いのちの写真と光の言葉
鳥の声
2017-03-26 Sun 14:40

『鳥の声 自然のなかに こだまして 苦しみもなし 悲しみもなし』





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現実
2016-02-07 Sun 13:14
人は、結局、自分の望む現実を体験しているのだろうか。
いや、そんなことはない!
こんな現実なんか、ぜんぜん望んでいない!
と言う人もいるかもしれない。

しかし、やはり潜在意識のどこかで望んでいるのではないだろうか。
そうでなければ、このような現実があるはずがない。
確かに、表面意識では望んでいないかもしれない。
しかし・・・

潜在意識の奥では、密かに望んでいるのかもしれない。
本当は、今のような現実を体験したいのかもしれない。
それ以外に今のような現実が存在する理由がない。
望まない現実は、存在しえない。

表面意識と潜在意識は、必ずしも一致しない。
というより、異なる場合の方が多い。
すばらしい出会いもある。
しかし、出会わなければよかったと思う出会いもある。

表面意識では望んでいなくても、潜在意識では望んでいたりする。
潜在意識が望むから、望んだ通りの現実が目の前に現れる。
表面意識と潜在意識は、矛盾している。
それが、驚きや悲嘆をもたらす。

表面意識と潜在意識が融合すれば、現実に驚くことはなくなる。
なぜなら、自分の望んだ通りの現実が実現するだけだから。
表面意識が望まないことが、現実化することはなくなる。
すべては、思いのままとなる。

しかし、実際は望まない現実が出現する場合が多い。
なぜ?
どうして?
そうなるのだろうか。

潜在意識と一口に言っても、限りなく広い。
まずは、生まれてから今日までの意識。
その多くが、潜在意識となっている。
過去世の意識もある。

魂の意識もある。
グループソウルの意識もある。
そういうものが、すべて潜在意識となっている。
表面意識では気づいていない、大きな自分という存在。

そういう広い意味での潜在意識を理解するにつれて、サプライズは減っていく。
表面意識と潜在意識の乖離(かいり)が、少なくなっていく。
そうなると、自分の望むことが現実化していく。
自分自身を深く理解するまでは、現実が把握できない。

どうしてこんな現実が起きるのか。
どうして自分は、いつもこのようになるのか。
潜在意識にあるパターンが理解されない限り、同じことを繰り返すこととなる。
気がつくまで、アクシデントは起こり続ける。

人生とは、自分自身を見ているようなもの。
現実は、自分自身の写し鏡。
自分の望むものを外に現わし、それを堪能するのが宇宙の基本構造。
それは、人に限らず神もやっていること。

もし現実を変えたかったら、自分自身を理解すること。
自分自身を理解して、自分自身を変えること。
潜在意識を変えない限り、望む現実が起きてくるとは限らない。
すべては、自分自身のなかにある。

慌てることも、急ぐこともない。
人生は、自分の望む通りに展開している。
ただ、表面面意識には理解できないだけ。
もっと深く理解したかったら、自分の潜在意識を理解すること。

自分自身を深く理解して、潜在意識を変更する。
表面意識と潜在意識を融合させ、統合された自分自身となる。
そうすれば、意に反することは起きない。
望まぬ現実は、起こり得ない。

ゆっくり着実に自分自身と共に生きることだろうか。
現実から自分自身を理解することだろうか。
自分自身の気持ちを深く感じてみることだろうか。
目の前の現実をどうして望んでいるのかを・・・

深く深く感じていけば、現実は自分自身に他ならないのがわかる。
自分自身が創り出している自分自身の影。
自分の体の動きを変えれば、影もまた変わる。
現実とは、自分の影に過ぎない。

自分で自分を見ているのが、現実というもの。
自分のなかにあるものを外に写して、客観視しているだけ。
自分で自分を見ているのが、現実というドラマ。
それ以外にドラマの脚本はない。

自分の周りにあるすべての現実は、自分自身を見ているだけのこと。
それ以外の何ものでもない。
自分自身を深く理解すること。
自分のなかにすべてがある。




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何もしない
2015-11-23 Mon 09:24

『何もしない』

風邪をひいたらどうするか。
何もしない!
ただ静かに休む。
いのちに、すべて委ねる。

何もしなければ、どうなるか。
熱が出る。
頭が痛くなる。
節々も痛くなる。

何もしないでひたすら休んでいると、どうなるか。
体に溜まった老廃物が、熱によって融ける。
それが、汗によって体外に排出される。
頭の中に詰まっていたものは、頭痛によって解放される。

何もしなくても、体は自然に癒される。
いのちは、自然に本来の健全な状態に戻ろうとする。
疲れているから、風邪をひく。
風邪をひくということは、休みなさいというメッセージ。

風邪は、ゆっくり休んでいれば、何もしなくてもよくなる。
ところが・・・
これができない。
つい何かをしてしまう。

頭痛に耐えられない。
すぐに痛み止めを飲む。
熱を恐れる。
闇雲に解熱剤を入れる。

せっかく熱によって体を浄化しようとしているのを、邪魔する。
せっかく頭を調整しているのに、それをストップさせる。
薬を使えば、頭痛も熱も止む。
それだけのために、体の自然治癒力をだいなしにしてしまう。

それは、対症療法。
目先の解決。
なんら本質的な解決にはならない。
逆に解決を先延ばしにしているだけ。

解熱剤を飲めば、熱は下がる。
しかし、溜まっていた老廃物は融けない。
体内に溜まったまま。
せっかくのリフレッシュの機会を逸することになる。

頭痛薬を飲んでも、結果は同じ。
一時的に頭痛は消える。
しかし、詰まっていたものは、そのまま。
どんどん蓄積されるだけ。

頭痛は、頭に詰まっていたものをクリアーにするチャンス。
頭痛薬を飲んでしまえば、そのチャンスは消える。
解熱剤や頭痛薬は、症状を一時的に抑えるだけ。
なんら本質的な解決にはならない。

むしろ、事態を悪化させる。
よくなろうとする自然治癒力を妨げる。
そのまま経過すればスッキリするものを、途中で止めてしまう。
リフレッシュするチャンスを殺してしまう。

頭が痛い時は、頭が痛いままに。
熱が出る時は、熱が出るままに。
頭が痛くなったり熱が出るには、それなりの訳がある。
必要があってそうなっているものを、どうして人為的に止めようとするのだろうか。

それは、明らかに一時しのぎ。
その場さえ何とかなればいいというもの。
後先を考えない浅知恵。
そういう生き方をしていれば、いずれ行き詰るに決まっている。

自然に反した生き方をすれば、心身は不自然になる。
自然に反した生き方とは、自分勝手。
自然の働きを自分の都合でストップさせること。
そのような生き方をしていると・・・

健康でいることはできない。
自然は、循環とバランスで成り立っている。
それを途中で止めれば、すべてが狂ってしまう。
必要があって起きるものをストップさせれば、生体システムは混乱する。

そのようなことを続けていると、ある日、突然倒れる。
そうでなければ、アクシデントが起きる。
自分勝手に自然を乱したツケは、必ず払わされる。
自然の法則を犯せば、必然的に不自然な結果が生じる。

何もしない。
恣意的なことは、何もしない。
自然にまかせる。
体にまかせる。

目先の利益に惑わされて余計なことをするから、取り返しのつかないことになる。
苦痛を避けようとするから、更なる苦痛がやって来る。
やって来るものは、そのまま受けとめる。
自分勝手に選別しない。

自分に都合の良いものは、大歓迎。
自分に都合の悪いものは、拒絶。
それは、我がまま。
それは、反自然。

そういう生き方をしていると、どんどん自分が小さくなる。
キャパシティが、大きくならない。
来るものは、受けとめる。
去るものは、追わない。

病気であれ苦痛であれ、来るものは拒まない。
そのまま受けとめる。
受けとめて、抱きしめる。
抱きしめて、深く味わう。

病気の時は、病気のまま。
苦痛の時は、苦痛のまま。
選り好みしない。
すべてそのまま受けとめる。

何もしないとは、究極。
来るものは、拒まず。
去るものは、追わず。
それは、人に限らない。

あらゆる事象を、そのまま受けとめる。
病気も苦痛もアクシデントも。
天変地異さえ、そのまま受けとめる。
全宇宙を、そのまま受けとめる。

自分に起きることは、自分自身の投影。
自分自身が、引き起こしていること。
にもかかわらず、なぜ選り好みするのだろうか。
避けようとすれば、更に追いかけてくるものを・・・

それは、了見の狭い自我のなせる業(わざ)。
目先の利益だけに目がくらんだ自我の浅知恵。
物質に翻弄され、本質を忘却した自我の暴走。
表層で生きる自我の薄っぺらい人生。

もっとグランディングして生きないと。
しっかり地球に根ざして生きないと。
自然と共に自分の本質を生きないと。
表面だけを取り繕って、何のための人生だろうか。

風邪の時は、何もしない。
ただ静かに風邪と一緒にいる。
そうすれば、風邪は心身を浄化してくれる。
台風一過のさわやかさを体験させてくれる。

自然と共に生きる。
自然のリズムと共に生きる。
自我の選り好みをしないで生きる。
すべてを受けとめ、すべてと共に生きる。

『選り好み しないですべて 受けとめて 自然と共に 生きるしかない』




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心配
2015-10-21 Wed 12:23
心配とは、我が儘。
自分の望まない現実が起きることを恐れる心。
逆に言えば、自分の望む通りになってほしい心。
それ以外は認めない心。

人のことを心配する?
実は・・・
自分のことを心配しているだけ。
自分にとって都合の悪いことを避けたいだけ。

心配とは、エゴ。
エゴが、嫌な現実から逃げているだけ。
思いやりという美名の下、自分の思うようにしたいだけ。
望まない現実を拒絶しているだけ。

心配とは、事実を認めたくない心。
現実を思うようにコントロールしたい心。
自分の砦が崩れることを拒んでいるだけ。
しっかり自分の中に囲い込んでいたいだけ。

事実ベースで生きれば、心配はない。
ただ事実と共に生きるだけ。
どのような事実であれ、黙って受け入れる。
事実に即して生きるだけ。

心配は、事実を受け入れない。
自分の望まない現実を拒否する。
だから、心配する。
現実を望むように支配したいから・・・

どんな事実であれ、事実と共に生きる。
どんな現実であれ、そのまま直視する。
そうやって生きるしかない。
他に真実の道はない。

心配には、宇宙への信頼が欠如している。
小さな自我で、善し悪しを判断している。
自分のこれまでの経験に照らして決めつけている。
自分の価値観で、受け入れるかどうかを選択している。

全面的に受け入れようとはしない。
自分にとって都合の良いものだけを受け入れようとする。
都合の悪いものは拒絶する。
それこそが心配=自我の本質。

心配とは、エゴ。
自分を守りたいエゴの為せる技。
すべてを受け入れようとしない自分勝手。
自己中心的な我が儘。

しかし、心配している限り、心のやすらぎはない。
すべてを受け入れない限り、心が安定することはない。
心配している限りは、心は常に動揺している。
心配とは、心ここにあらずということ。

心配すれば、心は彷徨い、不安定になる。
自分自身へのグランディングはないに等しい。
意識が外に向くから、心配が起きる。
内に向けば、心配はない。

しっかりと自分自身を生きる。
自分自身の深さを生きる。
深い意識に心配はない。
深い意識にあるのは、信頼。

意識が深まれば深まるほど、心は安定する。
心配とは、波立つ表面の心。
自分の思うように支配したい心。
都合の悪いことを拒絶する心。

自分本位に選択していると、自分の望まない現実に出会った時に苦しむことになる。
すべてを受け入れない限り、苦しみから逃れることはできない。
自我とは、選択。
非自我とは、無選択。

心配したければ、心配してもいい。
でも、心配すればするほど、エネルギーは消耗する。
しょうも(う)ないことをやるから、消耗する?
ハイ、しょうもないギャグ。

心配とは、事実に反した行為。
現実に抵抗しているので、エネルギーはどんどん消耗していく。
事実に即して生きないと、抵抗や摩擦でエネルギーが消えてしまう。
それをやっている限り、自分自身を創造的に表現することはできない。

避けようとしているものは、何か。
守ろうとしているものは、何か。
自分の心配を見つめ、心配の本質を理解する。
自分がしっかり掴んでいるものは何だろう・・・?

自覚しない限り、心配に翻弄され、心配の虜となる。
心配の本質をわからなければ、自我のまま苦しむことになる。
避けることも守ることも苦しみの道。
ただ事実と共に生きるしかない。

いのちの限り、ただ事実と共に生きていく。
現実を支配しようとすれば、苦しみが待っている。
すべてを受け入れ、すべてを認めない限り、抵抗と摩擦で消耗してしまう。
事実と共に生きるのが最も楽な生き方。

どんな事実も、ありのまま受けとめる。
どんな事実も、拒否しない。
すべてを受け入れる時、人は愛に包まれる。
なぜなら、すべてを受け入れることが、愛だから。

愛は、すべてをありのまま受け入れる。
愛は、すべてをそのまま認める。
好きも嫌いもない。
ただただ、すべてをあたたかく包み込んでいるだけ。

無条件にすべてを受け入れる時、心配はない。
無条件にすべてを包み込む時、不安も恐れもない。
ただ限りない愛が降り注いでいるだけ。
まるで春の陽射しのように、あたたかいものに包まれているだけ。


『ありのまま 受け入れる時 心配は 消えて心は やすらぎのなか』




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不運
2015-08-16 Sun 09:01

次のようなコメントが届いた。

「自分の思ったようには生きれないこと多いです。
くじ引きといっても、あてずっぽうというのでもない。
前向きにこうしようと一応プランは練る・・・としても、
その通りになかなかいかない。
何とか、進むと横やりもある。
それを、不幸ととるか、おもしろいととるかってことはあっても、
自分の想いを押し通して生きるのは難しい。
まして、自分がしたくもない戦争に、自国が巻き込まれ、
空からやたらミサイルが落ちてくる状況にいて、
自分の人生を如何にクリエイトできるでしょう?
そういう、ついていないというか、不運というか、
どうしようもない状態ってあると思う。
この人生は、こうであったが、
次なる世界でも、周りに翻弄されざるを得ないのが続くのは
救いがないとやはり思うのです。」

「自分の想いを押し通して生きるのは難しい」

押し通すことはない。
自分の思い通りに生きればいいだけ。
素直で真っ直ぐならば、自分の思い通りの人生が展開する。
でも、ほとんどの人は素直でも真っ直ぐでもない。
思いが複雑に錯綜している。
だから、自分の思ったとおりの人生にならない。
ただ、それだけのこと。

多くの人は、人生は自分の思い通りにはならないものと諦めている。
まさに徳川家康の心境になっている。
人生は重き荷を負うて生きるがごとし・・・
そう思い込んでいれば、思い込んだ通りの人生になる。
人生は望み通りになると思えば、そのようになる。
そのようになるしかない。

実際には、過去の思いが現実に反映してくるので、タイムラグがある。
しかし、最終的には思った通りの人生になる。
なるしかないのだ。
思いが現実を創る。
それ以外に現実を創り出す要素はないのだから。
それが大原則なのだ。

先入観や偏見を捨てること。
人生は思った通りにはいかないという思い込みを手放すこと。
そうすれば、現実が変わる。
人生を自分の望むようにクリエイトできるようになる。

自分の人生を自分の手に取り戻そう。
自分の人生を訳のわからないものに支配させるのはやめよう。
しっかりと、はっきりと、自分の人生は自分が決めると決心する。
そうすれば、自分の人生になる。
それまでは、あなたまかせの運命に翻弄される人生だ。
それでは自分の人生であって、自分の人生ではない。
それも悪くはない。
自分でそれを選ぶのならば、何も言うことはない。
ただ、身の不幸を他の人や世間のせいにしていたのでは、
一生浮かばれることはない。
死んだ後も、浮かばれない。
浮かばれないのに、浮遊霊になってフワフワと浮いている、この不思議?

「まして、自分がしたくもない戦争に、自国が巻き込まれ、
空からやたらミサイルが落ちてくる状況にいて、自分の人生を
如何にクリエイトできるでしょう?」

そんなことを言ったら、戦争を止めることも、平和を実現することもできない。
何もできずに運命に翻弄されるだけ?
それだったら、確かに不運としか言いようがない。
どのような状況であれ、それを身の不運と嘆いた途端、
自分の人生を放棄したようなものだ。
「不運」というのは、自分のせいではないと宣言しているようなもの。
今の自分の状況は、何かのせいなのだ。
そう言った途端、自分の運命は自分の手から他人の手に渡ってしまう。
身の不運を嘆いている限り、幸せになることはできない。
それは自分の人生を自分でクリエイトできる権利を放棄したようなものだから。
自分の人生を他人のせいにしている限り、自分の思うような人生はやってこない。
それは自分の人生を他人に任せているようなものだ。

都合の悪いことは、みんな他人のせいにすることによって自己正当化する。
惨めな自分を認めたくないので、みんな世間のせいにする。
でも、それは一時しのぎに過ぎない。
結局、最終的には自分が更に惨めになるだけだ。
その状況から反転する機会を先に延ばすだけのこと。
惨めな時は、惨めなままでいるがいい。
そうすれば、陰極まれば陽となる。
すべては反転する。
しかし、すべて他人のせいにして自己保存を計っていたら、
反転する機会をみすみす逃してしまう。

事実をただありのまま受け止める。
誰のせいにも、何のせいにもしない。
ただ事実と共にいて、自分の生きる道を見極める。
自分の望む現実にシフトする。

人のせいや世間のせいにすることは、目の前の事実から目を背けることだ。
運命のせいにすることは、人生を切り開く努力を放棄することだ。
不可抗力と諦めることは、自分の無限の可能性を封じることだ。
どのような状況にあっても、冷静に自分の道を切り開く。
慌てなければ、自分を見失わなければ、道は必ず開く。
どうにもならないということはない。
それは、どうにもならないと思い込んでいるだけのこと。
最後の最後まで、ギリギリまで道を求めれば、道は必ず開く。

求める行為そのものが道を開く。
求めるという行為そのものに道が伴っているのだ。
求めることは同時に道が開くことでもある。
それは同時に存在するものなのだ。
求める行為だけが存在するということはない。
求めると同時に道も存在する。
陰だけがあることはない。
陰があるところには必ず陽がある。
陰陽で一組なのだ。

冷静であること。
自分を見失わないこと。
それさえ忘れなければ、必ず道は開く。
道が開くのではなくて、自分が道を開くのだ。
自分のエネルギーによって、自然に道が開くのだ。

諦めたら、そこですべてが終わる。
他人のせいにしたら、すべてがそこでストップする。
自分で道を開く可能性が消えてしまう。
冷静に、クリアーに・・・
見えない道は目の前にある。

「この人生は、こうであったが、次なる世界でも、周りに翻弄されざるを
得ないのが続くのは救いがないとやはり思うのです。」

周りに翻弄されざるを得ない?
翻弄されると思っている限り、翻弄されるだろう。
翻弄されるのを拒否し、自らの人生を歩む。
そう決意するまでは、翻弄人生が続く。
翻弄されて翻弄されて、浮き草のような人生を歩むといい。
そうしたければ、それも可能だ。
しかし、それは世間のせいでも不可抗力でもなく、自分が選んだ人生。
だから、それを変えることもできる。

世間のせいであり不可抗力であると認定すれば、
その途端、浮き草人生となる。
今生だけではなく、何回生まれ変わっても変わらない。
自分の思い込みが変わらない限り、翻弄人生が変わることはない。
運命であり宿命であると思っている限り、同じことの繰り返し。
無限に生まれ変わっても、無限に同じことの繰り返し。
それでは確かに救いようがないかもしれない。
しかし、真に救いようがないのは、救いがないと思い込んでいる心の方だ。
心が変われば救われる。
心が変わらない限り救われることはない。

周りに翻弄されるとか、誰か他人のせいとか、
世間や運命のせいにしている限り、被害者をやっていることになる。
被害者をやっている限り、幸せになることは絶対にあり得ない。
それはほとんど自虐的な行為だ。
自分を弱者にすることによって、自分を正当化する。
今の状況を他人のせいにすることによって、自己の責任を免れる。
単なる自己正当化ゲームなのだ。
自分のせいにしたくないので、他人のせいにしているだけ。
自分の人生に自分で責任を取らない限り、人生は変わらない。
人のせいにしている限り、周りに翻弄されるだけだ。

また次のような質問もあった。

「宇宙の元の元にひとつになるのに覚悟とか、やっぱりいるのですか?
そういうものだって、わかるだけでいいってわけにはいかないんですか?」

真にわかれば、覚悟はいらない。
真にわかれば、人生が変わる。
ただ、そのプロセスの中で、独り立つ時に覚悟みたいなものが
必要になる時があるかもしれない。
何にも依存しないで、独りあることができるだろうか。
森羅万象の中で、森羅万象を忘れ、独りあることができるだろうか。
もしそれができるならば、覚悟はいらない。
何もいらない。
既に、そこにはすべてがある。

宇宙の中で独りある時、宇宙がひとつになる。





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