The link at the date of the calendar is an entry.
傷つく
2018-07-20 Fri 11:00
【傷つけているつもりがなくても、こころが傷つけられることってありますよね。
そういうのって本人は気付かないのかとぼけられるんですよ~。
そういう嫌味にすっぽりとはまってしまいもう長いこと傷ついています。

最初はちょっと嫌だな~って思ってたくらいなのですが。
そのうちたまらなく嫌になってしまって。

そういう嫌味に傷ついたことってありませんか。?
傷つけている本人は気付いていない振りをしていますが。 】


傷つくことについては、この日記でも何回か書いてきたように思う。
それでも、まだ傷ついている人がいる?
それも長いこと傷ついている?
信じられない!

なぜ傷つくのだろう?
なぜわざわざ傷つくのだろうか。
傷つけば苦しいだろうに。
別に傷つかなくてもいいのに。
なぜ?

そもそも、傷つくとはどういうことだろう?
何が傷ついているのだろうか。
そのあたりが理解されていないから傷つくのだろうか。

問題は、相手が傷つけるつもりがあるかどうかではない。
相手に傷つけるつもりがなくても、傷つく人は傷つく。
相手に傷つけるつもりがあっても、傷つかない人は傷つかない。
それは何を意味するのだろうか。

相手に傷つけるつもりがあろうとなかろうと、傷つく人は傷つく。
傷つかない人は傷つかない。
それが事実。
ということは?

自損自傷?
自尊心が高すぎるので傷つく?
自意識過剰?
少なくとも、誰かのせいでないのは確か。

あの人のせいで自分は傷ついたと思っている。
あの人に自分は傷つけられたと思っている。
しかし、同じような状況でも傷つかない人もいる。
あの人のせいとは言い切れない。

何を言われようと傷つかないことも可能。
傷つく用意ができていなければ、人は傷つかない。
相手の言うことを歯牙にもかけなければ、傷つくことはできない。
傷つきたくても傷つけない。

相手の言うことが気になる?
何と言われているのか気にかかる?
自分のことをどう思われているのか心配?
そういう人は、傷つく準備ができていることになる。

自分を強く意識していると、傷つきやすくなる。
自分に自信がないと、更に傷つきやすくなる。
周りの目を気にしていると、更に更に傷つきやすくなる。
それは傷つくためのスタンバイ状態にあると言っても過言ではない。

自分を意識し、自分に自信がなく、周りの目を気にしている・・・
それは、まるで薄い氷の上を歩いているようなもの。
いつでも傷つけてくださいと言いながら生きているようなもの。
それでは些細なことにも傷ついてしまう。

傷つくとはどういうことだろう?
何が傷つくのだろうか。
傷つくものは、自分のプライド?
それとも、自尊心?

それでは、プライドとは?
自尊心とは?
それは思い込みの別名だろうか。
自分に対して持っている自分のイメージ。

そのイメージと懸け離れたことを言われると傷つく?
「頭悪いんだから!」
「こんなこともわからないの!」
「なんてセンスがないの!」

自分では、そんなふうには思っていない。
少しは思っていても、面と向かって言われたくない。
自分の存在を否定するような言葉に傷ついてしまう。
相手のトゲが心に刺さる。

隙があると、刺される。
しっかりガードしていないと、刺される。
心を開いたら、危ない。
いつもしっかりガードしていないと・・・

暖簾(のれん)に腕押し。
糠(ぬか)に釘。
叩かれても刺されても、ビクともしない人もいる。
大きな包容力で包み込める人もいる。

相手を理解するのではなく、自分のことだけに意識が向いていると、傷つきやすくなる。
自分に対する思い込みが多いと、傷つきやすくなる。
事実ベースではなく、思い込みベースで生きていると、傷つきやすくなる。
傷つくのは、思い込み。
事実は傷つかない。

自分の思い込みが否定される時、人は自分が否定されたような錯覚に陥る。
その時、自分は傷つけられたと思う。
相手は傷つけた人にされてしまう。
相手にその意図があろうとなかろうと。

自分の思い込みと別のことを言われると、自分が否定されたように思い込む。
そして、勝手に傷つく。
自損自傷?
誰も傷つけてはいない。

自分が傷ついたことを正当化するために、人のせいにする。
人によって自分は傷つけられたと思い込む。
そもそも、人によって自分は傷つけられるものと思い込んでいる。
自分は傷つく弱いものだという思い込みがある。

傷つくとは何?
その本質を理解することなく、傷つくことを前提として生きている。
人生の無理解。
無明!

自分自身に光を当て、自分の無意識を照らし出さない限り、人は成長過程の刷り込みのままに生きるしかない。
家族や社会の固定観念や偏見のままに一生を終わることになる。
人は自分を知らない。
自分の意識構造を理解していない。
無意識のままに社会常識に振り回されているだけ。

傷つくのが当たり前。
傷つくということの本質を見極めることなく、社会の常識を鵜呑みにして生きている。
成長過程で刷り込まれた価値観のままに人生を過ごしている。
自分自身を理解することなく・・・

自分の中の思い込みワールドを、もう一度点検してほしい。
何が傷ついているのか、はっきりと見極めてほしい。
そうしない限り、一生周りに振り回されるだけ。
自分の人生とは名ばかり。
人のせいにして、周りに翻弄されて終わる人生となる。

自分を見つめる。
自分を理解する。
そうしない限り、自由はない。
ただ過去に縛られた人生があるだけ。

ゆっくりと落ち着いて、自分自身を見つめてほしい。
焦る必要はないので、じっくり自分自身を理解しようとしてほしい。
理解の先に自由がある。
理解がなければ、過去に束縛された人生があるだけ。

思い込みワールドから、真の自由へ。
思い込みワールドから脱しない限り、アセンションはあり得ない。
新しい世界は開かない。
思い込みワールドの中に真実はない。
ただ自分の思い込みの中で生きているだけ・・・






別窓 | 未分類 | コメント:0
何もしない
2018-03-05 Mon 12:13

風邪をひいたらどうするか。
何もしない!
ただ静かに休む。
いのちに、すべて委ねる。

何もしなければ、どうなるか。
熱が出る。
頭が痛くなる。
節々も痛くなる。

何もしないでひたすら休んでいると、どうなるか。
体に溜まった老廃物が、熱によって融ける。
それが、汗によって体外に排出される。
頭の中に詰まっていたものは、頭痛によって解放される。

何もしなくても、体は自然に癒される。
いのちは、自然に本来の健全な状態に戻ろうとする。
疲れているから、風邪をひく。
風邪をひくということは、休みなさいというメッセージ。

風邪は、ゆっくり休んでいれば、何もしなくてもよくなる。
ところが・・・
これができない。
つい何かをしてしまう。

頭痛に耐えられない。
すぐに痛み止めを飲む。
熱を恐れる。
闇雲に解熱剤を入れる。

せっかく熱によって体を浄化しようとしているのを、邪魔する。
せっかく頭を調整しているのに、それをストップさせる。
薬を使えば、頭痛も熱も止む。
それだけのために、体の自然治癒力をだいなしにしてしまう。

それは、対症療法。
目先の解決。
なんら本質的な解決にはならない。
逆に解決を先延ばしにしているだけ。

解熱剤を飲めば、熱は下がる。
しかし、溜まっていた老廃物は融けない。
体内に溜まったまま。
せっかくのリフレッシュの機会を逸することになる。

頭痛薬を飲んでも、結果は同じ。
一時的に頭痛は消える。
しかし、詰まっていたものは、そのまま。
どんどん蓄積されるだけ。

頭痛は、頭に詰まっていたものをクリアーにするチャンス。
頭痛薬を飲んでしまえば、そのチャンスは消える。
解熱剤や頭痛薬は、症状を一時的に抑えるだけ。
なんら本質的な解決にはならない。

むしろ、事態を悪化させる。
よくなろうとする自然治癒力を妨げる。
そのまま経過すればスッキリするものを、途中で止めてしまう。
リフレッシュするチャンスを殺してしまう。

頭が痛い時は、頭が痛いままに。
熱が出る時は、熱が出るままに。
頭が痛くなったり熱が出るには、それなりの訳がある。
必要があってそうなっているものを、どうして人為的に止めようとするのだろうか。

それは、明らかに一時しのぎ。
その場さえ何とかなればいいというもの。
後先を考えない浅知恵。
そういう生き方をしていれば、いずれ行き詰るに決まっている。

自然に反した生き方をすれば、心身は不自然になる。
自然に反した生き方とは、自分勝手。
自然の働きを自分の都合でストップさせること。
そのような生き方をしていると・・・

健康でいることはできない。
自然は、循環とバランスで成り立っている。
それを途中で止めれば、すべてが狂ってしまう。
必要があって起きるものをストップさせれば、生体システムは混乱する。

そのようなことを続けていると、ある日、突然倒れる。
そうでなければ、アクシデントが起きる。
自分勝手に自然を乱したツケは、必ず払わされる。
自然の法則を犯せば、必然的に不自然な結果が生じる。

何もしない。
恣意的なことは、何もしない。
自然にまかせる。
体にまかせる。

目先の利益に惑わされて余計なことをするから、取り返しのつかないことになる。
苦痛を避けようとするから、更なる苦痛がやって来る。
やって来るものは、そのまま受けとめる。
自分勝手に選別しない。

自分に都合の良いものは、大歓迎。
自分に都合の悪いものは、拒絶。
それは、我がまま。
それは、反自然。

そういう生き方をしていると、どんどん自分が小さくなる。
キャパシティが、大きくならない。
来るものは、受けとめる。
去るものは、追わない。

病気であれ苦痛であれ、来るものは拒まない。
そのまま受けとめる。
受けとめて、抱きしめる。
抱きしめて、深く味わう。

病気の時は、病気のまま。
苦痛の時は、苦痛のまま。
選り好みしない。
すべてそのまま受けとめる。

何もしないとは、究極。
来るものは、拒まず。
去るものは、追わず。
それは、人に限らない。

あらゆる事象を、そのまま受けとめる。
病気も苦痛もアクシデントも。
天変地異さえ、そのまま受けとめる。
全宇宙を、そのまま受けとめる。

自分に起きることは、自分自身の投影。
自分自身が、引き起こしていること。
にもかかわらず、なぜ選り好みするのだろうか。
避けようとすれば、更に追いかけてくるものを・・・

それは、了見の狭い自我のなせる業(わざ)。
目先の利益だけに目がくらんだ自我の浅知恵。
物質に翻弄され、本質を忘却した自我の暴走。
表層で生きる自我の薄っぺらい人生。

もっとグランディングして生きないと。
しっかり地球に根ざして生きないと。
自然と共に自分の本質を生きないと。
表面だけを取り繕って、何のための人生だろうか。

風邪の時は、何もしない。
ただ静かに風邪と一緒にいる。
そうすれば、風邪は心身を浄化してくれる。
台風一過のさわやかさを体験させてくれる。

自然と共に生きる。
自然のリズムと共に生きる。
自我の選り好みをしないで生きる。
すべてを受けとめ、すべてと共に生きる。







別窓 | 未分類 | コメント:0
カルマ
2017-04-16 Sun 20:06

カルマというのは、自分の中にある。
自分の中に生きている。
カルマに負けるのも、カルマを乗り越えて行くのも自分しだい。

突然、理不尽なことを言われる。
どうにも納得のいかないことをされる。
思ってもみないような事態が起きる。
そういう時に、どうするか。
それがカルマの行く末を決める。

反発し、怒り、争う。
現実をはね除けるために戦う。
それも一つの生き方。

恐れ、萎縮し、恨み、憎む。
現実から逃避し、自分の世界に引き籠もる。
それもまた人生。

基本は、そのどちらかのパターン。
各人は、そのバリエーション。
反発するか萎縮するか。
外に向かうか内に向かうか。

どちらのパターンをやっても、カルマは解消されない。
外に向かえば、更に争いのカルマを積み重ねることになる。
内に向かえば、孤独と絶望のカルマパターから抜けられなくなる。

いずれも自分を見失っている。
ただ状況に反応しているだけ。
パターン通りに行動しているだけ。
カルマに翻弄されて生きているに過ぎない。

それではカルマの理解は起きない。
いつまでもカルマに振り回される人生が続く。
しっかり自分自身にグランディングできていない。
ただ状況に左右されているだけ。

戦って相手を抑え込もうとするか、それとも、恐れをなして逃げ回るか。
極めて単純。
間違っても、相手を理解しようとはしない。

相手を理解する。
相手の言いたいことをわかろうとする。
相手の行動の真意を理解するように努める。
キーワードは、理解と冷静さ。

しっかり自分自身にグランディングして、冷静に対応する。
何を言いたいのか理解に努める。
客観的に判断し、冷静に対応する。
けっして感情的に反発しない。

じっと踏みとどまる。
冷静に聞く。
冷静に見る。
そして、理解する。

自分のできること、できないこと。
冷静に相手に伝える。
そこで自己中心的になると、トラブルが発生する。
冷静さを見失うと、カルマの鎖に呑まれてしまう。

できるだけ相手の気持ちを尊重する。
相手の気持ちをわかり、十分に受け止める。
それから行動する。
自動的に反応しない。

自動的に反応している限り、カルマの鎖から自由にはなれない。
怒りに怒りで応じている限り、カルマの連鎖は続く。
攻撃に攻撃で反応している限り、カルマから自由になることはできない。
すべてを受け止め、理解し、冷静に対応する。
その意識があるかどうか。
それがカルマからの自由を決めていく。

自分の中の傾向に負けない。
癖、パターン。
無意識であれば、それらのままに突き動かされる。
反応のままで人生が終わる。
カルマは解消されないで次の世まで続く。

カルマは、時間の経過と共に自然に現れてくる。
現れる時は、消える時。
そのままにしておけば、自然に消えていく。
しかし・・・

それに対して自動的に反応すれば、また新たなカルマをつくってしまう。
それでは、いつまで経ってもカルマは消えない。
無意識で反応している限りは、カルマの鎖が途切れることはない。
しっかりと意識すること。
明確に自覚すること。
それなくしてカルマからの自由はない。

自動的な反応から自由になるためには、注意深く生きるしかない。
自動的に反応している自分に気づくこと。
イージーに生きていると、自動反応の虜。
いつまで経っても、カルマから自由にはなれない。

真剣に注意深く生きる。
そのように生きていると、自然に注意深さが働くようになる。
いろんなことに自然に気づけるようになる。
自分自身の反応が見えてくる。

カルマから自由になりたかったら、真剣に注意深く生きること。
それ以外にカルマから自由になる道はない。

誰かにカルマを断ってもらう?
そんなことをしても、あまり意味はない。
自分で自覚できない限り、パターンは変わらない。
いつのまにか新しいカルマを再生産するだけ。

自分で自覚しない限り、真の自由はない。
他力本願では、依存心を生むだけ。
依存があるところに自由はない。

正真正銘自由に生きるためには、注意深く自分自身を理解していくしかない。
理解の後に自由がある。
自由を制限しているのは、結局は自分自身。
自分以外に心の自由を縛ることができる人はいない。

新興宗教の教祖は?
メシアは?
誰であれ、本人が信じ込まない限り、人を縛ることはできない。
自縄自縛。
それが真実。

だからこそ、自分自身を理解すること。
自分自身を理解すれば、縛っていたものを解くことができる。
自分を縛っているもの。
それは無意識という闇。
無自覚という無明。

無明とは、光がないこと。
意識とは、光。
無意識は、闇。

見るという光の意識を持ち込まない限り、カルマという闇の連鎖を断ち切ることはできない。
意識は光。
カルマは闇。

すべてを意識化する。
意識化するということは、光化するということ。
意識化するということは、明確に自覚するということ。
気づくということ。

無明の闇の中を彷徨う時は終わろうとしている。
光を灯し、光の中を歩く時が近づいている。
光とは、自分自身の意識。
明確に自覚すること。
自分の闇を自覚すること。

自分の闇に光を当てることによって、光は強くなる。
意識は一段と光り輝く。
闇を照らすことこそが光を強める道。
本来の光に戻る道。

意識とは、光。
人は、光。
人の本質は、光。
その光に目覚める時。
それが今。

カルマとは、光が足りないということ。
無自覚のままに闇に翻弄されてきたということ。
何もわからないまま、カルマの虜になっていたということ。

しっかりと闇に光を当てる。
明確に意識化する。
それは自分の光を輝かせることでもある。

闇を恐れることはない。
闇とは、ただ光がないだけ。
光を当てれば闇は消える。
自覚されれば、カルマは消える。
闇とは、無意識。
カルマとは、無自覚。

人は、光。
意識は、光。
光として生きていく。






別窓 | 未分類 | コメント:0
鳥の声
2017-03-26 Sun 14:40

『鳥の声 自然のなかに こだまして 苦しみもなし 悲しみもなし』





別窓 | 未分類 | コメント:0
現実
2016-02-07 Sun 13:14
人は、結局、自分の望む現実を体験しているのだろうか。
いや、そんなことはない!
こんな現実なんか、ぜんぜん望んでいない!
と言う人もいるかもしれない。

しかし、やはり潜在意識のどこかで望んでいるのではないだろうか。
そうでなければ、このような現実があるはずがない。
確かに、表面意識では望んでいないかもしれない。
しかし・・・

潜在意識の奥では、密かに望んでいるのかもしれない。
本当は、今のような現実を体験したいのかもしれない。
それ以外に今のような現実が存在する理由がない。
望まない現実は、存在しえない。

表面意識と潜在意識は、必ずしも一致しない。
というより、異なる場合の方が多い。
すばらしい出会いもある。
しかし、出会わなければよかったと思う出会いもある。

表面意識では望んでいなくても、潜在意識では望んでいたりする。
潜在意識が望むから、望んだ通りの現実が目の前に現れる。
表面意識と潜在意識は、矛盾している。
それが、驚きや悲嘆をもたらす。

表面意識と潜在意識が融合すれば、現実に驚くことはなくなる。
なぜなら、自分の望んだ通りの現実が実現するだけだから。
表面意識が望まないことが、現実化することはなくなる。
すべては、思いのままとなる。

しかし、実際は望まない現実が出現する場合が多い。
なぜ?
どうして?
そうなるのだろうか。

潜在意識と一口に言っても、限りなく広い。
まずは、生まれてから今日までの意識。
その多くが、潜在意識となっている。
過去世の意識もある。

魂の意識もある。
グループソウルの意識もある。
そういうものが、すべて潜在意識となっている。
表面意識では気づいていない、大きな自分という存在。

そういう広い意味での潜在意識を理解するにつれて、サプライズは減っていく。
表面意識と潜在意識の乖離(かいり)が、少なくなっていく。
そうなると、自分の望むことが現実化していく。
自分自身を深く理解するまでは、現実が把握できない。

どうしてこんな現実が起きるのか。
どうして自分は、いつもこのようになるのか。
潜在意識にあるパターンが理解されない限り、同じことを繰り返すこととなる。
気がつくまで、アクシデントは起こり続ける。

人生とは、自分自身を見ているようなもの。
現実は、自分自身の写し鏡。
自分の望むものを外に現わし、それを堪能するのが宇宙の基本構造。
それは、人に限らず神もやっていること。

もし現実を変えたかったら、自分自身を理解すること。
自分自身を理解して、自分自身を変えること。
潜在意識を変えない限り、望む現実が起きてくるとは限らない。
すべては、自分自身のなかにある。

慌てることも、急ぐこともない。
人生は、自分の望む通りに展開している。
ただ、表面面意識には理解できないだけ。
もっと深く理解したかったら、自分の潜在意識を理解すること。

自分自身を深く理解して、潜在意識を変更する。
表面意識と潜在意識を融合させ、統合された自分自身となる。
そうすれば、意に反することは起きない。
望まぬ現実は、起こり得ない。

ゆっくり着実に自分自身と共に生きることだろうか。
現実から自分自身を理解することだろうか。
自分自身の気持ちを深く感じてみることだろうか。
目の前の現実をどうして望んでいるのかを・・・

深く深く感じていけば、現実は自分自身に他ならないのがわかる。
自分自身が創り出している自分自身の影。
自分の体の動きを変えれば、影もまた変わる。
現実とは、自分の影に過ぎない。

自分で自分を見ているのが、現実というもの。
自分のなかにあるものを外に写して、客観視しているだけ。
自分で自分を見ているのが、現実というドラマ。
それ以外にドラマの脚本はない。

自分の周りにあるすべての現実は、自分自身を見ているだけのこと。
それ以外の何ものでもない。
自分自身を深く理解すること。
自分のなかにすべてがある。




別窓 | 未分類 | コメント:0
| いのちの島=屋久島 | NEXT