いのちの写真と光の言葉
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現実
2016-02-07 Sun 13:14
人は、結局、自分の望む現実を体験しているのだろうか。
いや、そんなことはない!
こんな現実なんか、ぜんぜん望んでいない!
と言う人もいるかもしれない。

しかし、やはり潜在意識のどこかで望んでいるのではないだろうか。
そうでなければ、このような現実があるはずがない。
確かに、表面意識では望んでいないかもしれない。
しかし・・・

潜在意識の奥では、密かに望んでいるのかもしれない。
本当は、今のような現実を体験したいのかもしれない。
それ以外に今のような現実が存在する理由がない。
望まない現実は、存在しえない。

表面意識と潜在意識は、必ずしも一致しない。
というより、異なる場合の方が多い。
すばらしい出会いもある。
しかし、出会わなければよかったと思う出会いもある。

表面意識では望んでいなくても、潜在意識では望んでいたりする。
潜在意識が望むから、望んだ通りの現実が目の前に現れる。
表面意識と潜在意識は、矛盾している。
それが、驚きや悲嘆をもたらす。

表面意識と潜在意識が融合すれば、現実に驚くことはなくなる。
なぜなら、自分の望んだ通りの現実が実現するだけだから。
表面意識が望まないことが、現実化することはなくなる。
すべては、思いのままとなる。

しかし、実際は望まない現実が出現する場合が多い。
なぜ?
どうして?
そうなるのだろうか。

潜在意識と一口に言っても、限りなく広い。
まずは、生まれてから今日までの意識。
その多くが、潜在意識となっている。
過去世の意識もある。

魂の意識もある。
グループソウルの意識もある。
そういうものが、すべて潜在意識となっている。
表面意識では気づいていない、大きな自分という存在。

そういう広い意味での潜在意識を理解するにつれて、サプライズは減っていく。
表面意識と潜在意識の乖離(かいり)が、少なくなっていく。
そうなると、自分の望むことが現実化していく。
自分自身を深く理解するまでは、現実が把握できない。

どうしてこんな現実が起きるのか。
どうして自分は、いつもこのようになるのか。
潜在意識にあるパターンが理解されない限り、同じことを繰り返すこととなる。
気がつくまで、アクシデントは起こり続ける。

人生とは、自分自身を見ているようなもの。
現実は、自分自身の写し鏡。
自分の望むものを外に現わし、それを堪能するのが宇宙の基本構造。
それは、人に限らず神もやっていること。

もし現実を変えたかったら、自分自身を理解すること。
自分自身を理解して、自分自身を変えること。
潜在意識を変えない限り、望む現実が起きてくるとは限らない。
すべては、自分自身のなかにある。

慌てることも、急ぐこともない。
人生は、自分の望む通りに展開している。
ただ、表面面意識には理解できないだけ。
もっと深く理解したかったら、自分の潜在意識を理解すること。

自分自身を深く理解して、潜在意識を変更する。
表面意識と潜在意識を融合させ、統合された自分自身となる。
そうすれば、意に反することは起きない。
望まぬ現実は、起こり得ない。

ゆっくり着実に自分自身と共に生きることだろうか。
現実から自分自身を理解することだろうか。
自分自身の気持ちを深く感じてみることだろうか。
目の前の現実をどうして望んでいるのかを・・・

深く深く感じていけば、現実は自分自身に他ならないのがわかる。
自分自身が創り出している自分自身の影。
自分の体の動きを変えれば、影もまた変わる。
現実とは、自分の影に過ぎない。

自分で自分を見ているのが、現実というもの。
自分のなかにあるものを外に写して、客観視しているだけ。
自分で自分を見ているのが、現実というドラマ。
それ以外にドラマの脚本はない。

自分の周りにあるすべての現実は、自分自身を見ているだけのこと。
それ以外の何ものでもない。
自分自身を深く理解すること。
自分のなかにすべてがある。




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何もしない
2015-11-23 Mon 09:24

『何もしない』

風邪をひいたらどうするか。
何もしない!
ただ静かに休む。
いのちに、すべて委ねる。

何もしなければ、どうなるか。
熱が出る。
頭が痛くなる。
節々も痛くなる。

何もしないでひたすら休んでいると、どうなるか。
体に溜まった老廃物が、熱によって融ける。
それが、汗によって体外に排出される。
頭の中に詰まっていたものは、頭痛によって解放される。

何もしなくても、体は自然に癒される。
いのちは、自然に本来の健全な状態に戻ろうとする。
疲れているから、風邪をひく。
風邪をひくということは、休みなさいというメッセージ。

風邪は、ゆっくり休んでいれば、何もしなくてもよくなる。
ところが・・・
これができない。
つい何かをしてしまう。

頭痛に耐えられない。
すぐに痛み止めを飲む。
熱を恐れる。
闇雲に解熱剤を入れる。

せっかく熱によって体を浄化しようとしているのを、邪魔する。
せっかく頭を調整しているのに、それをストップさせる。
薬を使えば、頭痛も熱も止む。
それだけのために、体の自然治癒力をだいなしにしてしまう。

それは、対症療法。
目先の解決。
なんら本質的な解決にはならない。
逆に解決を先延ばしにしているだけ。

解熱剤を飲めば、熱は下がる。
しかし、溜まっていた老廃物は融けない。
体内に溜まったまま。
せっかくのリフレッシュの機会を逸することになる。

頭痛薬を飲んでも、結果は同じ。
一時的に頭痛は消える。
しかし、詰まっていたものは、そのまま。
どんどん蓄積されるだけ。

頭痛は、頭に詰まっていたものをクリアーにするチャンス。
頭痛薬を飲んでしまえば、そのチャンスは消える。
解熱剤や頭痛薬は、症状を一時的に抑えるだけ。
なんら本質的な解決にはならない。

むしろ、事態を悪化させる。
よくなろうとする自然治癒力を妨げる。
そのまま経過すればスッキリするものを、途中で止めてしまう。
リフレッシュするチャンスを殺してしまう。

頭が痛い時は、頭が痛いままに。
熱が出る時は、熱が出るままに。
頭が痛くなったり熱が出るには、それなりの訳がある。
必要があってそうなっているものを、どうして人為的に止めようとするのだろうか。

それは、明らかに一時しのぎ。
その場さえ何とかなればいいというもの。
後先を考えない浅知恵。
そういう生き方をしていれば、いずれ行き詰るに決まっている。

自然に反した生き方をすれば、心身は不自然になる。
自然に反した生き方とは、自分勝手。
自然の働きを自分の都合でストップさせること。
そのような生き方をしていると・・・

健康でいることはできない。
自然は、循環とバランスで成り立っている。
それを途中で止めれば、すべてが狂ってしまう。
必要があって起きるものをストップさせれば、生体システムは混乱する。

そのようなことを続けていると、ある日、突然倒れる。
そうでなければ、アクシデントが起きる。
自分勝手に自然を乱したツケは、必ず払わされる。
自然の法則を犯せば、必然的に不自然な結果が生じる。

何もしない。
恣意的なことは、何もしない。
自然にまかせる。
体にまかせる。

目先の利益に惑わされて余計なことをするから、取り返しのつかないことになる。
苦痛を避けようとするから、更なる苦痛がやって来る。
やって来るものは、そのまま受けとめる。
自分勝手に選別しない。

自分に都合の良いものは、大歓迎。
自分に都合の悪いものは、拒絶。
それは、我がまま。
それは、反自然。

そういう生き方をしていると、どんどん自分が小さくなる。
キャパシティが、大きくならない。
来るものは、受けとめる。
去るものは、追わない。

病気であれ苦痛であれ、来るものは拒まない。
そのまま受けとめる。
受けとめて、抱きしめる。
抱きしめて、深く味わう。

病気の時は、病気のまま。
苦痛の時は、苦痛のまま。
選り好みしない。
すべてそのまま受けとめる。

何もしないとは、究極。
来るものは、拒まず。
去るものは、追わず。
それは、人に限らない。

あらゆる事象を、そのまま受けとめる。
病気も苦痛もアクシデントも。
天変地異さえ、そのまま受けとめる。
全宇宙を、そのまま受けとめる。

自分に起きることは、自分自身の投影。
自分自身が、引き起こしていること。
にもかかわらず、なぜ選り好みするのだろうか。
避けようとすれば、更に追いかけてくるものを・・・

それは、了見の狭い自我のなせる業(わざ)。
目先の利益だけに目がくらんだ自我の浅知恵。
物質に翻弄され、本質を忘却した自我の暴走。
表層で生きる自我の薄っぺらい人生。

もっとグランディングして生きないと。
しっかり地球に根ざして生きないと。
自然と共に自分の本質を生きないと。
表面だけを取り繕って、何のための人生だろうか。

風邪の時は、何もしない。
ただ静かに風邪と一緒にいる。
そうすれば、風邪は心身を浄化してくれる。
台風一過のさわやかさを体験させてくれる。

自然と共に生きる。
自然のリズムと共に生きる。
自我の選り好みをしないで生きる。
すべてを受けとめ、すべてと共に生きる。

『選り好み しないですべて 受けとめて 自然と共に 生きるしかない』




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心配
2015-10-21 Wed 12:23
心配とは、我が儘。
自分の望まない現実が起きることを恐れる心。
逆に言えば、自分の望む通りになってほしい心。
それ以外は認めない心。

人のことを心配する?
実は・・・
自分のことを心配しているだけ。
自分にとって都合の悪いことを避けたいだけ。

心配とは、エゴ。
エゴが、嫌な現実から逃げているだけ。
思いやりという美名の下、自分の思うようにしたいだけ。
望まない現実を拒絶しているだけ。

心配とは、事実を認めたくない心。
現実を思うようにコントロールしたい心。
自分の砦が崩れることを拒んでいるだけ。
しっかり自分の中に囲い込んでいたいだけ。

事実ベースで生きれば、心配はない。
ただ事実と共に生きるだけ。
どのような事実であれ、黙って受け入れる。
事実に即して生きるだけ。

心配は、事実を受け入れない。
自分の望まない現実を拒否する。
だから、心配する。
現実を望むように支配したいから・・・

どんな事実であれ、事実と共に生きる。
どんな現実であれ、そのまま直視する。
そうやって生きるしかない。
他に真実の道はない。

心配には、宇宙への信頼が欠如している。
小さな自我で、善し悪しを判断している。
自分のこれまでの経験に照らして決めつけている。
自分の価値観で、受け入れるかどうかを選択している。

全面的に受け入れようとはしない。
自分にとって都合の良いものだけを受け入れようとする。
都合の悪いものは拒絶する。
それこそが心配=自我の本質。

心配とは、エゴ。
自分を守りたいエゴの為せる技。
すべてを受け入れようとしない自分勝手。
自己中心的な我が儘。

しかし、心配している限り、心のやすらぎはない。
すべてを受け入れない限り、心が安定することはない。
心配している限りは、心は常に動揺している。
心配とは、心ここにあらずということ。

心配すれば、心は彷徨い、不安定になる。
自分自身へのグランディングはないに等しい。
意識が外に向くから、心配が起きる。
内に向けば、心配はない。

しっかりと自分自身を生きる。
自分自身の深さを生きる。
深い意識に心配はない。
深い意識にあるのは、信頼。

意識が深まれば深まるほど、心は安定する。
心配とは、波立つ表面の心。
自分の思うように支配したい心。
都合の悪いことを拒絶する心。

自分本位に選択していると、自分の望まない現実に出会った時に苦しむことになる。
すべてを受け入れない限り、苦しみから逃れることはできない。
自我とは、選択。
非自我とは、無選択。

心配したければ、心配してもいい。
でも、心配すればするほど、エネルギーは消耗する。
しょうも(う)ないことをやるから、消耗する?
ハイ、しょうもないギャグ。

心配とは、事実に反した行為。
現実に抵抗しているので、エネルギーはどんどん消耗していく。
事実に即して生きないと、抵抗や摩擦でエネルギーが消えてしまう。
それをやっている限り、自分自身を創造的に表現することはできない。

避けようとしているものは、何か。
守ろうとしているものは、何か。
自分の心配を見つめ、心配の本質を理解する。
自分がしっかり掴んでいるものは何だろう・・・?

自覚しない限り、心配に翻弄され、心配の虜となる。
心配の本質をわからなければ、自我のまま苦しむことになる。
避けることも守ることも苦しみの道。
ただ事実と共に生きるしかない。

いのちの限り、ただ事実と共に生きていく。
現実を支配しようとすれば、苦しみが待っている。
すべてを受け入れ、すべてを認めない限り、抵抗と摩擦で消耗してしまう。
事実と共に生きるのが最も楽な生き方。

どんな事実も、ありのまま受けとめる。
どんな事実も、拒否しない。
すべてを受け入れる時、人は愛に包まれる。
なぜなら、すべてを受け入れることが、愛だから。

愛は、すべてをありのまま受け入れる。
愛は、すべてをそのまま認める。
好きも嫌いもない。
ただただ、すべてをあたたかく包み込んでいるだけ。

無条件にすべてを受け入れる時、心配はない。
無条件にすべてを包み込む時、不安も恐れもない。
ただ限りない愛が降り注いでいるだけ。
まるで春の陽射しのように、あたたかいものに包まれているだけ。


『ありのまま 受け入れる時 心配は 消えて心は やすらぎのなか』




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不運
2015-08-16 Sun 09:01

次のようなコメントが届いた。

「自分の思ったようには生きれないこと多いです。
くじ引きといっても、あてずっぽうというのでもない。
前向きにこうしようと一応プランは練る・・・としても、
その通りになかなかいかない。
何とか、進むと横やりもある。
それを、不幸ととるか、おもしろいととるかってことはあっても、
自分の想いを押し通して生きるのは難しい。
まして、自分がしたくもない戦争に、自国が巻き込まれ、
空からやたらミサイルが落ちてくる状況にいて、
自分の人生を如何にクリエイトできるでしょう?
そういう、ついていないというか、不運というか、
どうしようもない状態ってあると思う。
この人生は、こうであったが、
次なる世界でも、周りに翻弄されざるを得ないのが続くのは
救いがないとやはり思うのです。」

「自分の想いを押し通して生きるのは難しい」

押し通すことはない。
自分の思い通りに生きればいいだけ。
素直で真っ直ぐならば、自分の思い通りの人生が展開する。
でも、ほとんどの人は素直でも真っ直ぐでもない。
思いが複雑に錯綜している。
だから、自分の思ったとおりの人生にならない。
ただ、それだけのこと。

多くの人は、人生は自分の思い通りにはならないものと諦めている。
まさに徳川家康の心境になっている。
人生は重き荷を負うて生きるがごとし・・・
そう思い込んでいれば、思い込んだ通りの人生になる。
人生は望み通りになると思えば、そのようになる。
そのようになるしかない。

実際には、過去の思いが現実に反映してくるので、タイムラグがある。
しかし、最終的には思った通りの人生になる。
なるしかないのだ。
思いが現実を創る。
それ以外に現実を創り出す要素はないのだから。
それが大原則なのだ。

先入観や偏見を捨てること。
人生は思った通りにはいかないという思い込みを手放すこと。
そうすれば、現実が変わる。
人生を自分の望むようにクリエイトできるようになる。

自分の人生を自分の手に取り戻そう。
自分の人生を訳のわからないものに支配させるのはやめよう。
しっかりと、はっきりと、自分の人生は自分が決めると決心する。
そうすれば、自分の人生になる。
それまでは、あなたまかせの運命に翻弄される人生だ。
それでは自分の人生であって、自分の人生ではない。
それも悪くはない。
自分でそれを選ぶのならば、何も言うことはない。
ただ、身の不幸を他の人や世間のせいにしていたのでは、
一生浮かばれることはない。
死んだ後も、浮かばれない。
浮かばれないのに、浮遊霊になってフワフワと浮いている、この不思議?

「まして、自分がしたくもない戦争に、自国が巻き込まれ、
空からやたらミサイルが落ちてくる状況にいて、自分の人生を
如何にクリエイトできるでしょう?」

そんなことを言ったら、戦争を止めることも、平和を実現することもできない。
何もできずに運命に翻弄されるだけ?
それだったら、確かに不運としか言いようがない。
どのような状況であれ、それを身の不運と嘆いた途端、
自分の人生を放棄したようなものだ。
「不運」というのは、自分のせいではないと宣言しているようなもの。
今の自分の状況は、何かのせいなのだ。
そう言った途端、自分の運命は自分の手から他人の手に渡ってしまう。
身の不運を嘆いている限り、幸せになることはできない。
それは自分の人生を自分でクリエイトできる権利を放棄したようなものだから。
自分の人生を他人のせいにしている限り、自分の思うような人生はやってこない。
それは自分の人生を他人に任せているようなものだ。

都合の悪いことは、みんな他人のせいにすることによって自己正当化する。
惨めな自分を認めたくないので、みんな世間のせいにする。
でも、それは一時しのぎに過ぎない。
結局、最終的には自分が更に惨めになるだけだ。
その状況から反転する機会を先に延ばすだけのこと。
惨めな時は、惨めなままでいるがいい。
そうすれば、陰極まれば陽となる。
すべては反転する。
しかし、すべて他人のせいにして自己保存を計っていたら、
反転する機会をみすみす逃してしまう。

事実をただありのまま受け止める。
誰のせいにも、何のせいにもしない。
ただ事実と共にいて、自分の生きる道を見極める。
自分の望む現実にシフトする。

人のせいや世間のせいにすることは、目の前の事実から目を背けることだ。
運命のせいにすることは、人生を切り開く努力を放棄することだ。
不可抗力と諦めることは、自分の無限の可能性を封じることだ。
どのような状況にあっても、冷静に自分の道を切り開く。
慌てなければ、自分を見失わなければ、道は必ず開く。
どうにもならないということはない。
それは、どうにもならないと思い込んでいるだけのこと。
最後の最後まで、ギリギリまで道を求めれば、道は必ず開く。

求める行為そのものが道を開く。
求めるという行為そのものに道が伴っているのだ。
求めることは同時に道が開くことでもある。
それは同時に存在するものなのだ。
求める行為だけが存在するということはない。
求めると同時に道も存在する。
陰だけがあることはない。
陰があるところには必ず陽がある。
陰陽で一組なのだ。

冷静であること。
自分を見失わないこと。
それさえ忘れなければ、必ず道は開く。
道が開くのではなくて、自分が道を開くのだ。
自分のエネルギーによって、自然に道が開くのだ。

諦めたら、そこですべてが終わる。
他人のせいにしたら、すべてがそこでストップする。
自分で道を開く可能性が消えてしまう。
冷静に、クリアーに・・・
見えない道は目の前にある。

「この人生は、こうであったが、次なる世界でも、周りに翻弄されざるを
得ないのが続くのは救いがないとやはり思うのです。」

周りに翻弄されざるを得ない?
翻弄されると思っている限り、翻弄されるだろう。
翻弄されるのを拒否し、自らの人生を歩む。
そう決意するまでは、翻弄人生が続く。
翻弄されて翻弄されて、浮き草のような人生を歩むといい。
そうしたければ、それも可能だ。
しかし、それは世間のせいでも不可抗力でもなく、自分が選んだ人生。
だから、それを変えることもできる。

世間のせいであり不可抗力であると認定すれば、
その途端、浮き草人生となる。
今生だけではなく、何回生まれ変わっても変わらない。
自分の思い込みが変わらない限り、翻弄人生が変わることはない。
運命であり宿命であると思っている限り、同じことの繰り返し。
無限に生まれ変わっても、無限に同じことの繰り返し。
それでは確かに救いようがないかもしれない。
しかし、真に救いようがないのは、救いがないと思い込んでいる心の方だ。
心が変われば救われる。
心が変わらない限り救われることはない。

周りに翻弄されるとか、誰か他人のせいとか、
世間や運命のせいにしている限り、被害者をやっていることになる。
被害者をやっている限り、幸せになることは絶対にあり得ない。
それはほとんど自虐的な行為だ。
自分を弱者にすることによって、自分を正当化する。
今の状況を他人のせいにすることによって、自己の責任を免れる。
単なる自己正当化ゲームなのだ。
自分のせいにしたくないので、他人のせいにしているだけ。
自分の人生に自分で責任を取らない限り、人生は変わらない。
人のせいにしている限り、周りに翻弄されるだけだ。

また次のような質問もあった。

「宇宙の元の元にひとつになるのに覚悟とか、やっぱりいるのですか?
そういうものだって、わかるだけでいいってわけにはいかないんですか?」

真にわかれば、覚悟はいらない。
真にわかれば、人生が変わる。
ただ、そのプロセスの中で、独り立つ時に覚悟みたいなものが
必要になる時があるかもしれない。
何にも依存しないで、独りあることができるだろうか。
森羅万象の中で、森羅万象を忘れ、独りあることができるだろうか。
もしそれができるならば、覚悟はいらない。
何もいらない。
既に、そこにはすべてがある。

宇宙の中で独りある時、宇宙がひとつになる。





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主体
2015-07-10 Fri 18:46
次のようなコメントがあった。

「私、『今に生きる』を実践してるかも。
ナチュラルヒーリングのコメントで、また朝陽と夕陽を間違えた。
以前、おんなじマチガイをして、朝陽には輝きがある!って気付いたのに・・・
性懲りもなく、『輝いてる夕陽ですね!』なんてシャアシャアと書いてしまった。
これって、過去に囚われていない証では?
・・・・単に物忘れがひどいだけか。

やっぱり今だけにフォーカスしているだけでなく、後頭部に意識を置いて持ち駒も活用できなきゃ日々の体験に意味がないかな。
今に生きてても、顔に意識があるだけでは、過去に囚われてるのとドッコイドッコイって事でしょうか?」

たいした間違いでもないし、冗談半分のコメントだが、重要なポイントも含まれている。
今に生きるということは、過去を忘れるということだろうか。
しかし、過去を完全に忘れてしまえば、今に新鮮に出会えるけれども、同じ過ちを犯すことにもなりかねない。
過去は記憶しておくべきか、それとも、完全に忘れるべきか・・・

記憶しておかねば困ることもある。
電車やバスの乗り方は記憶していないと、その都度聞かなければならない。
お金の価値や使い方も記憶しておく必要がある。
それ以外にも、ガスや水道や電気の使い方。
時計や信号の見方、文字や車の運転・・・
パソコンの使い方も記憶していないと、日記を読むことさえできなくなる。
そういう意味では、記憶は必要ということになる。
いくらコンピューターが発達しても、ある程度の記憶は自分の中にキープしておく必要がある。
記憶なしでは生活できないと言っても過言ではない。

では、何でもかんでも記憶していればいいかというと、そうとも言えない。
過去の忌まわしい記憶を、いつまでも大事に持っていても仕方がない。
屈辱の記憶も栄光の記憶も今を生きるのを妨げる。
悲しみの記憶をいつまでも持ち続けていれば、幸せな人生にはならない。

要は、事実としての記憶は問題ないが、自分の感情や思い込みが付加された記憶は人生の障害になり得る。
評価され、解釈され、自我となった記憶はトラブルの元になる。
それは自我の価値観を通過した記憶ということだろうか。
事実を事実として記憶されたものは、特に問題はない。
しかし、自我を通って記憶となったものは、今に白紙の状態で出会うことを妨げる。

今を生きるためには記憶がいる。
しかし、記憶に支配されてはいけない。
過去の恐怖に支配されて、今を恐れても何の意味もない。
事実を直視することを忘れ、事実を過去の目を通して見て恐れおののく。
事実だけを見ればいい。
恐れる必要はない。

記憶されているものは似たような状況の時に思い出される。
電車の切符を買う時には、それが役に立つ。
その時は記憶は有効に機能する。
ところが、過去に失敗したり、深く傷ついたり、事故に遭ったりすると、似たような状況になった時に、それが連想されて心が動揺し、同じような失敗を繰り返したりすることもある。
その場合は、記憶は人生の妨害要因になる。
また、以前に会った時にイヤな印象を持つと、次に会った時も以前の記憶で見てしまう。
それは先入観や偏見となり、今の事実をありのままに見ることを妨げる。

記憶は役に立つ場合もあれば、逆の場合もある。
役に立つ記憶は保持しながら、役に立たない記憶には縛られないことは可能だろうか。
本当はホームワークにしたいところだけれども、現在も一つ進行中なので、やめておくことにする。

記憶に支配されない。
記憶の虜(とりこ)にならない。
記憶は生かして使う。
記憶は必要なツール。
でも、記憶に振り回されない。
それは過去のデーター。
単なるデーター集。
そんなものに振り回されても仕方がない。
自分の主体性をしっかりと持つ。
記憶に支配されないと明確に決める。

自分の意識の中の一部に記憶の領域を保持する。
しかし、記憶に意識のすべてを明け渡さない。
正確に言うと、記憶を元にした思考に自分の意識を奪われない。
思考の独り歩きをストップさせる。
思考の暴走を許さない。
しっかりと記憶と思考の役割を理解する。

記憶も思考も生きるには必要なもの。
しかし、それらがすべてではない。
それは意識の中の一部。
自分の主体を思考に置かない。
思考を超えた意識の主体を確立する。
思考や記憶は意識の一部に留める。

大きな主体が小さな思考や記憶を包み込む。
まるで同心球のように。
大きな意識が小さな思考や記憶を見守る。
思考や記憶を超えなければ、思考や記憶に使われる。
主体であるべき意識が、従体になってしまう。

しっかりしないと、妄想の中で自分を見失う。
意識をクリアーに保つ。
それには、まず自分自身の意識の動きを見守る必要がある。
自分自身を理解しないことには、思考や記憶から自由になることはできない。
なぜなら、「私」=自我とは思考や記憶に他ならないから。
それが今の意識の主体になっているものだから。

思考や記憶中心の主体から、それらを超えた主体に切り替わる必要がある。
そうならない限り、いつまでも思考や記憶に振り回される。
自由はどこにもない。

自分自身を見守ることによって、思考や記憶に支配されない主体が芽生える。
見守る意識が育つ。
それは思考や記憶の次元を超えている。
主体が思考や記憶の次元からシフトする時、時代が変わる。
戦争と悲惨の歴史が終わる。
ハートベースの真の平和の時代が来る。

それは一人一人の生き方にかかっている。
メシアは現れない。
一人一人がメシアになるしかない。
一人一人が自分自身から自由になるしかない。
自分を縛っているものは、自分以外にはいない。
自分を縛っているものは、思考と記憶が編み上げた思い込みという縄。
それが自分をガンジガラメにしているだけ。
まさに自縄自縛(じじょうじばく)。

その縄を解(ほど)くには、自分自身を理解するしかない。
思考と記憶が中心になった自分という意識を深くわかるしかない。
思い込みワールドでもがいている自分を深く深く理解する。
それらが真に理解され、思考や記憶から自由になった時、新しい時代が始まる。
今とは違う主体が確立する時、まったく異なる人生が展開する。
それがこれからの楽しみ。

記憶は意識のほんの小さな部分。
思考も意識の一部。
それらは必要に応じて活用するもの。
間違っても使われるようなことがあってはならない。
思考や記憶の奴隷になるのではなく、それらを使いこなす主体になる必要がある。

それらを否定せず、それらを大きく包み込み、見守りながら生きる。
必要に応じて使う。
必要以上に使わない。
けっしてそれらに支配されない。
それらを超えた主体性を確立する。




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解き放つだけ
2015-04-23 Thu 08:54

次のようなコメントが届いた。

「何もしない事が...それがどうしてもできない。
見極めているつもりでも実は『思考』が働いています。
瞑想していても『思考』しているようです。
いったいどうしたら『思考』をコントロールできるのでしょうね?」

思考をコントロールすることはできない。
なぜなら、コントロールしようとしているのも、また思考だから。
それでは思考の堂々巡りになってしまう。

思考のコントロールは諦めるしかないだろう。
思考が動いている間は、動いているままにしておくしかない。
もし、思考を無理に止めようとすれば、必ず反動が起きる。
無理に抑圧すれば、潜在意識の中に歪んだ形で蓄積される。
それはかえって意識のクリーン化を難しくしてしまう。
抑圧し続ければ、無気力になるか、気が狂うか・・・
いずれにしても、よいことはない。

思考は使うこと。
そして、マスターすること。
そして、囚われないこと。
抑圧しても、思考力が減退するだけ。
抑えない、けれども負けない、理解するだけ。
感情を扱うのと同じ原理原則。

自分の中に、たくさんのこだわりや囚われや執着がある間は、いろんな反応が起きてくる。
思考が自動的に反応する。
まずは、それを認めるしかない。
常に事実と共に生きる。

出て来るものは、出してあげるしかない。
但し、出て来るままに翻弄され、自分を見失うことのないように。
見守りながら出していく。
それをやり続けていると、気がつかないうちに見守る意識が働くようになる。
無意識のうちに見守っている状態になる。

自宅に帰って、静かに今日の自分の反応を反芻(はんすう)する。
どうしてあのような反応が出てきたのか、もう一度冷静に振り返る。
自分の状態をフィードバックする。
客観的に見つめ直す。
そして、その原因を突き止める。

そういう作業を繰り返していく間に、見る意識が育っていく。
その作業中に思考が動いてもかまわない。
あれこれ考えて、気づく。
それでいい。
思考は道具。
使いこなせばいいだけ。

ポイントは、見つめながら思考を使うこと。
思考の独り歩きをさせないこと。
つまり、考え過ぎて自分を見失いそうだったら、見つめていないということ。
それは思考の空回り。
それでは永遠に思考から自由にはなれない。
見つめながら考える。
常に自分自身を見つめるという姿勢が必要になる。

瞑想中も思考が動く?
動く思考を見つめていればいい。
最初から無念無想になれるわけがない。
潜在意識に溜まっていた、いろんな思いが雲霞(うんか)の如く出て来る。
それが普通。
問題は、そういうものが出てきた時にどうするか。

出てきたものを一々払い除けようとしてもキリがない。
それではまったく瞑想にならない。
出てきたものに呑み込まれてしまっても、瞑想とは言えない。
それでは瞑想のつもりが迷走になっている。

出て来るものは、出て来るもの。
そのまま認めるしかない。
ただそれを眺めている。
見守っている。

見守る以外のことをすれば、それは思考が動いていることになる。
それでは瞑想にはならない。
動く思考を見守る。
その動きが止まろうが止まるまいが、見守る以外の方法はない。

呼吸法をやる?
マントラを唱える?
そういうテクニックもある。
それはそれなりの効果はある。
でも、所詮、テクニック。
テクニックなしでは瞑想できない、テクニック依存症をつくることになる。

心が落ち着く静かな音楽を使ったり、それなりの工夫をするのもいいかもしれない。
最初は自分がやりやすいようにアレンジするのもいいだろう。
でも、テクニックはテクニック。
それぞれの限界がある。
最後の最後は、いかなる方法もない。
ただ静かに見守る。
それしかない。

まずは、潜在意識に溜まっているものを解放する。
それには静かに見守ること。
思考が動けば、それを見守る。
思考に囚われず、ただ流すように見守ればいい。
要は、意識のポイントが思考にあるか、見守る方にあるかということ。
簡単には意識のポイントは移動しない。

日常生活は思考のポイントで生きている。
それが瞑想した途端、見守る方のポイントへ移行するはずがない。
意識は普段と同じように思考のポイントにある。
それを見守る。

パッと切り替わるものでもない。
自然と切り替わるとしか言いようがない。
いつのまにか自然に見守っているようになる。
いつのまにか自然に見守る意識が働くようになる。
それは瞑想中だけに限らず、日常生活の中でも働くようになる。

瞑想の時だけ瞑想していても仕方がない。
常住坐臥(ざが)瞑想状態というのが望ましい。
少なくともどんな状況であれ、見守る意識が常に働いているようになる必要がある。
そのような状態には一朝一夕にはなれない。
いつのまにか・・・なっている。

だから、焦らず、ゆっくりやればいい。
ゆっくり自分自身を見守り続ければいい。
そうすれば、徐々に見守る意識が育っていく。
やがて、いつのまにか思考も静まっている。

思考を鎮めようとしない。
思考を鎮めようとすれば、思考が思考を鎮めようとする泥沼にはまる。
ただ静かに見守る。
それが唯一の方法。
思考を使わない唯一のやり方。

そうやって見守っている間に、自然に意識のポイントが切り替わる。
思考から見守る意識の方へ移行する。
自然に移行する。
それが一番無理のない方法。

焦らない。
慌てない。
落ち着いて、ゆっくり見守ればいい。
絶えず自分自身を見守っている。
必死に頑張るのではなく、おおらかに、やさしく・・・

必死で頑張ろうとするのは、思考。
見守る意識は、ゆったり、おおらかにすべてを包み込んでいる。
すべてに浸透している。
だから、ゆったりと見守った方がいい。

『おおらかに やさしく包み 見守って 出て来るものを 解き放つだけ』





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創造と破壊
2015-03-12 Thu 11:11

新しい星は、宇宙空間の塵が結集することによって生まれる。
集中固体化が、星の誕生。

やがて活発に活動するようになり、光り輝く。
しかし、最後には大爆発して宇宙の塵と消える。
それが、星の一生。
集中し、拡散し、文字通り雲散霧消する。

それは、水に似ている。
水蒸気が雲となり、雲は冷えて雨となる。
雨は、気温が下がれば氷となる。
やがて春が来て、氷は融けて水となる。

水は川を流れ、海に融け入る。
海水は太陽に照らされ、水蒸気となり雲となる。
そして、また地上に降り注ぐ。
その繰り返し。

集中、固体化、拡散、気体化。
それが、自然と宇宙に見られること。
人も、その例外ではない。
死ねば土に戻り、次の生命の養分となる。

実は、これは物質に限ったことではない。
精神も似たようなもの。
この人生を生きていくために、いろんな要素が集められている。
それは、主に過去世から集められる。

新しい人生を生きるには、まず青写真がいる。
新しい人生の設計図。
これがなければ、新しい人生はあり得ない。
どんな人生にするか、魂の検討が始まる。

今回の人生で何を経験するか。
何を達成するか。
そのためには、何が必要か。
必要な資質を集めることになる。

人は、偶然にできるものではない。
肉体も精神も創られたもの。
生まれる前に設計されたもの。
過去世の能力や先祖の肉体的特徴から創造されたもの。

まず原型を創り上げる。
その際に、過去世で培った能力が役に立つ。
そのどの部分を持たせるか。
どのような能力や性格を持たせるか。

ものすごいデーターのストックの中から選び抜かれる。
それは、新しい星が宇宙の塵から創られるのに似ている。
人も膨大なデーターの中から創られる。
集中固体化。

いろいろなデーターを組み合わせて新しい原型が形成される。
それが、人生のベースとなる。
肉体や精神の基本構造が設計される。
そういう準備を経て、この世に誕生する。

肉体も精神も順調に成長すれば、当初の目的が達成される。
やがて使用期限が切れる。
そうなると肉体は土に帰る。
精神は、魂に帰って行く。

肉体は、分解されて土に戻る。
実は、精神も分解される。
感覚、感情、思考、それ以上の気づきや直覚・・・
それぞれの次元でストックされる。

つまり、この世では人として一体であったものが、別々に分解して保存される。
そういうものから、また新しい人間が形成される。
人は、魂によって形成されたもの。
もちろん、形成されるのは一霊四魂の四魂の部分。

宇宙の根本は、人も星も花も同じ。
集中と拡散。
その繰り返し。
それは、呼吸のようなもの。

吸ったり吐いたりすることが、いのち。
つまり、生きているということ。
つまり、変化。
つまるところ、集中と拡散。

右回りが、集中。
左回りが、拡散。
台風は、左回りの渦。
つまり、拡散=破壊。

インドの神話には、破壊神と創造神が登場する。
破壊とは、拡散。
創造とは、集中。
新陳代謝とは、その繰り返し。

古い細胞は破壊され、新しい細胞が誕生する。
それが、人体内で日々おこなわれていること。
つまり、宇宙の出来事が人体内でも起きているということ。
創造と破壊は、ありとあらゆるところでおこなわれている。

森羅万象は、そういう原理で動いている。
極めてシンプル。
創造と破壊。
集中と拡散。

大きな創造と破壊の間には、小さな創造と破壊がある。
それが何層にも渡っている。
そう、宇宙は相似像。
同じ構造の多層構造。

そういうことを理解して、いかに今生を生きるか。
自分は、今、何のために生きているのか。
魂は、何を求めているのか。
この人生で何を実現しようとしているのか。

日々真剣に生きることだろうか。
そうすれば、魂とつながった生き方ができるようになるだろう。
魂とつながることは、宇宙とつながること。
多層多次元、みな同じ構造。

宇宙とつながり、魂とつながり、日々を生きる。
宇宙の構造を理解し、人生を理解して生きる。
日々新たな創造に励む。
理解を深め、現実創造していく。





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只管打座
2015-02-03 Tue 14:48

  只管打座 (しかんたざ)
  
  只管打座     
  禅の言葉     
  ただ座る    
  何も考えずに座る
  
  悟りたいとか     
  すばらしい体験をしたいとか     
  そういうことを一切思わずに座る     
  ひたすら座る

  無念無想
  いかなる念も想いもない
  無念無想になりたいとか
  そういうことも一切ない

  目的や意図があれば
  無念無想ではない
  どのような想いがあっても
  只管打座とはならない

  ただ座る
  何も考えずに座る
  座ろうともせずに座る
  自然に座る

  意図は自我
  悟りたいも
  超越体験をしたいも
  自我そのもの

  別に自我が悪いわけではない
  目標を設定し
  達成する
  自我の喜び

  それも悪くはない
  しかし
  悟りたいという目標を持つと
  悟れない

  悟りたいという想いがある間は
  悟れない
  なぜなら
  まだ想いの世界にいるから

  想いの世界は自分の世界
  自分がつくりだしているだけの世界
  自分で自分の尻尾を追いかけ回して
  いる犬と変わらない

  想いの世界を超え
  ただ心が落ち着く
  何の理由もなく心が落ち着く
  座る必要もなく心が落ち着く

  座ってもいいし
  座らなくてもいい
  それが只管打座
  ただ座るだけ

  目的も消え
  努力も消え
  超越体験願望も消え
  悟りたいも消える

  すべての欲望が消え
  すべての意図が消え
  すべての目標が消え
  自我が消える

  その時に
  只管打座があり
  無念無想があり
  想いを超えた世界がある

  自我で努力するのもいい
  一生懸命頑張って達成するのもいい
  思い通りの人生を創造するのもいい
  人生の主役になりきるのもいい

  それらすべてを体験して
  ただ座るのもいい
  心が静まって
  ただ座っているのもいい 

           



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生きるスタンス
2014-09-08 Mon 15:53
人は、自分のなかにヘンなものがあると言われると、すぐに排出しようとします。
霊能者に取ってもらったり、手術をしたり・・・
それは、癌と似ています。
いらないものは、排除しようとするのです。

いらないものは取ってしまって体外に排出すればいい。
というのが、一般的な考え方です。
しかし、本当にいらないものでしょうか。
いらないものが、本当に存在するでしょうか。

癌を手術で取り去っても、また別のところにできたりします。
原因をそのままにして結果だけをいじっても、本質的な解決にはなりません。
心身のネガティブな塊も同様です。
霊能者に取ってもらっても本質的な解決にはならないのです。

その原因がわからなければ、また似たようなものができてしまいます。
その原因が、怒りや恐れや憎しみであった場合・・・
塊を取り去ったとしても、自分自身のパターンに変化はありません。
そのうちに、また塊ができてしまうのです。

大切なことは、塊を通して自分のパターンに気づくことです。
自分の傾向やこれまで溜め込んできたもの。
自分の反応パターン。
そういうものに気づくための塊なのです。

それを人に取ってもらったら、せっかくの気づくチャンスをなくしてしまいます。
自分のなかにシコリや塊があることは、何らかの不自然なものがあるというメッセージ
です。
せっかくのメッセージに気づくことなく排除すれば、メッセージの意味がありません。
今目の前にあるものは、すべて意味があるのです。

それを無視しないで、丁寧に感じていくことですね。
いやなことを排除しないで、いやなことこそ大切にすることです。
そこに宝が眠っています。
それらは、すべて自分に気づくきっかけです。

排除しないで、すべてを気づいていこうとするスタンスがとても重要です。
個々の気づきも大切ですが、気づき自体は単発のものです。
その気づきをもたらす心の状態。
それこそが何にも増して重要なのです。

それは、生きる姿勢です。
すべてを抱(いだ)き参らせて生きるスタンスです。
嫌なものを排除しないのです。
すべて包み込むのです。

そこからでないと、愛や慈悲は生まれません。
自分に都合の悪いものを排除する生き方からは、我が儘や自己中心が生まれるだけです。
気に入らないものはすぐに排除しようとするのは、自分本位です。
違和感を感じるものを排除しようとするのは、自分勝手です。

しかも、自分で取り除くのではなくて、人に取ってもらおうとするスタンスは極めて
イージーです。
物事の本質を見ないで、表面だけで生きている証拠です。
目の前の現象だけを取り繕おうとしているのです。
その原因や本質を見ようとしないのです。

ほとんどの人は、目先のことだけを見て生きています。
なぜそんなことが言えるのかというと、今の社会がそういう社会だからです。
見てくれだけの農産物。
毒とわかっていながら、農薬を大量に使うのです。

長期保存や見栄えをよくするための合成保存料や合成着色料。
熱が出たら、すぐに薬で治そうとします。
原因を見ないで、症状だけを治そうとするのです。
それこそが、イージーで浅はかな生き方です。

もっと一つ一つの本質を見ながら生きないと・・・
排除からは、深さは生まれません。
深さが生まれるのは、見守って理解する時だけです。
その見守るスタンスが、何にも増して貴重なものなのです。

それは、自我を超えています。
個ではなくて、全体です。
色ではなくて、空なのです。
自我ではなくて、愛なのです。

そういう生きるスタンスについて、延々と書いています。
個々の気づきも大切です。
自分自身に気づいて成長することは、楽しみでもあります。
しかし、それはまだ自我の範囲内です。

今の精神世界の傾向は、ここまでです。
自己実現や自己成長。
あくまで自己が大切なのです。
それは、まだ自我の範疇を出ません。

アセンシヨンにしても、似たようなものです。
単に一段階次元が変わるだけのことです。
それ以上の意味はありません。
見守りは、それらを遥かに超えています。

自我の範疇の外にあるのです。
それこそが、絶対安心につながる道なのです。
始まりも終わりもない意識の状態です。
宇宙に広がる意識です。

最も重要なのは、生きる姿勢です。
生きるスタンスなのです。
見守りのなかにすべてがあります。
存在するすべてのものを抱き参らせて生きるのです。






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ひとりごと
2014-01-09 Thu 14:44

『ひとりごと』

本当の豊かさって、ガツガツしないことなんだよね。
ゆったりと生きること。
あるものの中で満たされていること。
それが本当の豊かさなんだよね。
いくら物があっても、いくらお金があっても、もっと欲しい、もっと欲しいと思ったら、
心は貧しいものね。
それに忙しい、忙しいという生き方も、ちっとも豊かじゃないよね。
ゆったりと、あるだけのもので満足して、「ありがとう」 って言いながら生きるのが
一番豊かなんだね。
しかも、それってすぐに実現するんだね。
時間がかからないんだよ・・・

それはやっぱり、ぜんぶ手放すことかもね。
とらわれやこだわりを手放して、楽に生きるといいよね。
流れるままに、流れと一緒に、そうすると現象の奥にある、とても精妙なものが
感じられてくるかもね。
それは表面的なものよりも、遥かに遥かに豊かなんだね。
しかも、無料(ただ)・・・
豊かさって、量の中にはないんだね。
それは質の中にあるんだね。
それはとても繊細な心でないと感じられないんだね。
表面的な荒れた心ではとても感じられない ― そういう静かな世界があるんだね。
それは遠くにあるのではなくて、すぐそばに、自分の中にあるんだね。
それを感じだすと、本当に何もいらないんだね。
ただただ 「ありがとう」 ― それで十分なんだね。
と~っても楽に生きれるんだ。

いま、すぐ、ここ ― 何もいらないんだね。
ここにあるんだね、すべてが・・・
それは感じ方の問題かもしれないね。
感じられる心があるかどうか・・・
自分の中に繊細な感受性があると、人生はと~っても豊かになるんだね。
いくら美しいものが目の前にあっても、それを感じられなかったら終わりだものね。
美しいものを美しく感じられる心 ― それが結局、一番美しいのかもね。
それが一番豊かってことかもね・・・


「編集後記」

これまで60回以上セミナーやセッションに参加していたTさんが3月17日に亡くなら
れました。
病名は肝硬変、まだ27歳という若さでした。
最後に会ったのは昨年末のピラミッドセミナーでした。
もうこの時には以前のような生気は見られず、ただ精神力だけでもっている感じでした。
再三お酒を止めるように言ったのですが、家族関係の軋轢から飲まずにはいられなか
ったようです。
仕事が変わり、収入が減って、あまりセミナーに参加できなくなってから、しばらくして
肝硬変で入院したという連絡がありました。
入院し、退院し、再入院した時点で、「もう懲りました。二度とお酒は飲みません」
という電話をもらい、喜んでいたのですが、やはり最後までお酒は止められなかった
ようです。

今の時代、魂はこのままでは今生の学びができないと見極めると、早めに肉体から
離れる決定をします。
そして、もう一度改めて生まれ変わることを選択します。
「このままじゃ死んじゃうよ」 と喉まで出かかったのですが、具合の悪そうな彼女を
目の前にして、それを言うことはできませんでした。
今となっては、もっときびしく言っておいたら・・・とも思うのですが・・・
3月29日が彼女の誕生日でした。
桜の花を見る前に散ってしまいました。
早く生まれ変わっておいで!そしたら、また会おう!
 『咲く前に 一人散りゆく 花一輪』
(何もしてやれなかったあなたに送る、せめてもの句(うた)だよ)

最近の研究によると ―
お酒は脳を溶かす物質を生み出す回路を頭の中につくってしまうそうです。
つまり、お酒を飲めば飲むほど脳が溶けていく・・・しかも、悪いことに、お酒を止め
ても、その回路はなくならない・・・
じゃあ、どうすればいいの?
とりあえずは、即刻、お酒を止めるしかなさそうです。
これ以上新たな回路ができるのを防ぐしかありません。
確かなことは、お酒を飲めば飲むほど頭がボケるということです。
お酒をたくさん飲んでいる人で、頭脳明晰な人はまずいません。
お酒を飲めば飲むほどクリアーでなくなるのは明らかです。
心身ともにクリアーでいたかったら、即刻、お酒を止めるしかないでしょう。
でも、クリアーであることよりも、お酒の方を選ぶ人も多いかもしれませんね。
それもそれぞれの選択ですが・・・

セミナーやセッション中は原則として禁酒禁煙です。
せっかく光が入っても、お酒やタバコがはいっていると、まずそれを抜くために光の
エネルギーが使われますので、もったいない限りです。
そのうえ、抜き始めるとお酒やタバコの匂いが周りにたちこめて・・・
まあ、自他のために禁酒禁煙にご協力ください。
クリアーな意識の状態というのは、本当に何も入っていない時なんです。
断食してみると、それがよ~くわかります。
さわやかに、クリアーに・・・
時代はそのように吹いています。


            T&F 光のネットワーク Light News Leeter №3より
          





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はじめに
2013-12-22 Sun 22:23
   このブログは、屋久島でヒーリングガイドをされているkimiさんの
   写真と文を、ぴあのがコーディネイトして紹介しています。

   お届けしている文章は、以下のものからです。

   1989年~1994年   K-Communication時代のもの
   (クリシュナムルティを原点としたコミュニケーション誌 - 全49冊 - より)

   1994年~2002年   T&F光のネットワーク時代のもの
   (精神世界のセミナーをされていた頃のニュースレター、レポート等より)

   2005年~現在     日記 『無色透明』 からのエッセンス

   お届けしている写真は、すべて屋久島のものです。
   写真をクリックしますと、1024サイズの大きな画像でご覧になれます。
   屋久島のいのちの写真を、どうぞ大きな画像からご堪能ください。
   そして、光のメッセージが ここを訪れてくださった方の何かのお役に
   たつことができましたら、うれしく思います。


       Twitterボタン
     

 
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苦労
2013-12-20 Fri 19:45

先日のコメント欄に次のような書き込みがあった。

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自分も両親からの支配という共依存関係に長年苦しみましたが、
感情的にもだいぶスッキリし、内面のバランスも整いつつあるので、
そろそろ次のステージに行けそうな予感がしています。

自我や恐れに基づいた人生も終わり、宇宙を信頼して委ねる時が来て
いるようです。

Kimiさんも家族関係やその生い立ちにおいて、いろいろご苦労があった
のですかね。
氣になるところです。

---------------------------------------------

Kimiさんは、家族関係やその生い立ちにおいて、いろいろご苦労があった
のだろうか。
以前は、たいへんご苦労があったと思っていた。
ところが、最近は何も思わない。
ご苦労とは・・・

極めて主観的なもの。
客観的な基準はない。
ある人にとっては苦労なことも、別の人にとっては苦労ではない。
本人が、苦労と捉えるかどうかの問題。

苦労とは、突きつめれば、思い込み。
それ以外に苦労などというものはない。
苦しみや悩みや心配も同じ。
それは、本人の主観的な問題。

それでも、「苦労」や「苦しみ」や「心配」などという言葉が存在するのは、
みんなに共通した何かがあるということでもある。
主観的なことではあるけれども、共通したものでもある。
そもそも「苦しい」とは、どういうことだろうか。

肉体的な痛みがある。
それが強いと苦しい。
心理的な痛みも同様。
それは、不快の極みということだろうか。

あるいは、違和感だろうか。
それとも、混乱だろうか。
はたまた、平安ではないということだろうか。
心身に異常があるということだろうか。

体の痛みとは、体の異常を知らせる信号。
それが強いと苦しみとなる。
それでは、心の痛みとは何だろうか。
それは、心が平常ではないということだろうか。

心が不安定であり、動揺しているということだろうか。
心が平衡をなくしているということだろうか。
それでは、心が平衡をなくすとは、どういう状態だろうか。
それは、心がショックを受けているということだろうか。

心の日常的平衡を乱すような衝撃的なことがあったということだろうか。
そのために心が動揺し、苦しんでいるということだろうか。
つまり、安定がなくなったので、安定を求めて苦しんでいるということだろうか。
不安定こそが、苦しみや苦労の原因だろうか。

心の平衡が破れるのは、思い込みが崩された時。
思わぬことを言われたり、予期せぬ事態が起こったり・・・
それで心は動揺する。
動揺した心は、安定を求める。

その安定が得られないと、苦労や苦しみというものが生じる。
体の異常は痛みとなり、心の異常は不安や心配や苦しみとなる。
それでは、そもそも安定とは何だろうか。
安定とは・・・

バランスが取れていること。
平穏に過ごせていること。
心身共に健康であること。
ところが・・・

ここに予期せぬ出来事が起きると、安定や平穏はもろくも崩れ去る。
ショックの程度にもよるが、不安定が長引くと苦しみや苦労というものが
生じてくる。
しかし、それは永遠に続くものではない。
また安定を取り戻せば解消される。

お金の苦労、体の苦労、人間関係の苦労・・・
いろんな苦労がある。
いずれも、不安定であることから生じる。
それが安定すれば、苦労は消える。

しかし、何をもって安定とするかは、個人差がある。
何によって不安定になるかも、個人差の世界。
では、心の安定をもたらすものは何だろうか。
逆に、心を不安定にするものは何だろうか。

先ずは、人生経験というものがある。
子供の頃は、キャパシティが小さい。
そのために、些細なことで苦しんだりもする。
人生経験を重ねて大人になると、多少のことでは苦しまなくなる。

それでは、どんどん人生経験を積めば苦労はなくなるのだろうか。
もしそうなら、歳を取れば取るほど苦労は減少することになる。
しかし、残念ながら現実はそうはなっていない。
それは、年齢とは関係ない。

むしろ、心のあり方の問題。
人生の捉え方の問題。
心が動揺しやすいのは、自己の利害が関わる時。
自分に関係がなければ、心が動揺することはない。

自分、自分の家族、自分の親しい人たち・・・
そういう人たちに関わることが起きると、心は動揺する。
つまり、自我。
自己の利益が、苦労の元。

自己の利害に敏感であると、不安定になりやすい。
つまり、苦労が絶えない。
自己の利害から離れれば離れるほど、苦労からも遠ざかる。
では、どうすれば自己の利害から離れられるのだろうか。

自己の利害は、肉体をベースにしている。
肉体の自己保存の本能が、自己の利害のベース。
それも生きるためには必要。
しかし、それだけでは心は動揺しやすくなって不安定。

主観だけでなく、客観的な視点を持つことだろうか。
自分を見守ることによって、自己の利害から離れることだろうか。
自己の利害から離れられれば、心は不安定になりにくくなる。
自分を客観視できれば、心は安定する。

主観も生きるためには必要。
しかし、主観だけでは心は安定しない。
主観と同時に客観も必要。
それによってバランスが取れる。

生きる主体としての主観。
それを見守る客観。
その両方によって心は安定する。
それは、個と全体の調和にもつながる。

個=主観だけで生きれば、みんなバラバラ。
社会の安定は望めない。
客観が入ることによって、全体的な安定が生まれる。
そのバランスと調和。

個と全体のバランス。
主観と客観のバランス。
自分も生き、みんなも生きるバランス。
自分だけよければいいというのは、心の安定にはつながらない。

つまり、自我で生きることは、心を不安定にする。
主観だけで生きることは、思い込みワールドに陥りやすい。
客観がないと、すぐに心は動揺する。
自己の利害にだけ敏感な人は、苦労が絶えない。

逆に言うと、客観をベースに生きれば、苦労はないということになる。
自分を勘定に入れなければ、苦労というようなものは存在しない。
自己の利害や安定を最優先するから、不安や心配や苦労が生じる。
客観が足りないと、心は安定しない。

独立した肉体をベースに生きている以上、主観はいやでも付いてくる。
それは、生きるために必要なもの。
しかし、それだけでは足りない。
主観と同時に客観も必要。

その客観が、苦労から自由にしてくれる。
苦労に翻弄されなくなる。
苦労という思い込みからの解放をもたらす。
客観ベースで生きれば、苦労というものの存在する余地はない。

過去の苦労は、思い込み。
自分が主観的に苦労と思っただけ。
そのように思わなければ、苦労というようなものはない。
ただの思い込みワールド。

主観オンリーの狭い了見で生きてきたために生じたものが、苦労。
客観ベースで生きれば、苦労はない。
自己の利害から離脱すれば、苦労というものは存在しない。
いかに自我ベースから離れるかということ。

子供の頃には、客観はない。
主観を発達させている時期なので、主観オンリー。
そのために、些細なことでも苦労が生じる。
特に思春期は自我を確立する時期なので、苦労が絶えない。

そのすべては、自己の確立のプロセス。
それも必要な過程。
しかし、いつまでもそこに留まっている必要はない。
次のステップへ進む時が来ている。

自分の立場。
そして、相手の立場。
その両方を理解する。
両方を客観的に見守る。

主観と共に客観。
主観ベースから客観ベースへ。
意識の変化と共に、人生も変わる。
苦労という言葉は、やがて過去の遺物となる。

自我から自我を超えたものへ。
それが、時代の流れ。
そのうちに苦労の存在しない世の中になる。
主観と客観が調和した世界となる。


『苦労とは 主観ベースの 思い込み それを見守り 超えていくこと』

『主観とは 肉体ベースの 狭い視野 意識広げて 自我を超越』

『主観から 主観と共に 客観へ 個と全体の 調和バランス』






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信じること
2013-10-21 Mon 19:27

信じると裏切られるは、一対。
信じることがなければ、裏切られることもない。
信じるが表で、裏切るが裏?

裏切られるのは、自分の思い込み。
裏切られるとは、想定外ということ。
想定内では、裏切られないことになっていた。
しかし、結果は想定外。
そこで、裏切られたと言って相手を非難する。
しかし、相手が裏切ったわけではない。
相手は自由に行動しただけ。
こちらが勝手に相手の動きを想定しただけ。
それが見事に外れたというだけのこと。

それは相手のせいではなく、まさに自業自得。
自分の想定ミス。
にもかかわらず、普通は相手を責める。
相手のせいで自分が被害をこうむったかのように主張する。
その時、自分の想定ミスは棚上げされている。

何度か裏切られる経験をすると、今度は裏切られるのが怖くなり、
誰も信じないようになる。
これ以上傷つくのがいやなので、自ら信じることを封印する。
でも、人を信じることができないと、さびしい。
結果、心が揺れ動く。
信じたいけど、信じられない。
信じれば裏切られそうで、もう一歩深く踏み込めない。
それが、あらゆる人間関係に影を投げかける。

信じても裏切られないものはないのだろうか。
それは永遠の真理だろうか。
人は信じても裏切られないものを求めて旅に出る。
精神世界という旅へ。
しかし、そこにも信じれば救われるという世界が広がっている。
救世主やメシアを信じる。
グルや教義を信じる。
生まれ変わりや永遠の魂を信じる。
天国や自己の成長を信じる。
それらを信じれば本当に救われるのだろうか。

救われる場合もある。
但し、それが永続するという保証はない。
いつ裏切られるかもしれない。
なぜなら、信じることと裏切られることは表裏一体だから。
それは精神世界も一般世界も変わらない。
自分の想定外のことが起きれば、いつでも裏切られる。
自分が想定した時点で、裏切られる準備をして待っているようなもの。
いつでも裏切られるスタンバイ状態。

相手は裏切ろうとは思っていない。
しかし、こちらの想定外のことをすると、裏切ったと見なされる。
それは精神世界、一般世界を問わない。
なにしろ信じる・裏切るの世界は、信じた人の想定範囲にかかっている。
その想定範囲が狭ければ、すぐに裏切られる。
想定範囲が広ければ、裏切られるのに時間の余裕がある。

信じれば、裏切られる!
場合が多い。
それは自分の狭い了見で信じるから。
想定範囲がこれまでの自分の人生に限定されているから。
人は自分の経験を通して物事を見ている。
結果、自分の過去からしか想定できない。
だから、不確定な未来に、すぐに裏切られてしまう。
未来は過去の繰り返しではない。
未来は常に想定外のことに満ちている。
信じた途端、同時に裏切られる高いリスクを背負うことになる。

それでも、信じる?
それとも、信じることをやめる?

絶対に裏切られることのないものがある!
と言ったら、信じる?
もう何も信じない?

絶対に裏切られないもの。
それは信じることの必要のないもの。
信じる・信じないの次元を超えたもの。
比較・相対の思考の次元を超えたもの。
そこでは、既に信じるという行為そのものが存在しない。
なぜなら、信じる必要がないから。
誰の目にも明らかなものは、信じる意味がない。

信じる・信じないという次元は、不明瞭な世界。
はっきりしないから、信じようとする。
あるいは、はっきりしないから、信じることを躊躇(ためら)う。
明確であれば、何も信じる必要はない。
信じなくてもクリアーに生きていける。

要は、そのようなクリアーな意識で生きることではないだろうか。
何事も明確に見えるクリアーな意識であれば、信じる必要はまったくない。
意識が曖昧だから、信じようとするだけ。
意識が明晰ならば、何も信じる必要はない。

そもそも信じるというのは、自分に自信がなくて、何かに寄りかかろうと
する行為ではないだろうか。
信じれば救われる?
から、信じようとする?
救いを求める弱い心?
自分の足だけでは立っていられない弱い意識?
だからこそ、救いを求める?

しかし、その救いは弱い意識が想定した範囲内のもの。
弱い意識は必死に縋(すが)ろうとするが、ガラスのように繊細な想定範囲は
すぐに破られてしまう。
疑いが生じ、やがて裏切られたという気持ちに変わる。
信じたものに裏切られるのに、そんなに時間はかからない。

何ものにも裏切られない生き方。
それは何も信じないこと。
何も信じないで、クリアーに生きること。
裏切られるのが怖いから信じないのではなく、信じる必要がないから信じない。
そういう選択肢もある。
ある次元まで行けば、そういう選択肢しかない。
信じる・信じないの次元を抜ければ、信念や信仰は無用の長物。
ただ事実と共に生きればいいだけ。

いつまでも信じる・信じないという曖昧な思考の次元にいないで、スッキリ
さわやか、クリアーな次元で生きればいい。
自分を理解すれば、その空間が待っている。
いつまでも泥沼の中で生きていたい?
それとも、泥沼から咲く蓮の花になる?





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グランディング
2013-08-20 Tue 11:59

先日、かなり精神的に混乱していると思われる方からメールを
いただいた。
20年近く精神的に悩んでこられた様子。
27歳の時にクンダリーニが中途半端に上昇。
それから低いエネルギー体が体内に侵入するようになる。
ヒーラーや霊能者巡りをしたけれども、効果なく現在に至っている。
ヒーリングも一人では行けない状態なので、遠隔治療になり、
お金がかかる。
現在、精神安定剤を服用しているけれども、あまり効果はなく、
邪魔が入って苦しい。
自分に適したヒーラーに出会えない。
無駄金ばかり使って、自分でも自分の状態がよく把握できていない。
そんな感じの内容だった。

メール自体に混乱があり、何を言いたいのか明確ではなかった。
でも、悩んでおられ、困っておられるのは十分伝わってきた。
それ以上に、混乱しておられることも・・・

この状態から立ち直るには、かなり時間を要するかもしれない。
しかし、その気になれば可能だろう。
しっかりグランディングすることだろうか。
ヒーラーや霊能者や医者に頼るのを一切やめて、地道に一歩から
やり直すのだ。
最初の一歩が最後の一歩。
最初にボタンを掛け違うと、最後までボタンがずれてしまう。

他の人に頼らない。
他の人のせいにしない。
自分で試行錯誤しながら、一歩一歩進んで行く。
一歩ずつでいいのだ。
完璧な答を期待しない。
真理は自分で発見するしかない。
それを肝に銘じることだろうか。

いったんすべてを手放す。
もう死んだつもりになって、精神安定剤もヒーラーも霊能者も医者も、
全部手放す。
なるようになる。
生きれるものであれば生きれるし、死ぬものであれば死ぬ。
そのくらいの覚悟がいるだろう。
その覚悟ができたら、救われる可能性がある。
全部手放せば、救われるのだ。
握っているものが多すぎるから、苦しい。
何も掴んでいなければ、なるようになる。
自然の流れと共に生きるだけだ。

地道に目の前の日常生活を一つ一つ行えばいい。
そうやっているうちに、本来の自分に戻れる。
自分の外のものに頼っている限りは、救われない。
自分で生きない限り、救われないのだ。
間違ってもいい。
失敗してもいい。
試行錯誤でいいのだ。
完璧を最初から求めない。
いろいろ試しながら成長すればいいのだ。
それがこの世の楽しみだ。

一歩一歩手探りで生きている。
一歩一歩着実に生きている。
それがグランディングしているということ。
一歩一歩自分の足で歩くこと。
一つ一つ自分の手で試してみること。
それがグランディングということなのだ。
自分の外に完璧を求めない。
自分の手足で自分と共に生きる。
それがグランディングなのだ。





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意識のクリスタル化
2013-05-27 Mon 20:13

苔の夢ーmoss-37_10



心配や不安によってパニックになるという人から電話があった。
体の状態が回復せず、どんどん悪化している。
それに伴って精神状態も混乱の度を増している。
もう自分をキープすることすら危うくなっている。

一人で泣き叫んでいるのを見られたら、精神に異常をきたしたと思われ
るだろう。
幸いなことに個室に入院しているので、精神病院送りとはなっていない。
しかし、誰も見ていない時には、物を投げたりの発作に見舞われる。
自分を傷つけようとする衝動に必死に耐えている。

肉体の痛みや衰弱に耐えかねて、精神が限界に達しようとしている。
時々は限界値を超えてパニックになる。
電話でも最近は泣き出すことが多い。
精神が不安定なのは間違いない。

潜在意識の闇の解放は、更に激しさを増していく。
それに耐えられるかどうか・・・
耐えられなければ、自己破壊へと進む。
精神分裂になりかねない。

出てくるものは、そのままでいい。
潜在意識から出てくるものを抑え込む必要はない。
抑圧しては、いつまで経っても解放されない。
抑え込まなくてもいいのだが・・・

それに負けてはいけない。
潜在意識の闇に呑み込まれて自分を喪失してはいけない。
しっかりと主体性をキープする必要がある。
つまり、見守り続けること。

しかし、必死で見守るのではない。
必死でやったら、それは自我になってしまう。
そうなると、潜在意識の闇と変わらない。
闇と自我との力比べになってしまう。

ここがポイントだろうか。
見守る際は、軽く見守る。
やさしく見守る。
ゆったりと見守る。

なに?
そんな余裕はない?
確かに。
潜在意識の闇に呑み込まれないだけで必死かもしれない。

それは、そうかもしれないが・・・
そこを軽く見守る。
楽に見守る。
それが、コツ。

闇にフォーカスしない。
見守りの方に意識のフォーカスを持っていく。
闇は、やり過ごす。
そのままにしておけばいい。

これから大切なのは、光。
光の方にフォーカスする。
闇は、出てくるままにしておく。
そうすれば、自然に解放される。

闇と対峙する必要はない。
不安や心配や恐れは、無視してもいい。
あまり気にせず、そのままにしておく。
意識は、常に光にフォーカスし続ける。

潜在意識をクリアーにするのに、クリスタルは役に立つ。
意識のクリスタル化。
これが、これからの時代に必要なもの。
だから、今、水晶を扱っている。

人類の潜在意識を大掃除する。
本来のピュアーな状態に戻す。
純粋な意識に回帰させる。
どこまでも透き通る意識・・・

それは、クリスタルに似ている。
それは、クリスタルとリンクしている。
最高のクリスタルが持つ透明性は、意識の透明性と繋がっている。
それが、今、水晶を集めている理由だろうか。

それを意識してやってきたわけではない。
結果的にそうなっている。
それは、今必要だから。
自分を含めて多くの人にとって必要だから。

人類の潜在意識は、あまりにも汚れてしまった。
それを浄化するのに、水晶は役に立つ。
それが水晶の役割の一つ。
意識のクリスタライズ・・・

意識を透明にしていく。
意識をピュアーにしていく。
意識を本来の純粋な状態にしていく。
限りなくクリアーなものにしていく。

それは、宇宙と繋がっている。
それは、全体と繋がっている。
それは、空と繋がっている。
それは、人の霊性と繋がっている。


『透き通る 意識の先は 限りなし この世を超えて 空に融け入る』


    「2497日目 - 意識のクリスタル化」 より転載




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心像風景
2013-04-02 Tue 11:09

同じ時代の同じ地球に生きていても、住んでいる世界は異なります。
幸せいっぱいのカップルもいれば、自殺する人もいます。
同じ時間と同じ場所で、天と地ほどの差があるのです。
心の世界は、一人一人異なります。

「三界は唯心の所産」とは、仏教の言葉です。
この世界は、心に映ずる世界に他ならないということです。
つまり、思いの世界です。
人は、思いの世界の住人なのです。

その思いが違えば、住む世界も異なります。
思いが創り出す、人生です。
天国も地獄も思いしだいです。
思いが、心の中に天国や地獄を創り出しているのです。

それは、可変的です。
今まで天国だったものが、地獄に一変することすらあります。
9回ツーアウトから逆転されれば、天国から地獄へ真っ逆さまです。
交通事故は、幸せの絶頂を一瞬にして吹き飛ばしてしまいます。

幸せも不幸も、思いです。
思いが創り出しているだけのものです。
思いを取り去れば、ただ事実があるだけです。
事実唯真です。

思いの世界を超えれば、思いによって振り回されることはありません。
思いの世界は、六道輪廻の世界です。
天国も地獄も、思いの世界です。
思いの表と裏みたいなものです。

買った負けだが、表裏一体であるのと同じです。
買った負けたと騒いでいるだけのことです。
サッカーに興味のない人にとっては、どうして死人まで出るの?
という感じです。

今、自分が不幸だと思っている人は、不幸と思い込んでいるだけのことです。
事実は、不幸でも幸福でもありません。
ただ事実があるだけです。
不幸も幸福も、相対比較の思いの世界です。

目の前の現実は、自分が創り出しているものです。
自分の心像風景を投影したものです。
自分自身が変われば、現実も変わります。
現実というのは、自分の捉え方なのです。

自分の捉え方以外の現実というものはありません。
自分が思い込んでいるものが、自分の現実となるのです。
自分がイメージしたものを現実化しているだけです。
それが、宇宙の構造です。

ですから、望みの現実を創造できます。
それが、現実創造です。
その現実化のスピードが、日増しに速くなっています。
それは、時代の波動が上がっているからです。

波動が低い間は、思いが現実化するのに多くの時間を必要としました。
しかし、それがだんだん短くなっています。
ということは、自分の思いがスピーディに現実化するということです。
この現実は、自分の心の所産なのです。

目の前の現実がいやだったら、自分の心を変えるしかありません。
思いを転換するのです。
思いが変われば、現実も変わります。
自分の心を深く感じてみることですね。

三界は、唯心の所現。
自分の心を外に見ているだけです。
自分の心を外に投影しているだけです。
それが、宇宙です。

神の心の現われが、宇宙です。
神も自分の心を外に見ているのです。
自分の心を外に映し出して楽しんでいるのです。
この宇宙の森羅万象は、神の心像風景です。

神は、自分に似せて人を創りました。
自分を理解することが、神を理解することです。
人は、神のミニチュアです。
まったく同じ構造です。

『現実は すべて心が 創り出す 自分自身の 心像風景』





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悪夢
2012-06-03 Sun 15:44
『悪夢』

ここのところ、連日、悪夢を見ている人がいるようだ。
もしかしたら、かなりの人が見ているのかもしれない。
既に悪夢を卒業した人もいる。
まだまだ悪夢を溜め込んでいる人もいる。

それぞれが、それぞれのペースで悪夢を解放している。
それは、自然現象ともリンクしている。
異常気象が続いている。
天変地異も後を絶たない。

すべてが、浄化に向かっている。
本来のシステムへの復元。
自我の我がままの終焉。
これまで溜まったカルマの解放。

カルマとは、我がまま。
自然を無視した恣意。
人間の都合に合わせた地球の破壊。
地球や自分自身の無理解。

理解が深まれば、恣意は許されなくなる。
自然と共に自然に生きるしかなくなる。
無知であるが故に、自然を破壊する。
未熟であるが故に、我がままになる。

悪夢とは、人間の我がままの解放。
人類規模での悪夢の解放が起きている。
もう我がままは、許されなくなっている。
本来の状態への回帰が始まっている。

悪夢を恐れる必要はない。
それは、潜在意識を大掃除しているだけ。
悪夢を見れば見るほど、潜在意識はきれいになる。
そう思っていれば、何も心配はない。

人類の蓄積された悪夢がある。
自分のなかにまだ悪夢の素材が残っている人は、人類の悪夢にコンタクトする。
悪夢を見ることは、自分の悪夢と同時に人類の悪夢も解放すること。
人類の役に立っていると思えば、気が楽。

大切なことは、悪夢に振り回されないこと。
ただ見守り、それ以上のことは何もしないこと。
必要以上に詮索しないこと。
ただ解放していると思い定めること。

やがて悪夢の種も尽きる。
今解放している人は、早目に解放に取り掛かった人。
まだまだ未解放の人が、圧倒的に多い。
重たい荷物を背負って生きている人の、なんと多いことだろう。

悪夢を解放すれば、心身共に軽くなる。
人生の新しいステージが開く。
そういう意味では、悪夢を見ることは喜ばしいこと。
別に嫌がることはない。

とは言っても、気分がよくないのは事実。
しかし、それも解放のプロセス。
自分が溜め込んできたものを解放しているだけ。
みんな手放して身軽になろうとしているところ。

それを潜在意識レベルでやっているのが、悪夢。
顕在意識レベルでやるのが、アクシデント。
この世的には、不幸と思える出来事。
そういうものも、悪夢の解放の一環。

何が起ころうと、静かに見守る。
冷静に対応する。
慌てて余計なことをしない。
ジタバタして自分を見失わない。

これまでしっかり掴んでいたものを解放するプロセスが続いている。
それは、人類規模での解放のプロセス。
早くやれば、早く楽になれる。
遅くやれば、いつまでも重たいまま。

しかし、それは、それぞれが決めること。
それぞれが、自分のペースで解放している。
早い遅いについては、コメントする立場にない。
ただ悪夢を見だしたら、悲観しないで喜んだ方がいい。

今の流れは、蓄積ではなく、解放。
古いものを一旦手放さなければ、新しいものはやってこない。
古いものが一掃された時に、まったく新しいものがやってくる。
それは、古いものを持っている限りわからない。

それぞれのペースなので、何とも言えない。
それでも、やっと本格的に手放すことが始まっている感じ。
かなりの人が、手放すことに本気で取り組んでいる。
それも表面だけでなく、潜在意識レベルから。

それでも、まだしっかり掴んで放さない人もいる。
やがてそういう人も手放す時がくる。
いつまでも握りしめていると、強制的に手放さざるを得なくなる。
無理やり、泣く泣く・・・

そうなる前に手放した方が、賢明というもの。
手放した時点から楽に生きられる。
たくさん持っていなくても、安心して生きることはできる。
たくさん持ち過ぎているから、安心して生きられない。

何かにすがって安心を得ようとするから、いつまでも不安が続く。
安心を得ようとすること自体に、不安がインプットされている。
安心は、得るものではない。
安心は、自分が安心そのものになること。

自分が安心そのものになれば、安心を得ようなどとは思わない。
安心そのものなので、不安もない。
安心という自覚さえない。
不安なので安心をほしがるだけ。

その不安の源は、自我として孤立して生きているから。
全体から分離した自我で生きている限り、孤独や寂しさは付いて回る。
自我から離れない限り、安心立命は得られない。
自分の外に求めても、永遠の青い鳥。

手放して、手放して、すべての拠り所を手放す。
悪夢というのは、自分の拠り所。
ネガティブなものも自分を守るための拠り所。
保身のために、しっかり掴んで放さないもの。

風のように、さわやかに生きる時代になる。
水のように、さらさらと流れる時代になる。
土のように、しっかりと安定した時代になる。
火のように、エネルギーで生きる時代になる。

新しい時代は、もう目の前。
そのための準備が続いている。
悪夢の解放も、そのためのプロセス。
軽やかに、さわやかに生きるための前段階。


『何もない 自分のものは 何もない それは幻想 ひとときの夢』



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動物食と植物食
2012-06-02 Sat 00:21

『動物食と植物食』

動物性のものを食べるということは、血を食べるということを意味します。
血は、最も酸化しやすいのです。
酸化したものを食べれば、肉体は老化します。

動物は殺される時、恐怖を感じます。
その恐怖は、血液に伝わります。
その血液を体内に入れれば、恐怖のエネルギーを心身に注入することになります。
恐怖は、心身を不安定にします。

心は暗くなり、イライラしやすくなります。
怒りや不必要な争いも起きやすくなります。
動物性のものをたくさん食べている人と、植物性のものだけを食べている人とでは、
精神状態が明らかに異なります。
動物性のものをたくさん食べると、どうしても波動が荒くなります。

そもそも植物性のものの方が、波動がこまやかです。
動物性のものは、波動が荒いのですね。
どういうものを食べるかで、心身は多大な影響を受けます。
食べものが絶対ではありませんが、影響がないということもありません。

なに?
すべてに感謝して食べれば、何を食べてもいい?
確かに。
そういうふうにも言えます。

但し、それにはものすごいエネルギーがいるでしょう。
酸化した肉や魚を体内に取り込めば、すぐに体内も酸化されます。
それを感謝によって酸化を防ぐことができるでしょうか。
心身共にものすごいエネルギー状態であれば、それも可能でしょう。

しかし、普通は酸化されたものを入れれば、肉体も酸化されます。
あるいは、同化するまでは酸化された状態です。
たとえ、酸化されたものを中和できたとしても、それだけのエネルギーロスが生じます。
元々酸化されていないものを食べていれば、無駄なエネルギーを消費する必要は
ありません。

即座に中和するだけのエネルギーがあれば、それもいいでしょう。
しかし、そういう人は稀です。
また、そういう人は、あまり動物性のものは食べていないでしょう。
やはり波動が精妙なものを入れている方が、心身は楽です。

外から入れたものは、異物です。
体内で同化する必要が生じます。
普通は、体内の方がエネルギーが高いのです。
だから、食事をすれば、波動が下がります。

それを上げるには、エネルギーが必要です。
できるだけ波動の高い状態に心身を維持したかったら、波動の高いものを食べた方が
いいでしょう。
動物性と植物性のものを比較したら、圧倒的に植物性の方が波動が高いのですよ。
それだけ体内に入れた時に、波動が下がりにくいということですね。

動物食というのは、死体を食べているようなものです。
植物食は、まだ生きています。
玄米は、水に浸ければ芽が出ます。
ニンジンやタマネギも、しばらく置いておくと芽が出たりします。

生きているものの方が、死体よりも波動が高いのは明らかでしょう。
加工食品よりも自然なものの方が、波動は高くなります。
農薬や化学肥料で育ったものよりも、自然農法や有機農法で育ったものの方が波動は
高いです。
不自然なものは、どうしても波動が低くなります。

合成保存料や合成着色料などが含まれているものも、波動は低くなります。
できるだけ自然なもの、いのちあふれるものを感謝していただくことではないでしょうか。
感謝することによって、波動は更に高くなります。
スピリチュアルなエネルギーが加わるからです。

時代の波動は、より精妙になっています。
精妙な心身をつくりあげるには、精妙な食べものを入れることです。
食べものの影響は、バカにできません。
毎日毎日体内に入れているのですから。

より高い波動のものを入れれば、心身共に高い波動を維持するのに役に立ちます。
しかし、それもこだわったり、囚われたりしないことですね。
理解した結果として、自然に行うことです。
頭だけで理解して、こうでなければならないと思い込むと、苦しくなります。

ただ理解して、素直に実行する。
ただそれだけですね。
観念で頭のなかを一杯にすると、波動は落ちます。
心身共にしなやかであることですね。

食事の量も、できるだけ少ない方が波動を高くキープできます。
外から食べものを入れることは、波動を下げることです。
スピリチュアルな精神の波動よりも高い食べものなど存在しません。
食べものは必要最小限の方が、波動を高く保つのには役に立ちます。

まあ、無理をしないで、ゆっくりやってください。
質の良いものを、少なめにじっくり味わって食べることですね。
繊細に、注意深く食べることですよ。
感謝しながら・・・

時代は、心身共に精妙に生きる方向に流れています。
食べるものも、その方向で食べた方がいいでしょう。
心も体も繊細に。
深く静かに生きる時代です。

『食べものも 食べる分量 食べ方も 繊細・精妙 波動を高く』



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井戸掘り
2012-05-27 Sun 21:34
『井戸掘り』

「私は、まだ信じ切れていないのかしら?」
と、彼女は言った。
信じる?
信じる・・・

何を信じるのだろうか。
神や仏?
宇宙?
自分自身?

こちらは、何も信じてはいない。
信じるという発想がない。
信じる必要がない。
信じるとは・・・

安心するためにする行為。
安心したいために信じる。
信じることによって自分の心を安定させたい。
しかし・・・

信じれば、同時に疑いが芽生える。
信じると疑うは、表と裏の関係。
信じれば、信じていいのだろうかという疑いが同時に意識化で誕生する。
作用があれば、反作用もある。

どうして信じたりするのだろうか。
それは、不安だから。
確信が持てないから。
自信がないから。

不安や心配から始まったものは、不安や心配に終わる。
いくら信じても不安は消えない。
なぜなら、信じる根底に不安があるから。
信じることのベースは、不信に他ならない。

こちらは、何も信じてはいない。
なぜなら、信じる必要がないから。
光と一体だから。
光そのものだから。

何が起きても、どんな状況になっても、何も不安はない。
いかなる心配もない。
不安や心配は、表面意識のもの。
深い意識には、不安や心配は存在しない。

どこにフォーカスし、どの次元で生きるか。
ただそれだけのこと。
この世バージョンで生きれば、不安や心配は絶えない。
物質や肉体に振り回される。

深く深く生きること。
それしかない。
それのみが、人を安定させる。
他に安定させられるものはない。

お金も財産も当てにはならない。
地位も名誉も何の役にも立たない。
家族や恋人も心変わりする。
会社も国もどうなるかわからない。

肉体も変化する。
心も変化する。
すべて変化する。
変化するものに依拠すれば、足下をすくわれる。

では、何が変化しないのか。
不動のものがあるのか。
安心立命できるものが存在するのか。
それは・・・

自分の意識の井戸を掘るしかない。
掘って水源を発見すること。
いのちの源を発見すること。
存在の根源を見い出すこと。

表層で生きないように。
地表のみで生きれば、地震に翻弄される。
肉体のみで生きれば、体調に翻弄される。
自我のみで生きれば、社会に翻弄される。

もっと深く。
更に深く。
どこまでも深く。
生きるしかない。




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無限
2012-04-28 Sat 07:01
                             
自由に生きればいいよね。
好きなように、思う存分生きればいい。
未来は無限だ。
何も執着することはない。
執着はみんな過去だ。
過去より未来の方が遙かに遙かに豊かなんだね。
それも無限の豊かさだ。
ささやかな過去に、なんで執着する必要があるんだろうね。
無限の未来に向かって、無限に自由に生きていけばいいんだよ。

宇宙は無限。
可能性も無限。
執着しなくても大丈夫。
いくらでも、どうにでもなるんだよ。
再体験したかったら、いくらでもできるよ。
無限の機会があるんだから。
なーんにも心配する必要はない。
ゆっくり、のんびり、大丈夫だ。




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