていない。
肉体にまつわる感覚や感情と一体になった思い。
論理的でも科学的でもないイメージ主体の思い。

それが、自分というものを形作っている。
自分というイメージ。
自分という思い込み。
それを意識の中心として、人は生きている。

いや、純粋に論理的に生きている人もいる?
科学者や学者は?
冷徹な思想家や分析家は?
けっして感情的な思いでは生きていない?

そうだろうか。
確かに、彼らは仕事の上では科学的、論理的思考で生きているかもしれない。
しかし、プライベートで怒らない人がいるだろうか。
不安や心配をしない人がいるだろうか。

不安や心配は、科学的、論理的思考だろうか。
それとも、感情的思いだろうか。
際限なく不安を募らせることは、けっして科学的でも論理的でもない。
失くしたものを嘆き悲しむのも、冷静な思考ではない。

不安も心配も恐れも悲しみも・・・
みんな感情的な思いから出てくる。
けっして科学的で論理的な思考からは出てこない。
残念なことに、科学者も学者も、そのような思いから自由な人はいない。

つまり、どんなに冷徹な思想家や分析家であっても、自分というイメージを
メインに生きている。
そうである限り、自己の利害が絡むと、冷静ではいられなくなる。
科学的、論理的思考は、自己の利害の前には風前の灯(ともしび)。
科学的、論理的思考で日常を生きている人が、いったいどれだけいるだろうか。

精神世界に詳しい人も、例外ではない。
いくら精神世界に詳しくても、自分というイメージがある限り、思い込みワールドの中。
アセンションすら、おぼつかない。
いくらアセンションのことに詳しくても、その本質をわかっているとは言い難い。

真のアセンションとは、感情的な思いの次元から離脱すること。
肉体にまつわる感覚や感情や思いによってできている自分というものから
離れること。
個という思い込みから自由になること。
個であり全体であるという次元にシフトすること。

個であり全体であるということは・・・
肉体ベースではないことを意味する。
これまでは、肉体ベースの思いが意識の中心だった。
それが、自我という自己中心的な主体を形成していた。

これからの主体は、魂ベースのものになる。
魂と純粋な思考が合体したもの。
肉体の感覚や感情をベースとしない思考。
論理的で科学的な思考。

宇宙は、数学的調和によってできあがっている。
その数学的思考を用いて、意識の主体を形成する。
そのバックには、魂がある。
魂をベースとして、肉体次元を生きる。

思い込み人生からの離脱。
事実ベースの人生への転換。
悲苦からの自由。
不安や心配や恐れからの解放。

悲苦や不安や心配や恐れは、みんな感情的な思いの産物。
非論理的な思いが、そのような幻をつくっているだけ。
人は、ありもしないものに翻弄されているだけ。
すべて思い込み。

人は、思い込みワールドで生きている。
思いの中身を直視すれば・・・
「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」
実体は、ない!

「私」という幻。
「自分」という幻想。
自己中心という思い込み。
人は、リアリティを生きてはいない。

肉体ベースから魂ベースへの転換。
それは、感情的思いから、純粋思考への転換。
意識の中心が、ドロドロとした自我からクリアーな意識へ変わること。
断絶した個として生きるのではなく、全体とつながった個として生きること。

体主霊従から霊主体従への転換。
そんなことはわかっている?
精神世界の本を読めば、どこにでも書かれている?
確かに!

しかし、自分というイメージからの離脱を説いた本があるだろうか。
自我からの自由について書かれた本があるだろうか。
そういう本は、非常に少ない。
自分自身の存在の根幹を揺るがすような本は、極めて限られる。

どの本も、自分は安全圏においてある。
周りのことは、よくわかる。
しかし、本質的に問われているのは、自分自身。
アセンションするのは、自分自身なのだから。

その自分が、いつまでも感情的な思いの次元で生きていたら、
アセンションは難しい。
いつまでも「自分だけはアセンションする」、「自分だけは大丈夫」と、
自分にこだわっていたら、ヘンな話。
ほとんどの人にとって重要なのは、自分がアセンションするかどうか。
自分が救われるかどうか。

しかし、そういう意識がある限り、真の意味でのアセンションは無理。
それは、アセンションという思い込み。
真の意味でのアセンションをわかっていない証拠。
まだ思い込みワールドから自由ではないということ。

思い込みワールドは、根深い。
ありとあらゆることが、思い込みによって成り立っている。
生まれてこの方蓄積してきた思い込みは、ものすごい。
それは、無意識レベルの先入観や偏見となっている。

固定観念であり、既成概念であり、自己中心的ものの見方。
反応のパターンであり、思考のパターンであり、行動のパターン。
自己正当化のパターンであり、落ち込みのパターンであり、失恋のパターン。
潜在意識のなかに蓄積された思い込みは、膨大なもの。

そういうものに気づく必要がある。
自分の構成要素に気づかなければ、今のままの人生が続く。
アセンションなど、夢のまた夢。
自分というものは、何によってできあがっているのだろうか。

自分の存在を問う。
それを徹底的にやっていかないと、自我から自由になることはできない。
自分というイメージからの自由はない。
個から離れることはできない。

個で生きる限り、思い込み人生。
けっしてリアルな人生ではない。
ただ思いの世界のなかで生きているだけ。
肉体ベースの限られた思い込みワールドの住人。

さて、あなたはどう生きるのだろうか。
いつまでも思い込み人生を続けるのだろうか。
不安と恐れと苦しみと悲しみの世界で生き続けるのだろうか。
それとも、新しく生き直すのだろうか。




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名もない草
2011-07-26 Tue 19:19
                                        『緑と白の世界』
緑と白の世界ー22-aug_08_11
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日記『無色透明』  2005年 ”40日目 - 名もない草” より転載。

『名もない草』

昨日書いたことは、たぶん過去世では伝えていなかったことだと思う。
お坊さんの過去世の時に、多少は言ったかもしれないけど、ここまで
はっきりとは言ってないはずだ。
キリスト教の宣教師の時は、信仰の話ばかりしていた。
神道の神主の時も、話したのは神様のことだけだろう。
たぶん昨日のことは、今生で初めて明確に伝えることだと思う。
だから、伝え方がまだ下手なんだね。
そのため、受講生のみなさんは多かれ少なかれショック症状を呈して
いるようだ。
新米の教師につくと、生徒もたいへん。

今の精神世界では、ここまでの話は出ない。
「私」が幻想だと言う人はほとんどいない。
ほんの少数だけいるかな?
主流は、肉体はなくなっても、あなたは存続する、というレベル。
魂は永遠だ、ということ。
まあ、それも悪くはない。
別にそのレベルでもいいのかもしれない。
でも、それだと、なかなか自我は消えない。
自我もしっかり生まれ変わる。
ハー、まだ六道輪廻の中だ。

肉体は車のようなもので、車を降りても、あなたは存在し続ける。
と、スピリチュアリズムの本にある。
それは間違いない。
肉体とは別の自分がいる。
幽霊の自分だ。
オット、間違えました。
正確に言うと、幽体の自分。
幽体にも肉体と同じように「体」がつく以上、それも肉体と同じように
衣にすぎない。
幽界でだけ通用する衣。
同様に、霊体があり、神体もある。
いずれも霊界や神界で着用する衣だ。
魂も衣だと言ったら、またショック?
魂こそが自分だと思っている向きにはショックかもしれない。
いずれも器、エネルギー場。
では、本当の自分はどこにいるの?
みんながそれを聞きたがるだろう。
人は神の分け御霊?
大神様の分霊?
確かにそうに違いない。
では、自分は神様?
確かにそうに違いない。
でも、現実は哀れでみすぼらしい人間?
確かにそうに違いない。
そう思っている限りは。

エネルギー場が無数にある。
神の分け御霊が入る器が限りなく存在する。
肉体もその一つだ。
幽体も霊体も、神体も魂も、みんな器だ。
神の分け御霊が入る器。

人間は何重にも重なった器の集合体。
だから、自分を肉体だと思っている人もいれば、魂だと思っている人もいる。
それだけでなく、自分を神だと思っている人もいる。
何とでも思える。
何にでもなれる。
それが人間だ。

自分は何だろう?
本人の思っているところのものだ。
肉体だと思えば、肉体人間。
魂だと思えば、魂人間。
神だと思えば、生き神様だ。

「私」は何?
その人が思っているところのもの。
自分が自分に抱いているイメージが「私」。
それ以外に「私」はいない。

「私」は継続するか?
しない。
イメージは一定ではない。
「私」についてのイメージも変化している。
そのため、「私」も変わっている。
「私」は継続していると思い込んでいるだけで、実際はイメージは微妙に修正
されている。
若い頃は、元気いっぱいの「私」だった。
歳を取ると、いつの間にか老人の「私」に変わっている。
「私」のイメージは一定しない。
「私」の実体の方も刻々に変化している。
どこに継続性があるのだろうか?
継続しているという幻想?

いのちを直接見ることはできない。
ただ、形あるものを通して、その変化によって知ることができるのみだ。
いのちは様々なものに宿り、植物となり、動物となり、星々となっている。
同じひとつのいのちが、万象万物に宿っている。
現れ方が異なるのだ。
人とて同じ。
同じいのちの現れなのだ。

植物と人間と、どう違うか。
人間は肉体だけでなく、たーくさんの体を背負っている。
何重にも重なっている。
植物よりも遙かに複雑だ。
それぞれの体のエネルギーを同時的に使いながら存在している。
様々な体のエネルギーが入れ替わりながらと言ってもいい。
いろいろな次元の記憶を潜在的に背負っているということ。
そういう多次元的な存在なのだ。
器にいくつもの器が重なっている。
多次元・多重存在なのだ。
継続しているもの?
いのちだけだ。
宇宙にひとつのいのちだけが継続している。
と言えば、そうとも言える。
しかし、そのいのちさえも刻々と変化している、と言えば、そうとも言える。
ひとつのいのちが刻々に変化している。
が、いくら変化しても、ひとつのいのちに変わりはない。
変わらないもの?
いや、変わるもの?
変わりながら、変わらないものかな。

結局、「私」はどうなったの?
「私」はいのち?
いのちはひとつ。
ひとつだったら、みんなひとつで、「私」とは認識できない。
「私」はあって、なきがごときもの?
ひとつのいのちの中に「私」は存在しない。
「私」が存在し得るのは、個々の命が自分について「私」というイメージを持つ
時だけ。
個の器をベースに、個の命が自分を「私」と認定する時だけ「私」は存在する。
自分のことを「私」と思わなかったら、「私」は存在しない。
ただ名もない命がきらめいているだけだ。
そこら辺の雑草と同じように。
名もなく貧しく美しく・・・

「私」というプライドが、どれだけ世の中を傷つけていることだろう。
「私」というプライドが、お互いに傷つけあっている。
名もない草は、お互いに傷つけあったりはしない。
ただ太陽をめざして背伸びしているだけだ。

「私」、人間の追究は続いていく。



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別窓 | 木霊の森 | コメント:4
繊細さ
2011-03-27 Sun 03:43
                                           『木霊の森』
木霊の森ー31-oct_08_11
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日記『無色透明』 より、2010年12月27日 ”2184日目 - 繊細さ” 転載

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思います。      ぴあの



『繊細さ』

愛子岳の頂上に雪が積もっている。
屋久島、冬バージョン。
今日の天気は、曇。
時々、小雨が降ったりしている。

食用にするフグは、生まれつき毒を持っているのではないらしい。
成長する過程で、肝臓や卵巣に毒が溜まってしまう。
どうして毒が溜まるのか。
それは・・・

肝臓は、解毒作用をする器官。
だから毒が溜まりやすいのは、わかる。
では、なぜ卵巣に溜まるのだろうか。
それは・・・

卵巣は、繊細だから。
卵巣の中には、卵がいっぱい。
卵は、極めて繊細。
だから毒を吸収してしまう。

人体も同じようなことが言える。
卵巣や子宮は、非常に繊細。
そのために体内の毒素を吸収してしまう。
それによって、卵巣や子宮が病むことになる。

体内の最も繊細な部分が、毒素を吸収する。
それによって、他の部分が健全に保たれる。
赤ちゃんが誕生すると、お母さんは見違えるようにきれいになる。
それは、赤ちゃんがお母さんの体内の毒素を吸収してくれたから。

受精卵は、母体から栄養を吸収して成長する。
その間、母体の毒素をすべて吸収してしまう。
それによって母体は甦る。
出産すれば、母体はリフレッシュされる。

しかし、母体の毒素が多過ぎると、赤ちゃんは生まれながらに病気を持つこと
となる。
奇形児が生まれることすらある。
繊細なものは、毒素を吸収する。
それによって、全体を守る。

女性が卵巣や子宮の病気になりやすいのは、繊細な部分が毒素を引き受けて
いるから。
それは、自己犠牲。
女性性の極み。
自分を犠牲にして他を生かす愛の姿。

体のなかで癌や腫瘍ができている部分も、同じようなことが言える。
一般的には、それらは悪者のように扱われる。
しかし、真実は、身を犠牲にして全体を守っている部分。
同じことが、ハンディを持つ人たちについても言える。

昔から心身に障害を持つ人たちは、差別されてきた。
何の役にも立たない人たちと見なされてきた。
ところが・・・
真実は、その逆かもしれない。

彼らこそが、競争社会のなかで競争しない生き方を示しているのかもしれない。
彼らこそが、人のなかにあるやさしさを引き出しているのかもしれない。
家族にハンディのある子が一人いるだけで、家族のなかの愛が引き出される。
彼らの存在は、身を犠牲にして愛を引き出している姿かもしれない。

これまでの価値観は、すべてが逆なのかもしれない。
金持ちや権力者が尊敬され、勢力をふるってきた時代。
弱者は、力によって抑えつけられてきた時代。
勝ち組がもてはやされる時代。

そういう価値観が、もしかすると逆転するかもしれない。
すべてが、逆になるかもしれない。
トップがビリになり、ビリがトップになる。
持てる者が軽蔑され、持たざる者が尊敬される。

何も所有しなければしないほど、本当は自由であるということが理解される。
力を振るわなければ振るわないほど、真にやさしいということが理解される。
弱者であることは、本当は愛の行為であることが理解される。
これまでの価値観が、すべて逆であったと理解される。

そういう時代が、もうすぐくるかもしれない。
繊細であるが故に、みんなからいじめられる。
繊細であるが故に、みんなの毒素を吸収してしまう。
それは、本当はみんなの役に立っていること。

繊細であることが、尊重される時代。
繊細過ぎて社会に適応できない人たちが、社会に迎えられる時代。
それには、繊細さが理解される必要がある。
真の女性性が理解される必要がある。

ヒーリングする時、癒す時、繊細さの理解がキーとなる。
繊細であるが故に病む。
繊細過ぎるために病む。
そこを理解し、硬くなってしまった部分をほぐす。

否定したり攻撃したりするのではなく、理解し、感謝し、尊敬する。
そういう対応をすると、病んだ部分は、ゆっくりとほぐれ始める。
切り取ったり、焼き切ったり、その部分を否定している限り、真の健康は遠い。
病気に感謝することだけが、病気を癒す道。

病気の器官というのは、ほとんど菩薩行。
身を犠牲にして体を守っている姿。
それに感謝せずに、何に感謝するというのだろうか。
ものの見方を180度ひっくり返す必要がある。

特に卵巣や子宮などは、女性性の極み。
身を犠牲にして全体を守っている姿。
繊細さというのは、愛とも言える。
何も言わず、黙って愛の行為を続けている。

『繊細さ 故に病んでる 部分には 感謝こそすれ 恨む訳なし』

これが日記を書き始めて2184日目の心境。

     

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神は救ってくれない
2011-03-25 Fri 02:52
                                       『クリアーな流れ』
クリアーな流れー22-sep_07_10_11
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日記『無色透明』 より、2011年3月23日 ”2271日目 - 神は救ってくれない”より転載


『神は救ってくれない』

庭で黄色いフリージアの花が咲いた。
ここに8年住んでいるが、フリージアの花を見たのは初めて。
もちろん、自分で植えた覚えはない。
以前からあったのだろうか・・・

原発は、なんとか落ち着きそうな気配。
しかし、放射能汚染は、予想を超えて拡大している。
野菜が食べられなくなり、牛乳が飲めなくなっている。
水も危なくなってきた。

セシウム137の半減期は、約30年間。
長期間、人体や農作物などに影響が出るのは間違いない。
この責任は、誰が取るのだろうか。
東電だろうか、それとも政府だろうか。

興味ある記事が出ていた。
政府の原子力安全委員会の班目(まだらめ)春樹委員長は、2007年2月の
中部電力浜岡原発運転差し止め訴訟の静岡地裁での証人尋問で、非常用
発電機や制御棒など重要機器が複数同時に機能喪失することまで想定して
いない理由を問われた。
その答は・・・

「割り切った考え。
すべてを考慮すると設計ができなくなる」
と述べていた。
これに対し、社民党の福島党首が、参院予算委員会で「割り切った結果が、
今回の事故につながった。」として謝罪を求めた。

「割り切り方が正しくなかったということも十分反省している。
(原発設計の)想定が悪かった。
想定について世界的に見直しがなされなければならない。
原子力を推進してきた者の一人として、個人的には謝罪する気持ちはある。」
と述べ、陳謝した。

しかし、陳謝して済む問題ではない。
もちろん、個人を責めても問題は解決しない。
しかし、「すべてを考慮すると設計ができなくなる」という発言は、ひどすぎる。
開いた口が塞がらない・・・

いったん事故が起きれば取り返しのつかない事態になることが予想されるのに、
それを想定しないとは・・・
科学者や技術者としての良識を疑う。
たぶん、最初に原発ありきだったのだろう。
安全を問う以前に、原発を造ることが決まっていたに違いない。

目先の利益を追求した結果が、今の現実。
物欲に溺れ、安全を軽視した証拠。
日本人のこれまでの生き方そのものを問い直す必要がある。
もちろん、原発を推進してきた人たちの責任は免れない。

人類は、過去にも我欲に走り大陸を沈没させたことがある。
それは、1万年前に大西洋に沈んだアトランティス文明。
物質文明に溺れ、私利私欲に走り、愛は言葉の上だけとなった。
その結果、大陸と共に多くの人命が失われた。

その時も、このままでは文明が崩壊すると叫ぶ者はいた。
しかし、彼らの声に耳を貸す人は少なかった。
大多数は、肉体に埋没し、物質文明を謳歌していた。
アトランティスは、一度に沈んだ訳ではない。

長い期間に何度も大地震が起き、大陸は島々に分断され、やがて海底に
沈んでいった。
その間、アトランティス大陸から逃げ出す人々もいた。
多くは、エジプトや南米に逃げたと言われている。
あのエジプト文明は、アトランティスの流れを汲んでいる。

このようなことは、アトランティス文明に限らない。
何度も何度も、人類は文明を滅ぼしている。
似たようなことを性懲りもなく繰り返している。
そして、今も似た状況にある。

今回は、絶対に失敗しない。
そのつもりで多くの人は生まれてきている。
しかし、少なくとも現時点までは、過去と同じペース。
このままでは、文明は崩壊する。

過去と違うパターンにするには、過去とは異なる何かが必要となる。
神に祈っても問題は解決しない。
それは、過去で実証済。
アトランティスでも多くの人が、神に祈りを捧げた。

しかし、神はアトランティスを救いはしなかった。
アトランティスに限らず、他の文明も海の藻屑と化してしまった。
神は、人を救わない。
なぜなら、我欲に耽る人類を救っても、何の意味もないから。

神の意に反する者たちは、滅びるしかない。
けっして神は救ってくれない。
では、神に祈って救いを求める者たちは?
善良な者たちも神は救わないのだろうか。

人類の種を残すという意味で、一部は救うかもしれない。
しかし、すべてを救うことはない。
ただ神に祈るだけの者に、何の価値があるだろうか。
神が求めているのは、そのような人々ではない。

神が真に欲しているのは、神の意を呈して生きる人。
神のように生きる人。
私利私欲に走らず、人々のために生きる人。
物欲に溺れず、高い精神性を保って生きる人。

この物質世界に溺れず、この物質世界を健全に建設する人。
自然と調和した社会を構築する人。
お互いに助け合い、手を取り合って生きようとする人々。
宇宙の叡智を活かし、霊的調和を物質次元でも実現しようとする人々。

そういう人たちが中心となって、調和された社会を建設することを神は
望んでいる。
そういう人たちが目覚めない限り、地球が救われることはない。
今必要なのは、祈ることではない。
神にお願いすることではない。

自分自身で立ち上がること。
神の子として、神のように生きること。
お互いに助け合って、共に生きること。
傍(はた)を楽にする働きをすること。

そういう人たちが、これからの社会を担っていく。
これまでの政治家や経営者ではない。
彼らは、過去の人。
物質主義、経済優先主義者。

その物質中心の考え方が、今日の危機的状況をつくり出している。
物質も大切。
しかし、物質的繁栄だけを求めれば、やがて地球が壊れてしまう。
物質と精神の調和。

霊性をベースとした文化。
深い精神性に基づいた文明。
そうでなければ、過去の文明の繰り返しになってしまう。
それでは、これまでの人類史の意味がない。

これまでのすべての人類史は、これからの新しい時代のために存在する。
すべてのことは、新しい時代を切り開くための経験。
真の人類文明を築くための試行錯誤。
未熟な人類の学習過程。

すべては、これからの新しい時代を切り開くためのもの。
そのための長い永い人類史。
それが、いよいよ大詰めを迎えようとしている。
原発による人類絶滅か、原発を越えた新しい文明の創設か。

どちらに転ぶかは、人々の意識しだい。
向かうべき方向は、はっきりしている。
問題は、それにどのくらいの人が気づくか。
目覚めるか・・・

過去は、問わない。
今、ここで目覚めること。
それのみが、唯一人類を救う。
これまでの自己中心的な生き方を改め、共に生きるスタンスにチェンジすること。

共に生きるとは、傍(はた)を楽にする生き方。
自分の個性を発揮することを通して、周りを幸せにする。
そういう生き方に転換すること。
そこからすべての行為が生まれ出ること。

いつまでも自己中心的に生きていれば、もう地球は保たない。
自分さえよければいいという浅はかな考えが、原発という鬼っ子を生み出した。
目先の欲に走ることは、国家百年の計を誤らせる。
もっと深くグランディングして生きることだろうか。

自分自身を花開かせる。
それを通して周りの人を幸せにする。
周りの人を幸せにすることによって、自分自身も幸せになる。
お互いを幸せにする文化が、本当の意味ですべての人を幸せにする。

そういう意識の転換が求められている。
その転換が起きない限り、人類の未来はない。
神は、人類を救ってはくれない。
自分自身で立ち上がるしかない。


『人類の 非常事態も 花々は 変わることなき 香りを放つ』

『物欲に 溺れた果ては 放射能 水も大地も 汚(けが)してしまった』

『祈っても 神は人類 救わない 祈ることより 意識転換』

『自己保存 自己中心を 傍(はた)楽に 転換すれば 光が見える』

『自分より 周りの人を 幸せに することこそが 真の幸せ』



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聖書
2011-01-30 Sun 00:10
                                   『木霊の森の水の流れ』
木霊の森の水の流れー26-jan_11
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『聖書』

現在の聖書にあるのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書だけ。
ところが、実際はたくさんの福音書があった。
しかし、それらはローマ・カトリック教会によって異端として退けられた。
イエスには十二使徒以外にもたくさんの弟子がおり、多くの弟子がイエス
の言行録を残した。
その一つが、ユダが残した”ユダの福音書”。

その存在自体は知られていたが、既に失われたものと思われていた。
それが1970年代にエジプトで発見され、買い手が見つからないまま
長い間金庫にしまわれていた。
最近になり、やっと専門家が5年の歳月をかけて解読したところ、意外
な事実が書かれていることがわかった。

イスカリオテのユダは、イエスをローマの手先に売った裏切り者として
知られている。
ところが、この福音書の中では、イエス本人の指示により救済を完結
させるために引き渡したことになっている。
これでは裏切り者とは、まったく逆の立場になる。
ユダはイエスの信頼の厚い忠実な僕(しもべ)であったことになる。
もしこれが事実とすれば、聖書を信じている人々は事実とは逆のことを
信じていることになる。

新訳聖書に書かれているのは、イエスの誕生前後と伝道の歩みだけ。
彼の幼少期や青少年期は書かれていない。
彼はバプテスマのヨハネと一緒に育てられ、インドやエジプトで修行した
らしい。
エジプトの大ピラミッドで最終イニシエーションを受けたと精神世界の
専門書にはある。

最近話題になっているのは、彼には子供がいたという説。
イエスはマグダラのマリアと特別な関係にあり、二人の間には子供が
生まれ、今もその子孫がイスラエルで生きているという。
ローマ・カトリック教会にとっては驚天動地の新説。
なぜなら、ローマ・カトリック教会では、マグダラのマリアは娼婦となっている。
神の一人子であるイエス・キリストが、こともあろうに娼婦と交わり、子供
までつくっていたとなると・・・
イエスに対する信仰そのものが崩壊しかねない。
そのうえ、マグダラのマリアとローマ・カトリック教会の初代教皇である
ペテロとは仲が悪く、いがみ合っていたとか。
それ故に、マグダラのマリアを娼婦に貶(おとし)めた・・・?

実際のところはわからないが、長年に渡って聖書が改編され、修正されて
きたのは事実のようだ。
現在の聖書が唯一絶対なわけではない。
多種多様な福音書があり、それを教会の権力者が自分達に都合のよい
ように改編したり排除したりしてきた。
支配と権力維持に都合のよいように作りかえられたものが今の聖書に他
ならない。
その聖書を何十億という人たちが信じている、この信じがたい現実。

聖書の実態を知らずに、ただ信じ込んでいる世界。
信じることによって、自らの安定を得たいと願う世界。
信じる対象が事実であるかどうかは問わない。
ただ自分が信じることによって救われればいいだけ。
信じる者は救われる?

今回の”ユダの福音書”のように、自分が信じたことと異なる現実が押し
寄せてくる。
その時にどうするか。
しばらくは動揺する。
誰かに相談もする。
そして、最終的には自分流に解釈して納得する。
これは神の試練であると。
信仰が試されていると。
それがこれまでの宗教のパターン。

聖書という固定したものによって、自分の心の安定を得ようとする。
固定しているものを信じることによって、揺れ動く心を安定させようと努める。
それが信仰=信じるということ。
しかし、現実は常に変化している。
2000年前の聖書が現実に適応できるとは限らない。
常に現実から揺さぶられる。
その度に解釈で急場を凌ぐ。
その繰り返し・・・

固定したものを信じても、心のやすらぎは得られない。
心は現実によって常に揺すぶられる。
その度に心は動揺する。
その心の動揺を鎮めるために、無理な解釈を重ねる。
その繰り返しで人生が終わる。

信じることによって、なんとか自分をキープしているだけ。
何かを信じなければ、自分を維持できないだけ。
移り変わる無常の世の中で、不動のものにすがりたい。
すがることによって心の安定を得たい。
信仰とは、弱い心の現れでしかない。
しかし、動機が不安定であれば、結果も不安定になる。
最初の一歩が最後の一歩。
結果は初めからわかっている。

何ものにも依存しない。
何も信じない。
ただ事実と共に生きる。
それができるだろうか。
それができないから、現実から逃避して何かにすがろうとする。
不動であり安定していると思えるものにすがって救われようとする。
不安定なままでいられない。
不安定から安定へ移行したい。
そのために何かにすがる。

しかし、安定していると思ったものは、過去のもの。
過去であるから安定しているだけ。
つまり、死んだもの。
死んでいるから動かないだけ。
信仰とは、死んだものを信じているだけ?

現実は刻々と動いている。
何も固定していない。
何の保証もない。
保証があるのは、信仰の世界だけ。
しかし、それは幻の保証。
ただの思い込み。

救われると思い込んでいるだけ。
それが信仰。
それ以外の何ものでもない。
事実ベースで生きれないから、何かにすがっているだけ。
祈り、寄付、奉仕・・・安定を得るためのギブ&テイク。

自分の足で立ち、自分の手で創り上げる。
しっかりと大地に根を張り、今のエネルギーを感じながら生きる。
何ものにも依存する必要はない。
何ものも信じる必要はない。

子供がずっと親に依存していたら、大人になることはできない。
親が死んでしまった時に、途方に暮れる。
自分の足で立つしかない。
試行錯誤しながら生きていくしかない。
それが人生。

何かに頼ったり、何かに依存したり、何かを信じたり・・・
それは自分の弱さを証明しているだけ。
聖書に限らず、紙に書かれたものに真理はない。
真理は生きている。
生きて今ここにある。
真理は固定していない。
いきいきと生きている。

それは信じることによっては実感できない。
信じること=思い込みを外さない限り、真理は体感できない。
信じることは、思いの世界。
思い込みワールドの中で、信じたり信じなかったりして動揺しているだけ。
思い込みワールドの中にいる限り、真理は遠い。
真理は、思い込みワールドの外にある。

信じたければ、信じてもいい。
それで救われると思うのなら、そうすればいい。
でも、それは単なる思い込み。
真実ではない。
ただ幻にすがっているだけ。
生きている真理は、人が書いた聖書の中にはない。
真理は今ここに生きてある。
          

      
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静かに聴き入る
2010-12-17 Fri 12:11
                                        『木霊の森の緑』
木霊の森の緑ーkodama-06_10
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『静かに聴き入る』         

自分の根底的な願いが明確ではない。
自分が真に望むものがわからない。
私には、私自身の願いすらわからない・・・

昨日の日記に対して、そういうコメントがあった。
それは多くの人の実感かもしれない。

自分自身の真の願いは何だろう?
今生はどんな願いを持って生まれてきたのだろう?

誰かに聞いてもわからない。
チャネリング情報に頼っても、それが本当かどうかわからない。
結局、わからない・・・

今、わからないならば、わからないままでいい。
無理にわかる必要はない。
わかろうと思って、すぐにわかるものでもない。

でも、「自分の真の願いは何だろう?」という疑問は、自分の中で持って
いた方がいい。
それを意識していると、意識していないでは、天と地ほどの差が生じる。
意識していない限り、何も気づくことはない。
まず意識することから、すべてが始まる。
疑問に思っていれば、やがてわかる時が来る。
真剣に求めれば求めるほど、それは早くなる。

絶えず自分自身に問うこと。
「本当は何をしたいの?」
「本当にしたいことは何なの?」

自分の気持ちを聴く。
静かに聴く。
ありのままの正直な気持ちを聴く。
どんな気持ちでもいい。
ありのままの素直な気持ちを聴く。

それは日替わりかもしれない。
気持ちは気分屋かもしれない。
それでも、静かに聴く。
ありのままの正直な気持ちを聴く。
それを気がついた時に、絶えず繰り返す。
そうする中で、徐々に自分の深い気持ちが表面に表れてくる。

良い悪いは一切ない。
ただありのままの気持ちと一緒にいる。
それが正直な自分。
ありのままの素の自分。

それでいいのだ。
ありのままの正直な自分が一番。
それが今の自分。
肩の力を抜いて、楽にありのままに生きればいい。
無理をしないで、見栄をはらないで、ありのままでいい。

絶えず自分の気持ちを聴く。
気づいたら聴く。
何かあったら聴く。
いつも自分の気持ちを聴く。
そうすると自分が落ち着く。
ありのままの自分でいられる。

良いも悪いもない。
優れているも劣っているもない。
正直にありのままの自分の気持ちを聴く。
それしかない。
それしか自分の深みにふれる方法はない。

人に聞いてもわからない。
結局、自分で納得しない限り何も変化は起きない。
自分自身に聴くことだ。
無理をしないで、お金をかけないで、ゆったりと聴けばいい。

自分の中にすべてはある。
すべてがあるのだから、ただそれを聴けばいいだけ。
何も難しいことはない。
ただ、そういうことをしたことがないだけ。
ただ、そういう習慣がないだけ。
だから、新しく始めればいいだけ。

ゆっくり自分自身と一緒にいる。
そして、自分自身の気持ちをよーく感じる。
別にそれを言葉にしなくてもいい。
ただ一緒にいればいい。
それだけでも気持ちは落ち着く。
気持ちが落ち着いたら、更に深い気持ちを感じてみる。
ふと、「何をしたいの?」と聞いてみてもいい。
そして、静かに自分の内に聴き入る。
自分と一緒にいる。

自分と一緒にいることが何よりもすばらしい。
ただ一緒にいる。
何の目的も何の意図もなく、ただ自分と一緒にいる。
自分の気持ちと一緒にいる。
自分の気持ちをよーく聴いてあげる。
何もしなくていい。
ただ自分と一緒にいて、自分の気持ちを感じていれば・・・

静かに、静かに自分と一緒にいる。
静かに、静かに自分自身に聴き入る。
            
           >>日記 無色透明 『268日目 - 静かに聴き入る』 より

      
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思考のコントロール
2010-10-14 Thu 20:21
                                     『苔の間を流れる水』
苔の間を流れる水ー24-oct_07_10
  写真をクリックすると、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
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『思考のコントロール』       

昨日、次のようなコメントが届いた。

「何もしない事が...それがどうしてもできない。
見極めているつもりでも実は『思考』が働いています。
瞑想していても『思考』しているようです。
いったいどうしたら『思考』をコントロールできるのでしょうね?」

思考をコントロールすることはできない。
なぜなら、コントロールしようとしているのも、また思考だから。
それでは思考の堂々巡りになってしまう。

思考のコントロールは諦めるしかないだろう。
思考が動いている間は、動いているままにしておくしかない。
もし、思考を無理に止めようとすれば、必ず反動が起きる。
無理に抑圧すれば、潜在意識の中に歪んだ形で蓄積される。
それはかえって意識のクリーン化を難しくしてしまう。
抑圧し続ければ、無気力になるか、気が狂うか・・・
いずれにしても、よいことはない。

思考は使うこと。
そして、マスターすること。
そして、囚われないこと。
抑圧しても、思考力が減退するだけ。
抑えない、けれども負けない、理解するだけ。
感情を扱うのと同じ原理原則。

自分の中に、たくさんのこだわりや囚われや執着がある間は、いろんな
反応が起きてくる。
思考が自動的に反応する。
まずは、それを認めるしかない。
常に事実と共に生きる。

出て来るものは、出してあげるしかない。
但し、出て来るままに翻弄され、自分を見失うことのないように。
見守りながら出していく。
それをやり続けていると、気がつかないうちに見守る意識が働くようになる。
無意識のうちに見守っている状態になる。

自宅に帰って、静かに今日の自分の反応を反芻(はんすう)する。
どうしてあのような反応が出てきたのか、もう一度冷静に振り返る。
自分の状態をフィードバックする。
客観的に見つめ直す。
そして、その原因を突き止める。

そういう作業を繰り返していく間に、見る意識が育っていく。
その作業中に思考が動いてもかまわない。
あれこれ考えて、気づく。
それでいい。
思考は道具。
使いこなせばいいだけ。

ポイントは、見つめながら思考を使うこと。
思考の独り歩きをさせないこと。
つまり、考え過ぎて自分を見失いそうだったら、見つめていないということ。
それは思考の空回り。
それでは永遠に思考から自由にはなれない。
見つめながら考える。
常に自分自身を見つめるという姿勢が必要になる。

瞑想中も思考が動く?
動く思考を見つめていればいい。
最初から無念無想になれるわけがない。
潜在意識に溜まっていた、いろんな思いが雲霞(うんか)の如く出て来る。
それが普通。
問題は、そういうものが出てきた時にどうするか。

出てきたものを一々払い除けようとしてもキリがない。
それではまったく瞑想にならない。
出てきたものに呑み込まれてしまっても、瞑想とは言えない。
それでは瞑想のつもりが迷走になっている。

出て来るものは、出て来るもの。
そのまま認めるしかない。
ただそれを眺めている。
見守っている。

見守る以外のことをすれば、それは思考が動いていることになる。
それでは瞑想にはならない。
動く思考を見守る。
その動きが止まろうが止まるまいが、見守る以外の方法はない。

呼吸法をやる?
マントラを唱える?
そういうテクニックもある。
それはそれなりの効果はある。
でも、所詮、テクニック。
テクニックなしでは瞑想できない、テクニック依存症をつくることになる。

心が落ち着く静かな音楽を使ったり、それなりの工夫をするのもいいかもしれない。
最初は自分がやりやすいようにアレンジするのもいいだろう。
でも、テクニックはテクニック。
それぞれの限界がある。
最後の最後は、いかなる方法もない。
ただ静かに見守る。
それしかない。

まずは、潜在意識に溜まっているものを解放する。
それには静かに見守ること。
思考が動けば、それを見守る。
思考に囚われず、ただ流すように見守ればいい。
要は、意識のポイントが思考にあるか、見守る方にあるかということ。
簡単には意識のポイントは移動しない。

日常生活は思考のポイントで生きている。
それが瞑想した途端、見守る方のポイントへ移行するはずがない。
意識は普段と同じように思考のポイントにある。
それを見守る。

パッと切り替わるものでもない。
自然と切り替わるとしか言いようがない。
いつのまにか自然に見守っているようになる。
いつのまにか自然に見守る意識が働くようになる。
それは瞑想中だけに限らず、日常生活の中でも働くようになる。

瞑想の時だけ瞑想していても仕方がない。
常住坐臥(ざが)瞑想状態というのが望ましい。
少なくともどんな状況であれ、見守る意識が常に働いているようになる必要がある。
そのような状態には一朝一夕にはなれない。
いつのまにか・・・なっている。

だから、焦らず、ゆっくりやればいい。
ゆっくり自分自身を見守り続ければいい。
そうすれば、徐々に見守る意識が育っていく。
やがて、いつのまにか思考も静まっている。

思考を鎮めようとしない。
思考を鎮めようとすれば、思考が思考を鎮めようとする泥沼にはまる。
ただ静かに見守る。
それが唯一の方法。
思考を使わない唯一のやり方。

そうやって見守っている間に、自然に意識のポイントが切り替わる。
思考から見守る意識の方へ移行する。
自然に移行する。
それが一番無理のない方法。

焦らない。
慌てない。
落ち着いて、ゆっくり見守ればいい。
絶えず自分自身を見守っている。
必死に頑張るのではなく、おおらかに、やさしく・・・

必死で頑張ろうとするのは、思考。
見守る意識は、ゆったり、おおらかにすべてを包み込んでいる。
すべてに浸透している。
だから、ゆったりと見守った方がいい。


『静まらぬ 思考をなんとか せんものと 思う心が 思考そのもの』

『何であれ 思考は思考 動くまま 少し離れて 静かに見ている』

『抑えない けれども負けない 感情や 思考をそのまま そっと見守る』

『おおらかに やさしく包み 見守って 出て来るものを 解き放つだけ』
               
            >>日記 無色透明 『477日目 - 思考のコントロール』 より

      
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別窓 | 木霊の森 | コメント:0
心配
2010-10-01 Fri 11:44
                                        『木霊の森の主』
木霊の森の主ー15-sep_10
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『心配』       

人の中には既にすべてのものが宿っている。
愛もすべての人の中に宿っている。
けれども、それが出てくる機会は限られる。
なぜか?
恐れが、それを阻(はば)んでいる。
愛を素直に表現する勇気がない。
そんな経験も少ない。
だから、素直に表せない。
でも、誰の中にもあるのは間違いない。

表現し始めれば、どんどん出やすくなる。
これまで目詰まりしていたものが外れ、スムーズに流れ出すようになる。
恐れも減り、躊躇も減る。
素直に出せば、何の問題もない。
ブロックしているものは、恐れ、つまり、取り越し苦労。
そんなことをしたら、どうなるだろう。
周りの人は何と思うだろう。
うまくいかなかったら、どうしよう。
誤解されても困るし・・・

心配し始めれば、心配の種は尽きない。
心配をやめることはできないのだろうか。
心配しても何の役にも立たないことはわかっている。
にもかかわらず、すぐ心配する。
それはパターン。
単なるパターン。
自分の中に刷り込まれているパターン。

一切心配しないでも生きていける。
むしろ心配などしない方が楽に生きていける。
にもかかわらず、性懲りもなく心配する。
そういうパターンにはまってしまっている。
心配に安住している。
心配の外に出ようとしない。

心配している方が安全にきまっている。
勇気を出して実行するより、心配して何もしない方が楽だ。
楽なパターンを選択しているだけ?
それによって、愛が自分から溢れるチャンスを逃している。

自分最優先では愛の栓は閉まってしまう。
保身第一では愛はほとばしれない。
保身第一で心配だけしていれば、何も問題は起きない?
亀さんスタイルで生きていれば、必要最小限の危険で済ませられる?
でも、それでは人生のダイナミズムは味わえない。
新しいことは何も体験できない。
それでは何のために生まれてきたのかわからない。
わざわざこの世に生まれてくる必要もない。

この世に生を持つということは、新しいチャレンジをするということ。
自分の中にある可能性を花開かせるということ。
愛や叡智やいのちを輝かせてみるということ。
それをしないのであれば、生きていても仕方がない。
様々な経験をし、学び、成長し、楽しむ。
この世とは、そのようなところ。

心配するために生まれてきたのではない。
でも、気づかないうちに心配している?
ハイ、気づいてください。
心配している自分に。
そして、スパッと心配をやめてください。
もし本当に心配が無意味だとわかったら。

ぜひ心配のない人生を体験してみてください。
心配はまったく必要ありません。
一切なくても何も問題はありません。
それでも心配?

不安や心配を手放すと、当然、楽に生きていける。
未来のいろいろな危険性はある。
それに対する準備をしたければしてもいい。
でも、心配からするのではない。
可能性を感じて、冷静に備える。
不安や心配は必要ない。

不安や心配があると、それが現実化してしまう。
感情はいらない。
事実としての可能性で準備すればいいだけ。
冷静に淡々と。

人類は長い永い間、不安や心配と共に生きてきた。
不安や心配と一緒に生きることが心地よかった?
不安や心配が現実化することによって、いろんなドラマを体験できた?
不安や心配があるからこそ、ハラハラドキドキのドラマが経験できた?
そういう意味では、人間ドラマにとって不安や心配はなくてはならないもの。
ハラハラドキドキをもっと続けたければ、不安や心配は必需品。
そんなに簡単に手放してはいけない。
大切にいつまでも持っていなくては・・・

この現象世界の混乱は、一人一人の心の中の混乱から生じている。
不安や心配が混乱を創り出しているとも言える。
不安や心配とは、恐れの代名詞。
人類は恐れと共に、これまで生きてきた。
その恐れが人類の悲惨な現実を創り出してきた。
そのことがわかったら、不安や心配を手放す?
手放すなんて・・・
不安で、心配で、とてもそんなことはできない?
それでは堂々巡りになってしまう。

不安も心配も恐れも、すべて思考が創り出すもの。
実体のあるものではない。
それは架空の幻。
思い込みによる幻想に過ぎない。
そういうものを手放しても、何も問題はない。

みんなが不安や心配や恐れを手放したら、世の中はどうなるだろうか。
今とはまったく異なる世の中になるのは間違いない。
不安も心配も恐れもない社会。
思っただけで心がやすらぐ。

都会に住んでいたら、とても安心できない?
都会に住んでいて安心できない人が、田舎に住んだら安心できるだろうか。
確かに都会の方が圧倒的に危険度は高い。
しかし、田舎にいても交通事故や病気の危険がないわけではない。
自然災害は都会よりも田舎の方が多い。
どこにいても不安や心配の種を見つけ出そうとすれば、いくらでも見つかる。
やはり本人しだいではないだろうか。

現実の危険があれば、対策を講じる。
不安や心配におののいている場合ではない。
しかるべき対応をする。
できるだけのことはする。
それしかできない。
それ以上はどうにもならない。

いや、一つだけそれ以上のことがある。
それは不安や心配や恐れを持たないこと。
これがあると危険度は遙かに高くなる。
これがないだけで危険度は格段に低くなる。
不安や心配や恐れがないところに、災厄をもたらすのは至難の業。
縁がなければ、結果はやって来れない。

たとえ災厄がやって来たとしても、それを災厄と捉えなければ災厄にはならない。
すべての現象を生かして使えば、何も問題はない。
結局、不安も心配も恐れも必要はないのだ。
起きてくることをそのまま受けとめ、それを生かして使う。
それさえ明確ならば何も恐れるものはない。

不安も心配も恐れもいらない。
今、今の事実と共にいればいい。
事実によけいなものをくっつけなければいいだけ。
どうして事実に不安や心配や恐れをくっつけてしまうのだろうか。
過去が甦るから?
たぶん、それ以外に答はないだろう。
なぜなら、正当な理由はどこにもないのだから。
ただ過去の経験からネガティブに連想しているだけ。
どこにも不安や心配や恐れの正当な理由はない。

過去の繰り返しをしているだけ。
今に生きていないだけ。
自分のパターンに縛られているだけ。
それに気がついていないだけ。
それ以上でも以下でもない。

そういう生き方をしたければ、無理に止めはしない。
しかし、そういう生き方をしている限り、心のやすらぎはない。
同時に混乱の世の中も終わることはない。
これまで通り悲苦の巷で生きるしかない。

不安も心配も恐れもいらない。
そういうものは何もいらない。
事実に何も付け加えないで、事実と共に生きる。
シンプルに生きる。
それで十分事足りる。

不安や心配や恐れと共に悲苦の人生を生きるか。
それらのものをすべて手放し、まったく別の人生を体験するか。
どちらでも選択可能。
時が来て、選択可能な時代となった。
はたして、あなたはどちらを選ぶのだろうか。
こちらは一切介入しない。
選ぶのはあなた。
あなたの人生だから。
自分で決める自分の人生。


『心配や 不安と共に 生きてきて ハラハラドキドキ 身をすり減らす』

『心配や 不安や恐れの 連想が それに見合った 現実創る』

『ありもせぬ 想い付けずに 淡々と 事実と共に シンプルに生きる』

『心配や 不安や恐れ ない時に 想ったことが そのまま叶う』

『心配も 不安もみんな 手放して 事実と共に そのまま生きる』
               
                   >>日記 無色透明 『440日目 - 心配』 より

      
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別窓 | 木霊の森 | コメント:3
欲望
2010-09-03 Fri 13:42
                                    『完璧な緑と白の世界』
完璧な緑と白の世界ー30-sep_07_10
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『欲望』     
  
最近は、思考のカラクリについて書いている。
今日は、欲望について書く。
欲望はどこからやってくるのだろう?
元をたどれば、これも自己保存の本能に行き着く。
食欲と性欲と安全欲。
それは動物の本能だ。
これがなければ種族を維持できない。
だから、本能自体は何も問題はない。

動物には本能はあるが、欲望はない。
では、欲望はどこから生じるのだろうか。
最近の悪役は、決まって思考。
ここでも思考の出番となる。

ベースは本能。
しかし、思考はそれをより確実に確保しようとする。
ストック、ストック、ストック・・・
欲望は限りない。
食料だけではない。
自らの安全を確保するために、軍隊を創設し、軍備を整える。
相手が軍備を増強すれば、こちらも負けてはいられない。
自分の安全がお金で確保できると思う人は、お金に走る。
いくら溜めても、完全に安心はできない。
いつ盗まれるかもしれないし、いつハイパーインフレになるかもしれない。
より安全を確かなものにするために、土地や貴金属も確保する。
しかし、財産が増えれば増えるほど、盗まれる危険性も増す。
安全を確保しようとすればするほど、心のやすらぎは遠くなる。
それだけではない。
病気になったら元も子もない。
健康のためにジムに通い、健康補助食品を大量に飲みまくる。
それでも、地震が来たらひとたまりもない。
地震にも負けない耐震構造の家を建てるしかない。
それでも、ミサイルが飛んできたら耐えられない。
庭にシェルターを掘るしかない。
しかし、毒ガスや細菌戦になったら・・・
心配や不安はキリがない。
安全対策を施せば施すほど、不安はいや増すばかり。

いくら万全の安全対策をしても、風邪さえ防げない。
新型のインフルエンザが大流行したら、一歩も外に出れなくなってしまう。
ハンバーグもアメリカ産牛肉は危険なので食べられない。
ヘタにセックスしようものなら、常にエイズの危険が付きまとう。
どこにも安全確実は見当たらない。
考えれば考えるほど、危険は増すばかり。

安全に対する欲望は果てしない。
しかし、その欲望そのものが、不安の原因となっている。
これではイタチごっこ?
いや、自分の尻尾を追いかけ回す犬だ。
安全を求めれば求めるほど、安全は遠ざかる。
安全を求めれば求めるほど、不安が増大する。

美味しいものをいくら食べても、一日に食べられる量は知れている。
ところが、食欲というのは限界がない。
美味しいものを求めて世界中から珍味を集める。
美味しい店を探して世界中を食べ歩く。

性欲も肉体的には限界がある。
連日連夜、何人もの人と交わり続けることは不可能だ。
にもかかわらず、性欲に限りはない。
魅力的な人を求める旅は終わらない。

食欲も性欲も肉体的には限界がある。
動物たちは本能の範囲内で生きている。
ところが、人間だけは、自分が食べられる範囲を越えて食糧を備蓄しようとする。
よそでは飢え死にしている人がいても、美食にふけり大量の残飯を出す。
世界中の魅力的な異性を独り占めにしようとする。
欲望は自己中心的だ。
自分さえよければいい。
自分の安全が確保されれば、他のことはどうでもいい。
それが極めて短絡的な思考であることには気づかない。
それがやがて身を滅ぼすことになろうとは、その時になるまで気づかない。

本能には限界がある。
しかし、欲望に限界はない。
それは本能が肉体に基づいているのに対して、欲望が思考に基づいているからだ。
思考に限界はない。
考えることに限りはない。

その欲望と欲望がぶつかり合い、戦いが起きる。
それは果てしない戦いとなる。
憎しみと恨みがぶつかり合う。
それは子々孫々にまで受け継がれる。
アラブとイスラエルの戦いは、いつ果てるとも知れない。

すべては思考がつくり出す罠。
思考は必要以上のものを確保しようとする。
足ることを知らない思考に限界はない。
そういう思考の性質を知って、どうするか。
思考任せにしていては、地球は危ない。
思考の思うままに翻弄されては、地球は破滅してしまう。

理性的に話し合う?
しかし、思考は疑り深い。
相手を信頼する術(すべ)を知らない。
何を信頼するのだろう?
人間性?
いかなる人間性?
これまでの歴史を振り返れば、裏切りと下克上の歴史以外の何ものでもない。
それではお互いを信頼することはできない。
アラブとイスラエルが、どうやってお互いを信頼するというのか。
それは憎しみと恨みの歴史そのものだ。
思考のレベルで信頼を見出すのは不可能に近い。

では、いかにして地上に平和をもたらすのか。
いかにして欲望の無制限の跳梁を抑えるのか。
感情に訴えても、一時的なものでしかない。
理性に訴えても、思考の猜疑心に邪魔される。
では、どうやって・・・

たぶん、思考を超えたものによって、としか言いようがない。
第四チャクラ、即ちハートによって、としか答えようがない。
ハートには、既に信頼関係がある。
ハートの中には、思考の猜疑心を超えた相互信頼が眠っている。
そのハートを呼び覚ます?
たぶん、それしかないだろう。
ハートが思考の上に立つ時、地球は平和になるだろう。
そうでない限り、地球の平和の可能性は見当たらない。

思考に翻弄されない。
思考の奴隷にならない。
思考をマスターする。
思考を自由に使いこなす主体となる。

欲望に振り回されない。
欲望の性質を見極める。
欲望は不安の裏返しでしかないことを見抜く。
欲望に心のやすらぎはないことを深く自覚する。

多くの人が、思考ではなくハートをベースにして生きる時、地球の新しい時代が
やってくるだろう。
それまでは欲望をベースとした争いは収まらないだろう。
思考に中心がある限り、本能と自己同一化した欲望の拡大は避けられない。
ただハートに中心が移った時にだけ、相互信頼をベースとした社会が成り立つ
可能性がある。

思考を見守り、思考を理解し、思考を超える。
ハートにベースを置き、ハートで生きる。
ハートの時代の到来だけが、新しい平和の地球を切り開く。

『時満ちて 多くのハートが 開く時 地球の平和 自(おの)ずからなる』

『人類の 永き争い 終わらせる ハートの時代 目の前に見ゆ』

『自(みずか)らの ベースをハートに 置き換えて 地球の平和 共に開かん』
               
                     >>日記 無色透明 『387日目 - 欲望』 より

      
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恐怖
2010-08-27 Fri 13:12
                                           『白い流れ』
白い流れー27-oct_07_10
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『恐怖』     
  
自己保存の本能である恐怖については、何も問題はない。
では、何が問題をつくり出すのだろうか。
その犯人は、思考だ。
思考が過去の恐怖体験を基に、未来の恐怖を必要以上に煽(あお)り立てる。
それが自由な行動を制限する。

過去の恐怖体験は貴重な財産だ。
それは自分の身を守るのに役に立つ。
実際、動物はそのようにして生きている。
ところが、人間は?
人間は恐怖体験を生かしきれていない。
むしろ、恐怖体験に縛られて生きている。

未来の恐怖を考えすぎるあまり、身動きがとれなくなっている場合が多い。
それでは、何のための恐怖体験だったのかわからなくなってしまう。
経験は生かすためにある。
自分を縛るためにあるのではない。

失恋を経験する。
そうすると、新しい恋に慎重になる。
それはいい。
同じ過ちを繰り返していたのでは何の進歩もない。
学習したことは生かして使えばいいだけだ。
しかし、失恋の恐怖のために新しい恋ができなくなっては本末転倒だ。
慎重であるのはいい。
しかし、慎重すぎては新しいことは何もできない。

過去の恐怖体験は、黄信号。
しかし、赤信号ではない。
注意して進めではあっても、けっしてストップではない。
それは失恋に限らない。
事業の失敗。
受験の失敗。
結婚の失敗。
就職の失敗。
数え上げればきりがない。
ありとあらゆる失敗は、同じ過ちを繰り返すなという注意信号。
その経験から学び、それを生かして使えばいいだけだ。

ところが、あまりにも失敗を恐れると、それがいつの間にか赤信号に
変わってしまう。
新しいことに何もチャレンジできなくなる。
世間を狭くし、自分の中に閉じ籠もるようになる。
経験を生かすのではなくて、経験に縛られるようになる。

恐怖は生かして使うものだ。
せっかく備わっている自己保存の本能だ。
それを適切に活用することなのだ。
必要以上に思考で恐怖を増幅しない。
過去の経験は記憶の片隅に置いておいて、今にチャレンジする。

過去の経験は生かす。
しかし、過去の経験に支配はさせない。
そこのところを肝に銘じて自覚する必要がある。
思考がつくり出す恐怖から自由になる必要があるのだ。
本能が感じる恐怖は実在のものだ。
しかし、思考がつくり出す恐怖は幻だ。

事実と共に生きる。
本能的な恐怖は尊重する。
しかし、思考がつくり出す幻の恐怖には支配されない。
過去の恐怖体験を、けっして赤信号にはしない。
黄信号として、注意して進む。

人は死を恐れる。
まだ死んだことがないのに恐れるのはヘンな話だ。
まだ自分は未経験なのに、なぜ死を恐れるのだろうか。
それは身の回りの人の死から、思考が自分の死を類推するから
だろうか。
死にそうな目に遭うことはある。
しかし、死んではいない。
死に直面した時に本能的な恐怖はある。
それは何も問題はない。
しかし、まったく死の危険性がないのに死を恐れる必要はない。
それは思考がつくり出す罠だ。

人はいつかは死ぬ。
しかし、死ぬまでは生きている。
今を生きればいい。
先のことを思い煩う必要はない。
それは思考の空回りだ。
今を注意深く生きればいいのだ。

未来のあらゆる可能性を冷静に検討するのはいい。
しかし、それはあくまで可能性に過ぎない。
考えすぎて恐怖に支配されないことだ。
未来は自分でクリエイトすればいい。
過去の恐怖に支配されないで、自由に思い描けばいい。
そうすれば、それが未来からやって来る。
もういつまでも恐怖に支配されている時代ではない。
思考がつくり出す恐怖のカラクリに気づく時。
思考がつくり出す恐怖から自由になる時なのだ。

注意して進めば、何も恐れることはない。
思考がつくり出す恐怖の幻想に支配されない。
事実と共に生きる。
思考に幻惑されないで、しっかりとグランディングして進む。

注意深さが、あらゆる幻想を吹き払う。
思考に支配されない。
思考を使いこなす。
しっかりと主体性を持ち、注意深く生きる。

『完全に 自由になれる 恐怖から 思考に負けず 注意すること』

『幻想の 恐怖にいつも 支配され 自由に生きる 道を忘れる』

『本能の 恐怖を超えて つくり出す 思考の罠に 気づくしかない』

『目の前の 事実かどうか もう一度 恐怖を見つめ 確かめてみる』

               
                  >>日記 無色透明 『386日目 - 続・恐怖』 より

      
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別窓 | 木霊の森 | コメント:4
怒り
2010-08-22 Sun 10:31
                                        『霧の木霊の森』
霧の木霊の森ー23-july_10
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『怒り』     
  
怒りに対して怒りで応じれば、火に油を注ぐようなもの。
相手が怒ると、ついこちらもつられて反応してしまう。
ほとんどオートマチックに怒りで反応しようとする。
あるいは、恐怖で反応する人もいる。
はたまた、始めに恐怖が、次に怒りが出てくる人もいる。
プラスかマイナスか形は違っても、自動的に反応することに違いはない。

こちらが怒りで返せば、相手は更なる怒りで返してくる。
こちらが恐怖で反応すれば、相手は更に嵩(かさ)にかかってくる。
相手の怒りに対して、こちらはどのように対応したらいいのだろうか。

まず、冷静に聞く。
相手がどうして怒っているのか。
相手をわかろうとするスタンスが、相手の怒りを静める。
いずれにしても、相手につられて感情的に反応しないこと。
つまり、普段の自分を見失わないこと。
冷静に、静かに対応すること。

相手が怒ると、普通は身構える。
相手が自分を攻撃していると思い、自動的に自分を守ろうとする。
それは自己保存の本能に近い。
それはそれでいい。
しかし、それだけでは足りない。
身を守るために反撃することも、身を守るために頑(かたく)なになることも、
適切な対応とは言い難い。
静かに状況を見守る。
静かに相手の気持ちをわかろうとする。
自分の心が動揺しないことが何よりも肝要。

心が動揺していては、何をやっても的外れになる。
自分で墓穴を掘るか、相手の怒りを増幅させる結果に終わる。
まず心を静める。
そして、何が起こっているのか状況を見極める。
冷静であれば、対応のしようもある。
心が動揺していては、的確に動くことはできない。

表面の心は動揺し、自動的に反応しようとする。
しかし、それに負けない。
ぐっと踏ん張って、表面の心を見守る。
怒りに怒りで対応しようとしていないか。
怒りに恐怖で対応しようとしていないか。
怒りに、ひたすら身を守るためだけに反応しようとしていないか。
保身のために自動的に自己弁護しようとしていないか。
よーく見極める。
自動的に反応しないで、よーく自身を見守る。
そして、冷静になってから対応する。
それでも遅くはない。

怒りとは、元々、自己保存の本能に源を持つものではないだろうか。
自分の身が危なくなりそうな時、人は怒るのではないだろうか。
自分が気に入らない時や自分が無視された時にも怒る。
それらも元をたどれば、自身の立場が危なくなることに起因する。
自分の身を守ろうとするところから、怒りが沸く。
自分の立場が危ないと思い込むところから、怒りは起きる。
大切なことは、相手の安全を脅かすつもりはないことを伝えることでは
ないだろうか。
相手の立場を極力尊重することを知らせれば、怒りは収まる。
安全が確保されれば、怒る理由はない。

まず相手の気持ちをわかろうと努める。
そして、相手の気持ちがわかったら、相手の安全を保証する。
相手の気持ちがわかるまでは、静かにしている。
けっして慌てない。
落ち着いて静かに対応すれば、事態は変わる。
怒りに対して動揺した状態で反応しても、エネルギー状態は変わらない。
それでは怒りの連鎖反応が起きるだけ。
場のエネルギーを転換する必要がある。
それには静かさがいる。
自分自身が静かでない限り、場の転換はできない。

怒りという火を鎮めてしまうほどの静かさが必要なのだ。
自分の静かさで相手の怒りの火を消す。
そのくらいの心の深さがあれば言うことはない。
相手をわかろうとする深い心。
自分をわかろうとする深い心。
その心の深さが怒りを鎮める。

表面の波立つ心で生きるのか、それとも深い心で生きるのか。
どちらでも可能。
だが、結果はおのずと異なる。
表面の心で生きることは、都会の喧噪の中で生きるようなものだろうか。
深い心で生きることは、静かな森の中で生きるようなものだろうか。
騒音と喧噪の中で生きたいのか。
静かな自然の中で生きたいのか。
人それぞれの人生。

深く、深く生きる時、その静けさは周りにも影響を与える。
周りの人たちも、いつの間にか深く生きるようになる。
自分自身のエネルギーが周りの環境を創り出す。
環境のせいにして生きるのも人生。
環境を変化させて生きるのも人生。
どちらも、この地球での人生。

怒りは自己保存から生まれる。
怒りに対する怒りも自己保存から生まれる。
自己保存と自己保存がぶつかり合う。
それでは動物と変わらない。
思考が介在する分、厄介になる。

怒りに怒りで反応しない。
自己保存に自己保存で反応しない。
怒りを包み込み、自己保存を包み込む。
それだけが怒りを鎮める。
静かに見守り、ゆっくりと対応する。
怒りと同じ次元の意識で対応しない。
深い意識だけが包み込むことができる。
すべてを包み込み、見守る。
そういう意識だけが、怒りを鎮められる。

『静かさに 怒りも消えて 表面の 波立つ心 深く静まる』
               
                  >>日記 無色透明 『383日目 - 怒り』 より

      
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執着
2010-08-15 Sun 19:59
                                    『木霊の森の木霊たち』
木霊の森の木霊たちーkodama-02_10
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『執着』     
  
昨日、屋久島の知り合いが訪ねてきた。
「年賀メールをもらったけど、アセンションて何?」と聞かれた。
少しアセンションの話をする。
しかし、話をするまでもなかった。

彼女は、できるだけ物を手放すようにしているとのこと。
物がない方がスッキリして、気分がいいらしい。
物には執着しない人だった。

そうであれば、アセンションするのは間違いないだろうと話す。
物に対する執着がなければ、軽い。
何ものにも執着しなければ、アセンションするしかない。
地球の波動が上がるにつれて、自然に自分の波動も上がっていく。
殊更(ことさら)に何かをしなくても、無理なくアセンションできる。
執着がなければ、何も問題はない。
あらゆることに執着しないこと。
もちろん、アセンションにも。

執着とは、固定。
本来無常のものを固定させることが執着。
元々無理があるのだ。
だから苦しくなる。
現実と自分の望むこととの間にギャップが生じる。
執着すればするほど、自分が苦しくなる。
自業自得としか言いようがない。
自業とは、執着すること。
自得とは、その結果自分が苦しむこと。
まさにカルマそのもの。
自業の業とは、カルマという意味。
自ら播いた種を自分で刈り取っているだけ。
作用と反作用。

自由に動いているものを止めてしまうことが執着。
自然な動きを縛ることが執着。
縛ってしまえば不自由になる。
縛ったつもりが自分が縛られている。
執着とは不自由と同義語であり、自由の反対語である。

何ものにも執着しなければ、淡々と生きていける。
楽なものだ。
事実を事実として見て、その事実と共に生きる。
何も問題はない。
アセンションしても、しなくても、何も問題はない。
日々、軽やかに生きていけばいいだけ。
何をやるのも自由。
何をやらないのも自由。
自分で決められる。

何もかも決まっていて自分では何も決められないと思っている人は、幸せとは言えない。
どこにも自由がない。
何もない空間には、何の束縛もない。
カルマ?
そんなものがどこにあるの?
あったら見せてほしい。
それはある次元にある。
作用と反作用として存在している。
しかし、それがどうしたの?
特段恐れることもない。
自分が播いた種は、自分が刈り取ればいいだけ。
嬉しい芽が出る時もあれば、嬉しくない芽が出る時もある。
それぞれを楽しめばいい。
嬉しくない芽でさえ、嬉しくないと思わなければ、別にどうということもない。
単なる事実と思えば、それで済んでしまう。
嬉しくないと受け止めるパターンを改めればいいだけ。
どんな事態が起きても、冷静に対応していれば、そんなに動揺しないようになっていく。
まあ、一呼吸置いて、落ち着いてやればいい。

物にも地位や名誉にも、プライドや自分自身にも執着しない。
執着している自分にも、執着しない。
執着している自分に気づいても、自分を責めない。
自分を批判したり非難したりしない。
自分を批判したり非難したりすること自体が、既に自分に執着している証拠。
執着している自分に気づいたら、ただその執着を手放す。
ただ握り締めている指を離せばいいだけ。
離せば自然に落ちていく。
意識的に放下するまでもない。
手離せばいいだけ。

何もない無色透明の空間は、自由。
束縛するものは何もない。
執着するものがないから。
執着するが故に不自由になる。
何も執着しなければ、自由は元々そこにある。
執着が人を不自由にする。

何も持たないから、何でもできる。
何かに囚われると、その途端に不自由になる。
肉体や記憶やカルマや、様々な制約はある。
それらも、そのまま認める。
それでも人は自由。
何も束縛するものはない。
ただ肉体があり、記憶があり、カルマがあるだけ。
それらのものに囚われることはない。
ただ事実を事実として認めれば、人は自由に生きられる。

執着がない方が楽に生きられる。
でも、執着しないことに執着したら、元も子もない。
執着があったら、それをそのまま認める。
まだ持っていたかったら、持っていてもいい。
手放したかったら、手放せばいい。
どちらでもいい。
それが自由だ。

何もない絶対自由の空間がある。
そこには自由というもの自体が存在しない。
自由以外にはない空間では、自由はないに等しい。
その絶対自由の空間から相対自由が生まれる。
選択肢が発生する。
執着する自由と、しない自由。
いったん執着しまくって、それから解放されて徐々に自由になる。
比較による自由は、相対的な自由。
絶対的な自由は、自由という言葉さえ存在しない次元。
その絶対的な自由の中にいて、相対的な自由の世界を生きる。
空の中にあって、色の世界を生きる。
自由も不自由もまたよし、という世界を生きる。

『執着を してもいいよと 認めれば 半分ぐらいは 執着も消える』

『執着を 見守りおれば 執着の 心もゆるみ 消えてゆくのみ』

『絶対の 境地に立てば 相対は 海の波間に 浮かぶ白波』

               
                  >>日記 無色透明 『367日目 - 執着』 より

      
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先祖供養 - 3
2010-08-06 Fri 17:29
                                     『木霊の森の一番奥』
木霊の森の一番奥ー20-july_10
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   「先祖供養」のテーマで連載をお送りしています。
   ホームワークの続きです。  



『先祖供養 - 3』     
  
次は、せきせきさんですね。

「私はこの2年ご先祖の供養を主に行ってきた。
病気も治らず、対応できない出来事がエンドレスに続き、お手上げの末に出てきた、
自然な流れであった。

供養する前から、先祖が後から後から私の体を借りて話しだした。
祖父、親戚の叔父、遠い遠い時代の先祖など、とても苦しんでいる様子であった。
やりたいことがあった人、心を残して他の人に思いを伝えたい人、先祖の痛み苦
しみそのものが私の肉体を痛めていたものもあった。

私の家は、誰の命日も知らない家であった。
死んだ人はそれまでという考えだった。
この2年私は供養の日々。
先祖とともにいた。
墓参りは行けないが命日手帳なるものも作った。

先祖は私に沢山のことを教えてくれた。
先祖供養は見えないもの、繋がっていることを知り、自分が生かされている
すばらしさを一番わかりやすく感じるから、ご先祖供養は素敵な習慣であると思う。
供養を望んでいるご先祖も沢山いるのも事実だと思う。
でも、私が先祖の苦しみを受けてしまったというより、私が、苦しみの中で生きて
いたので、先祖の苦しみに同調し余計引き出しててしまったのかなとも思う。

先祖の苦しみは私の苦しみであった。
今の私の中にあった。

Kimiさんの日記を読ませていただいてから思ったこと、
それは「私は私で全てである」のではないかなあ?ということ。
先祖も過去世も今の私に繋がっている、そのために今の私が大きく左右される
ことはある。
でも、私が私を大事にして、素直にこの魂とこの世界とこの宇宙と生きていけたら、
(これがまた慣れてなくて大変なことなのだけれど)それは、先祖供養が目じゃない
位ものすごくパワーなんじゃないか?
それを望んで人は生まれてきたのだったら先祖も大喜び?
私の魂も大喜び?
何もかも大喜び?
かもと思っているところです。
私の中に先祖も過去世も全てあるからこそ、今の私ができることなのかもです。
でもこれからも、ご先祖様を思う気持ちは、形としてあらわして大切に続けていく
つもりです。
わぁお、初ホームワーク参加!
今年の〆は素敵だ(一人酔い)

先祖供養のことを考えながら、今日一日を過ごして、ひとつ思ったことは、
先祖供養という枠が私にとって、とても窮屈に感じていたということ。
もちろん、先祖を邪険に思うとかじゃなくって、自分だけいいやってものじゃなくって、
うまくいえないけど、狭い世界と感じました。
自由ではないという感じです。
うーーん、もう私にとって必要ないってことなのだろうか。。。」


2年間、先祖供養をしてきたんだね。
あまり先祖を大切にする家系ではなかったんだね。
それは良いことをしたね。
もう充分かもしれないね。
もう次のステップへ行く時かもしれない。
既にせきせきさんも自分で気づいているように、先祖供養という狭い範疇ではなくて、
もっと広い、もっと大きな世界へ出ていく時なんだね。

これまでは自分の中のネガティブなものと同調してきた。
それらをじっくり体験してきた。
でも、もうそろそろ光の世界へ行く時かな。
もっと次元の違うレベルで先祖供養をする段階かもね。

自分の中にすべてがある。
光も影も。
先祖も子孫も。
争いも平和も。
すべてのすべてが自分の中にあるんだね。
それを自分の中で実感する。
それがすべてを癒す。
すべてを光にする。
いわゆる先祖供養とは、まったく次元が異なるんだね。
それがこれからの生き方なんだね。
新しい時代の先祖供養。
光と共に生きることが本当の先祖供養なんだね。
自分自身が光になることが真の先祖供養なんだね。
自分自身の真実を生きてください。


次は、えりさんですね。

「こんにちは。
初参加よろしくおねがいします☆
先祖供養を辞書で引いてみたら、
死者の冥福を祈って法会を営むこと。
また、開眼供養、経供養など寺院の仏教行事をもいう。
とありました。
死んでも魂は今までの続きをやっていると私は勝手に思っているので、法事とかは、
この日はこの場で一緒に遊びましょ♪って感じでお坊さんに先導されて一緒にお経を
歌ったりする日だ!
とか勝手に思っています。

水子供養は、悲しかったり、辛かったり、罪の意識がでたりするんですけど、縁がなか
ったということで、終わったことはしょうがないじゃん!っていうのはどうでしょうか?」


初めまして。
これからよろしくね。
お経って、歌うものなの?
お経というのは、お釈迦様が説いたことを書いたものだよね。
それは唱えるものではなくて、実践するものだよね。
お釈迦様がお経の中で述べていることを理解し、そのように生きること。
それが一番大切なことだよね。
お経をあげるだけという仏教は、既に形式仏教になってしまっているのですね。
法事であれば、先祖に感謝し、迷える霊に愛と光を送ることだよね。
そうすれば、すべてが光に満たされていく。

水子に関しては、
ごめんなさいという気持ちと、光になってほしいという気持ちかな。
でも、一番癒される必要があるのは、水子ではなくて、その母親の方かもね。
母親が自ら癒されるために水子供養をする場合も多いのではないかな。
二度と水子を出さないように心に決め、愛の中で身籠もることを祈るのかな。
愛の中で生きることだよね。
それがすべての癒しに通じるんだね。


最後は、アリスさんですね。

「先祖供養って
今、ここに私が生きていることに感謝することだと思います。」


そのとおりだね。
先祖によって、今の自分がある。
それを思えば、自然に感謝になるよね。
基本的にはそれでいいのではないかな。


久しぶりにホームワークをやって、みなさんいかがでしたか。
なかなか楽しかったですね。
               
                
      
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先祖供養 - 2
2010-08-03 Tue 20:44
                                           『緑の世界』
緑の世界ー19-july_10
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   「先祖供養」のテーマで連載をお送りしています。
   このテーマでホームワークを行いました。
   みなさんのワークも興味深いですし、それに対するkimiさんの回答がとても
   参考になると思いますので、アップします。
   一緒にワークするつもりで読んでみてください。 



『先祖供養 - 2』     
  
ホームワークについて検討してみましょう。

質問は次のようなものでした。

「屋久島のお墓は、お花がとてもきれいだとありました。
屋久島の方々は、御先祖を大切にされているんですね。
御先祖様の供養というのは、どう考えればよいのでしょうか。
供養と感謝は、やはり意味が違うのでしょうか。
ある人に、家系図をきちんと作って、祀りもれている人がいないかをみて、
水子霊などがあれば、お祀りした方がよいと勧められたのですが、なんとなく
一歩踏み出せないでいます。
どのように考えたらよいか、よろしければご指導いただけましたら幸いです。」

先祖供養というのは、どういうことだろうか。
別に答を期待しているわけではない。
一緒に検討してほしいのだ。
改めて見つめ直してもらいたいのだ。
わからなければ、わからないでもいい。
感想でも、自分の考えでもいい。
特に正解というものはないだろう。
但し、一度はきちんと自分の中で整理しておいた方がよいテーマだ。
誰もが直面する問題でもある。
そういう意味で、ホームワークということにしてみた。


たくさんの回答、ありがとうございました。
では、具体的に一人一人の回答を検討していきましょう。

まず、えっちゃんから。

「今、勤め先で私の当番の日だけ、仏壇のお花とお茶を変えて、お線香たてを
キレイにする。
他人の仏壇だけど、皆さんの無事を祈って手を合わせる。
いいもんだなあって気がする。

仏壇はなかったけど、子供の頃は、毎年お墓参りをしていた。
父の山深い田舎に行くのは楽しかったし、家族や親族が集うのも楽しかった。
私は特に年の離れた末っ子で、先祖は実は、両祖父、両祖母とも知らないし、
親類の誰がどうなってるのかよくわからない。
けれど、時々こうして親族が集まる口実としては、お墓参りはいいもんだなって
思ってました。
そうでもないと、親類なんて会うこともないから。

けれど、最近読んだ「いのちのまつり」という絵本で、先祖を想う事もいいことだ
なって気付いた。
この場合、先祖といっても誰々と指名できるものではなく、自分が生まれてくる
ために膨大な数の先祖が存在して、まったく奇跡としか言いようがないような確率
で、私が生まれた・・・という感謝を込めての先祖を想うということです。

屋久島のお年寄りは毎朝お墓参りをします。
私の下宿先だったところのおばあちゃんは、未だ暗いうちから起きてお墓の手入れ
をしに行くのです。
そうすることでおばあちゃんは、亡くなられたご主人をいつも傍に感じていられたんだ
と思います。
こういう素朴な生活のリズムは、いつも自分をニュートラルに戻して、そして一日を
始動するという意味では、いいもんだなあって思います。
それが先祖の墓参りでも、神社へ参拝することでも。

だから私は、きちんと祭らないと霊が浮かばれないとか、祟りがあるとかは思わない
けれど、先祖を想う事はいいことだと思います。
自分の存在を感謝する事であり、近しい先祖(私の場合父や母、兄達)を想う事は、
私にとっての彼らの存在を感謝する事になると思えるから。 」


子供の頃、親類がみんな集まるのは、なんとなく嬉しいことでしたね。
従兄弟たちと遊ぶのは楽しかった。
えっちゃんの場合は、仏壇に手を合わせる時に、勤め先の先祖だけでなく、自分の
先祖や、すべての人の先祖に対しても感謝の気持ちを伝えるといいかもね。
せっかく仕事で仏壇の前に座るのですから、それをお薦めします。
ただ「ありがとうございます」だけでいいですから。


次はやちよちゃんですね。

「私は『先祖供養』とは一番縁遠い生活を送っているかな...
幼い頃、父の転勤で北海道から現在の県に引越した。
その後の親戚付き合いはすべて親まかせで、私は...誰が誰の子供なのかさえ
把握できていない。
葬式で2、3度北海道へ行ったが、ご先祖の墓参りはしていない。
具体的な場所もわからない。

昔々若い頃、ハンコ売場の姓名判断で『色情因縁』があると言われた。
(なんですとぉ~?!と思ったっけ)
結婚できないのはその祟り?
先祖の墓参りもしていないし?

実は、今はほとんど気にしていない。
ご先祖を敬う気持ちが日常にあれば、それでいいのではないかと。
ご先祖だけではない、全ての魂。ひとつの魂。
今ここに在ることに感謝。
だめかな?
わたしもイロイロな意見が聞きたいです。」


先祖の墓の場所も知らない?
それは珍しい人だね。
別に墓の場所はどうでもいいけど、感謝と愛のエネルギーは、時には送った方が
いいかもね。
例えばお盆の時期とかに。
今ここに自分があることに感謝し、周りの人に感謝し、先祖に感謝する。
常にそれができていれば何も問題ないね。


次は、ぴあのさんですね。

「生まれた時から 信心深い そして先祖は大切に大切にお祭りしなければならない
という祖母のもとで育てられた私の向こうには いつも”先祖”の存在がありました。

よく、梅の咲く時期に法事が行われていました。
幼い私は、梅の木のそばで、梅の香りに包まれ浄土三部経を聞いていました。
その時の私は、本当に 幼いながらも お経の波動が心地よく 梅の花と香りの
相乗効果もあってか 心地良い至福とともに ”心はお浄土” を体験していました。

お仏壇に手を合わせ 亡き父や母、かわいがってくれた祖父や祖母、そして 私の
知らない多くのご先祖様に思いを馳せるとき、今ここにいる私を再認識し、ただ、
ありがとうございます と心からの感謝の念が湧き上がってまいります。
そして、心が静まってまいります。

ただ、何かうまくいかないことがあると ご先祖さまに浮かばれていない人がいるからでは 
または、お墓が悪いのでは etc. 
巷でまことしやかのように言われていることには疑問を感じます。
そのような世界のことは 実際私に見えるものではありませんので それはないでしょう 
とも言い切ることができませんが、何か腑に落ちないものを感じ 違うようにも思います。

『一人出家すれば九族天に生まる』 という言葉があります。
文字通り、私が出家すれば という意味ではなく、私はこの言葉を 私が 今、ここに魂の
代表選手として生まれてきたことを心から受け止め、真理を求め、愛と光を感受し、自分
が内奥から真の光に包まれ輝くことで 私に繋がるご先祖様にもその光が届くのでは・・・ 
計り知れない影響があるのでは・・・ と 思っています。

これは、私個人とご先祖を分離するものではなく、すべては ひとつ と 繋がっている
からです。
そして、時間の軸を 今、過去 と見るのではなく、時間を外したひとつの宇宙での繋がり 
と見るからです。
そして、それは、三次元的な血のつながりだけではなく 森羅万象へも必ず影響がある
ものであると思います。」


『一人出家すれば九族天に生まる』ということの真の意味は、単に一族から一人お坊さん
が出ればいいということではなくて、ぴあのさんが書いているように、真に悟る必要がある
のだね。
一人の悟りは、まさに九族を救うんだね。
九族というのは、九世代ということでしょう。
膨大な数の人々です。
実際は、先祖だけでなく同時代の人も救うし、子孫にまで影響があるでしょう。
一人の人が悟るということは、それほど偉大なことなのですね。

自分自身が真に宇宙とひとつであることを体現する。
それが万民を救います。
その光によって縁のある無数の人が救われるのですね。
そういう意味では、一番の先祖供養は自分自身が光り輝くことだということになりますね。
ぴあのさん、大正解かな。


次は、たろうくんですね。

「私は、一つの宗教を信仰している両親の元に生まれ、仏教の家庭で育ちましたので、
嫁ぐまでは、毎日仏壇に手を合わせお経を読んで、その宗教のやり方で先祖供養を
してきました。

今は、私自身の中で祈る気持ちを持ち続けていれば、一つの宗教に囚われなくても
いいと感じたので、両親と同じ宗教を歩むことは離れました。

主人の両親は亡くなり、長男ということで両親の信仰していたお仏壇は我が家へ置いて
います。
お骨もお墓に入れないで、そのまま自宅に置いています。
それに関しては、たくさんの意見もありますが、私たちもその時がくればお墓に入れて
あげたいという気持ちもあります。
今は、いつも側で私たちと共に過ごすことが、私たちの自然の流れです。

ご先祖様の命のバトンが引き継がれ、今の私がいます。
今ここに生きることを感謝して、自分のバトンを命いっぱい生きることが先祖供養と
思って、感謝の気持ちを持ち続けています。」


宗教や宗派にこだわることはないよね。
真心からの感謝かな。
日々、今あることに感謝だね。
その気持ちは先祖にも伝わるし、子孫を守ってあげることにもつながるでしょう。
お骨は早く自然の中に返せるといいね。
地球からいただいたものは、地球へ返す。
先祖の愛に対しては、愛の感謝で返すということだよね。


* 先祖供養[3]に続きます。
               
                
      
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フォーカス
2010-05-30 Sun 11:48
                                       『クリアーな流れ』
クリアーな流れー22-sep_07_10
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『フォーカス』     

どこに意識の中心を置くかによって、人生は大きく変わってくる。
人は自分が意識の中心を置いた視点で人生を体験することになる。
だから、自分が見ている現実は、まさに自分が見ているのである。
他の人は他の現実を見ている。

もし自分が荒い波動に意識の中心を置けば、周りの人からも荒い波動が
感じられる。
「なんてあの人は荒っぽいのだろう。いやになってしまう」ということになる。
もし自分の意識の中心を精妙な意識に置けば、周りの景色も違ってくる。
たとえ隣に怒って声を荒げている人がいたとしても、だからその人が荒っぽい
人だとは思わない。
その人の表面意識が荒っぽくなっていると映る。
冷静にその人の全体が見えるのだ。

人は自分が意識の中心を置いているところで、周りを見ている。
だから、周りがどのように感じられるかということは、実は自分がどういうふうに
周りを見ているかということに他ならない。
周りから感じられるものが、自分が発している波動でもある。
周りは自分を映す鏡に過ぎない。
ただ自分の波動が自分に帰ってきているだけだ。

どこに意識をフォーカスしているかで、周りの景色は異なる。
自分の人生自体が違ってくる。
どこにフォーカスして生きることも可能。
フォーカスしたところが自分の世界となる。
同じ場にいても、見えているもの、感じていることは人によって異なる。
自分が意識を置いているところで人は生きているだけ。
同じ三次元にいながら、意識は異なるところで生きている。
それが現実というものだ。

自分にとっての現実が、自分の現実なのだ。
自分が感じている現実。
あなたは荒っぽい現実の中で生きているだろうか。
それとも繊細な現実の中で生きているだろうか。
あなたは争いの現実の中で生きているだろうか。
それとも、心安らぐ現実の中で生きているだろうか。

意識のフォーカスをどこに置くかによって、体験する現実はまったく違ってくる。
怒りに対して、怒りで応じるか。
怒りに対して、その奥にあるものを感じるか。
どこに意識の中心を置くかによって、まったく反応は異なる。
問題は周りの状況ではない。
問題は自分の意識の在処(ありか)なのだ。

意識が透明ならば、事実を事実として見ることができる。
しかし、自分の潜在意識にいっぱい溜まっていると、溜まっているものが事実に
反応する。
そうすると、事実を事実として見ることができなくなる。
色の付いた事実となる。
あの人は悪い人になり、この状況は許せないことになってしまう。
意識が透明にならない限り、心の平安はない。

潜在意識にいろいろ溜まっている限り、人間関係の中でいろんな反応が自動的
に出てくる。
その度に心は動揺する。
それは仕方がない。
意識が透明にならない限り、反応は自動的に起きてしまうのだ。
それは潜在意識の自浄作用でもある。
潜在意識が機会を得て自らを解放している姿だ。
だから、それ自体は問題ではない。

問題は、せっかく解放したのに、またそれに囚われてしまうこと。
出てきたものは、そこで完了させる。
気づいて、そこで終わらせる。
終わらせる、終わらせる、終わらせる・・・
次々に終わらせていく。
次々に完了させていけば、潜在意識に溜まっていたものは減る一方。
そのつもりで見守っていれば、出てくるものにも囚われなくなる。

意識が澄みきるまでは、いろんな反応が出てくる。
出るものは出るままに。
反応するものは反応するままに。
静かにながめている。
それに囚われない。

囚われないで静かにながめていることを続けていると、やがて心は落ち着いてくる。
それほど反応に巻き込まれなくなる。
反応が行動に移る前に心の中で気づかれ、消えていくようになる。
どんどん解放のスピードが上がってくる。
それに伴い意識はクリアーさを増していく。

意識がクリアーになれば、自然に意識のフォーカスも深くなる。
意識の中心が深くなると、心静かに暮らせるようになる。
表面のさざ波に囚われなくなる。
表面意識のさざ波を静かに見守れるようになる。
意識は澄みきり、事実を事実として見れるようになる。
美しい景色を、そのまま美しく感じることができるようになる。
外なる美しさと、内なる美しさが共鳴する。
外なる美しさに、内なる美しさに共振する。
自然の中で、日々、感動しながら暮らせるようになる。
                 
                  >>日記 無色透明 『96日目 - フォーカス』 より

      
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セッションレポート - 5
2009-10-25 Sun 03:25
                                  『木霊の森に射す強い光』
木霊の森に射す強い光ー23-mar_09
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   T&F 光のネットワーク より

   セッションレポート - 5

   F 人間がどうしたの?    
   U 人間が・・・大丈夫とは限らない。
   F 限らないというのはどういうこと?
   U 限らないというのは・・・ 肉体をまとって勉強する人というのは変わらないんだけど
     いまの文明自体が破壊される可能性があります。
     アトランティスとか、ああいうような感じで。
     だから、文明自体が存続するとは限らない。
   F そうなんだ。
   U 勝手なことを口走ってる・・・
   F でも、なかなかおもしろいよ。
   U ああ、でも、それでも霊性の目覚めは近いうちに・・・来てます。
     もうそれは御承知のことだと思いますけど、働きかけているものがあるんで、外
     から・・・ そういう働きかけが来ているんで・・・
   F 自然に目覚めつつあるということ?
   U 周期(サイクル)なんですね。
     もっと大きく見ると、それは一つの周期(サイクル)であって・・・そう・・・それが何
     を意味しているのか私にはわからない・・・どうしてそういう周期なんだろう?
   F 地球の周期(サイクル)? 太陽系の周期? それとも銀河系の周期?
   U ああ、銀河系の周期ですね。
     ああ、銀河系も小(ちっ)ちゃいです。もうぜんぜん・・・もっともっとたくさん銀河系
     はあります・・・素粒子みたい・・・
   F 銀河系が?
   U そう。そうですよ。もっと大きいんですよ。 本当は・・・ というか、銀河系というと、
     ほんのちょっと、小(ちっ)こくなっちゃった。
   F 銀河系の周期なのかな?
   U そうですね。星が滅びるのと同じようなものなのかもしれない・・・
   F 地球に関して言えば、三次元の地球と四次元の地球が同時に存在するように
     なるということ?
   U なんか四ではないみたい。
   F 五次元? 三次元と五次元?
   U わからない。 四ではないみたい・・・
   F 三と五なのかな? それとも六までいってしまうのかな?
   U ・・・私にはわからない。
   F 外側から地球に働きかけているというのは、どんな存在が働きかけていますか。
   U 大きな意識みたいなもの・・・意識というか、意識よりももっと大きいもの。
   F 意識よりももっと大きい?
   U 私たちの言う意識じゃない、という意味。
   F それは複数? 単数?
   U 複数。 だって、いろんな光が来ているから。
   F それはいろんな星から来ているということ?
   U いや、星じゃないです。 星というと物質レベルだから、そうじゃないんですよ。
   F エネルギーレベル?
   U そうそう、そういう感じ。
     それがその人 ― その人と言うとあれだけど ― その人達の役目なんですよ。
   F その人達って?
   U その人達というか、その意識の役目。だから、意識体になると、また何か役目
     があるんでしょう・・・要するに、お仕事。
   F 地球に働きかけることが、大きな意識体の仕事?
   U そういう感じ。
   F その大きな意識体というのは、たとえばプレアデスとかシリウスとか、そういう
     星の感じではないの?
   U ぜんぜん・・・
   F 違う?

                             ・・・セッションレポート - 6へ続きます
                                       
                    T&F News Letter №14 (1997年6月15日発行) より
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