いのちの写真と光の言葉
カルマ
2017-04-16 Sun 20:06

カルマというのは、自分の中にある。
自分の中に生きている。
カルマに負けるのも、カルマを乗り越えて行くのも自分しだい。

突然、理不尽なことを言われる。
どうにも納得のいかないことをされる。
思ってもみないような事態が起きる。
そういう時に、どうするか。
それがカルマの行く末を決める。

反発し、怒り、争う。
現実をはね除けるために戦う。
それも一つの生き方。

恐れ、萎縮し、恨み、憎む。
現実から逃避し、自分の世界に引き籠もる。
それもまた人生。

基本は、そのどちらかのパターン。
各人は、そのバリエーション。
反発するか萎縮するか。
外に向かうか内に向かうか。

どちらのパターンをやっても、カルマは解消されない。
外に向かえば、更に争いのカルマを積み重ねることになる。
内に向かえば、孤独と絶望のカルマパターから抜けられなくなる。

いずれも自分を見失っている。
ただ状況に反応しているだけ。
パターン通りに行動しているだけ。
カルマに翻弄されて生きているに過ぎない。

それではカルマの理解は起きない。
いつまでもカルマに振り回される人生が続く。
しっかり自分自身にグランディングできていない。
ただ状況に左右されているだけ。

戦って相手を抑え込もうとするか、それとも、恐れをなして逃げ回るか。
極めて単純。
間違っても、相手を理解しようとはしない。

相手を理解する。
相手の言いたいことをわかろうとする。
相手の行動の真意を理解するように努める。
キーワードは、理解と冷静さ。

しっかり自分自身にグランディングして、冷静に対応する。
何を言いたいのか理解に努める。
客観的に判断し、冷静に対応する。
けっして感情的に反発しない。

じっと踏みとどまる。
冷静に聞く。
冷静に見る。
そして、理解する。

自分のできること、できないこと。
冷静に相手に伝える。
そこで自己中心的になると、トラブルが発生する。
冷静さを見失うと、カルマの鎖に呑まれてしまう。

できるだけ相手の気持ちを尊重する。
相手の気持ちをわかり、十分に受け止める。
それから行動する。
自動的に反応しない。

自動的に反応している限り、カルマの鎖から自由にはなれない。
怒りに怒りで応じている限り、カルマの連鎖は続く。
攻撃に攻撃で反応している限り、カルマから自由になることはできない。
すべてを受け止め、理解し、冷静に対応する。
その意識があるかどうか。
それがカルマからの自由を決めていく。

自分の中の傾向に負けない。
癖、パターン。
無意識であれば、それらのままに突き動かされる。
反応のままで人生が終わる。
カルマは解消されないで次の世まで続く。

カルマは、時間の経過と共に自然に現れてくる。
現れる時は、消える時。
そのままにしておけば、自然に消えていく。
しかし・・・

それに対して自動的に反応すれば、また新たなカルマをつくってしまう。
それでは、いつまで経ってもカルマは消えない。
無意識で反応している限りは、カルマの鎖が途切れることはない。
しっかりと意識すること。
明確に自覚すること。
それなくしてカルマからの自由はない。

自動的な反応から自由になるためには、注意深く生きるしかない。
自動的に反応している自分に気づくこと。
イージーに生きていると、自動反応の虜。
いつまで経っても、カルマから自由にはなれない。

真剣に注意深く生きる。
そのように生きていると、自然に注意深さが働くようになる。
いろんなことに自然に気づけるようになる。
自分自身の反応が見えてくる。

カルマから自由になりたかったら、真剣に注意深く生きること。
それ以外にカルマから自由になる道はない。

誰かにカルマを断ってもらう?
そんなことをしても、あまり意味はない。
自分で自覚できない限り、パターンは変わらない。
いつのまにか新しいカルマを再生産するだけ。

自分で自覚しない限り、真の自由はない。
他力本願では、依存心を生むだけ。
依存があるところに自由はない。

正真正銘自由に生きるためには、注意深く自分自身を理解していくしかない。
理解の後に自由がある。
自由を制限しているのは、結局は自分自身。
自分以外に心の自由を縛ることができる人はいない。

新興宗教の教祖は?
メシアは?
誰であれ、本人が信じ込まない限り、人を縛ることはできない。
自縄自縛。
それが真実。

だからこそ、自分自身を理解すること。
自分自身を理解すれば、縛っていたものを解くことができる。
自分を縛っているもの。
それは無意識という闇。
無自覚という無明。

無明とは、光がないこと。
意識とは、光。
無意識は、闇。

見るという光の意識を持ち込まない限り、カルマという闇の連鎖を断ち切ることはできない。
意識は光。
カルマは闇。

すべてを意識化する。
意識化するということは、光化するということ。
意識化するということは、明確に自覚するということ。
気づくということ。

無明の闇の中を彷徨う時は終わろうとしている。
光を灯し、光の中を歩く時が近づいている。
光とは、自分自身の意識。
明確に自覚すること。
自分の闇を自覚すること。

自分の闇に光を当てることによって、光は強くなる。
意識は一段と光り輝く。
闇を照らすことこそが光を強める道。
本来の光に戻る道。

意識とは、光。
人は、光。
人の本質は、光。
その光に目覚める時。
それが今。

カルマとは、光が足りないということ。
無自覚のままに闇に翻弄されてきたということ。
何もわからないまま、カルマの虜になっていたということ。

しっかりと闇に光を当てる。
明確に意識化する。
それは自分の光を輝かせることでもある。

闇を恐れることはない。
闇とは、ただ光がないだけ。
光を当てれば闇は消える。
自覚されれば、カルマは消える。
闇とは、無意識。
カルマとは、無自覚。

人は、光。
意識は、光。
光として生きていく。






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鳥の声
2017-03-26 Sun 14:40

『鳥の声 自然のなかに こだまして 苦しみもなし 悲しみもなし』





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現実
2016-02-07 Sun 13:14
人は、結局、自分の望む現実を体験しているのだろうか。
いや、そんなことはない!
こんな現実なんか、ぜんぜん望んでいない!
と言う人もいるかもしれない。

しかし、やはり潜在意識のどこかで望んでいるのではないだろうか。
そうでなければ、このような現実があるはずがない。
確かに、表面意識では望んでいないかもしれない。
しかし・・・

潜在意識の奥では、密かに望んでいるのかもしれない。
本当は、今のような現実を体験したいのかもしれない。
それ以外に今のような現実が存在する理由がない。
望まない現実は、存在しえない。

表面意識と潜在意識は、必ずしも一致しない。
というより、異なる場合の方が多い。
すばらしい出会いもある。
しかし、出会わなければよかったと思う出会いもある。

表面意識では望んでいなくても、潜在意識では望んでいたりする。
潜在意識が望むから、望んだ通りの現実が目の前に現れる。
表面意識と潜在意識は、矛盾している。
それが、驚きや悲嘆をもたらす。

表面意識と潜在意識が融合すれば、現実に驚くことはなくなる。
なぜなら、自分の望んだ通りの現実が実現するだけだから。
表面意識が望まないことが、現実化することはなくなる。
すべては、思いのままとなる。

しかし、実際は望まない現実が出現する場合が多い。
なぜ?
どうして?
そうなるのだろうか。

潜在意識と一口に言っても、限りなく広い。
まずは、生まれてから今日までの意識。
その多くが、潜在意識となっている。
過去世の意識もある。

魂の意識もある。
グループソウルの意識もある。
そういうものが、すべて潜在意識となっている。
表面意識では気づいていない、大きな自分という存在。

そういう広い意味での潜在意識を理解するにつれて、サプライズは減っていく。
表面意識と潜在意識の乖離(かいり)が、少なくなっていく。
そうなると、自分の望むことが現実化していく。
自分自身を深く理解するまでは、現実が把握できない。

どうしてこんな現実が起きるのか。
どうして自分は、いつもこのようになるのか。
潜在意識にあるパターンが理解されない限り、同じことを繰り返すこととなる。
気がつくまで、アクシデントは起こり続ける。

人生とは、自分自身を見ているようなもの。
現実は、自分自身の写し鏡。
自分の望むものを外に現わし、それを堪能するのが宇宙の基本構造。
それは、人に限らず神もやっていること。

もし現実を変えたかったら、自分自身を理解すること。
自分自身を理解して、自分自身を変えること。
潜在意識を変えない限り、望む現実が起きてくるとは限らない。
すべては、自分自身のなかにある。

慌てることも、急ぐこともない。
人生は、自分の望む通りに展開している。
ただ、表面面意識には理解できないだけ。
もっと深く理解したかったら、自分の潜在意識を理解すること。

自分自身を深く理解して、潜在意識を変更する。
表面意識と潜在意識を融合させ、統合された自分自身となる。
そうすれば、意に反することは起きない。
望まぬ現実は、起こり得ない。

ゆっくり着実に自分自身と共に生きることだろうか。
現実から自分自身を理解することだろうか。
自分自身の気持ちを深く感じてみることだろうか。
目の前の現実をどうして望んでいるのかを・・・

深く深く感じていけば、現実は自分自身に他ならないのがわかる。
自分自身が創り出している自分自身の影。
自分の体の動きを変えれば、影もまた変わる。
現実とは、自分の影に過ぎない。

自分で自分を見ているのが、現実というもの。
自分のなかにあるものを外に写して、客観視しているだけ。
自分で自分を見ているのが、現実というドラマ。
それ以外にドラマの脚本はない。

自分の周りにあるすべての現実は、自分自身を見ているだけのこと。
それ以外の何ものでもない。
自分自身を深く理解すること。
自分のなかにすべてがある。




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何もしない
2015-11-23 Mon 09:24

『何もしない』

風邪をひいたらどうするか。
何もしない!
ただ静かに休む。
いのちに、すべて委ねる。

何もしなければ、どうなるか。
熱が出る。
頭が痛くなる。
節々も痛くなる。

何もしないでひたすら休んでいると、どうなるか。
体に溜まった老廃物が、熱によって融ける。
それが、汗によって体外に排出される。
頭の中に詰まっていたものは、頭痛によって解放される。

何もしなくても、体は自然に癒される。
いのちは、自然に本来の健全な状態に戻ろうとする。
疲れているから、風邪をひく。
風邪をひくということは、休みなさいというメッセージ。

風邪は、ゆっくり休んでいれば、何もしなくてもよくなる。
ところが・・・
これができない。
つい何かをしてしまう。

頭痛に耐えられない。
すぐに痛み止めを飲む。
熱を恐れる。
闇雲に解熱剤を入れる。

せっかく熱によって体を浄化しようとしているのを、邪魔する。
せっかく頭を調整しているのに、それをストップさせる。
薬を使えば、頭痛も熱も止む。
それだけのために、体の自然治癒力をだいなしにしてしまう。

それは、対症療法。
目先の解決。
なんら本質的な解決にはならない。
逆に解決を先延ばしにしているだけ。

解熱剤を飲めば、熱は下がる。
しかし、溜まっていた老廃物は融けない。
体内に溜まったまま。
せっかくのリフレッシュの機会を逸することになる。

頭痛薬を飲んでも、結果は同じ。
一時的に頭痛は消える。
しかし、詰まっていたものは、そのまま。
どんどん蓄積されるだけ。

頭痛は、頭に詰まっていたものをクリアーにするチャンス。
頭痛薬を飲んでしまえば、そのチャンスは消える。
解熱剤や頭痛薬は、症状を一時的に抑えるだけ。
なんら本質的な解決にはならない。

むしろ、事態を悪化させる。
よくなろうとする自然治癒力を妨げる。
そのまま経過すればスッキリするものを、途中で止めてしまう。
リフレッシュするチャンスを殺してしまう。

頭が痛い時は、頭が痛いままに。
熱が出る時は、熱が出るままに。
頭が痛くなったり熱が出るには、それなりの訳がある。
必要があってそうなっているものを、どうして人為的に止めようとするのだろうか。

それは、明らかに一時しのぎ。
その場さえ何とかなればいいというもの。
後先を考えない浅知恵。
そういう生き方をしていれば、いずれ行き詰るに決まっている。

自然に反した生き方をすれば、心身は不自然になる。
自然に反した生き方とは、自分勝手。
自然の働きを自分の都合でストップさせること。
そのような生き方をしていると・・・

健康でいることはできない。
自然は、循環とバランスで成り立っている。
それを途中で止めれば、すべてが狂ってしまう。
必要があって起きるものをストップさせれば、生体システムは混乱する。

そのようなことを続けていると、ある日、突然倒れる。
そうでなければ、アクシデントが起きる。
自分勝手に自然を乱したツケは、必ず払わされる。
自然の法則を犯せば、必然的に不自然な結果が生じる。

何もしない。
恣意的なことは、何もしない。
自然にまかせる。
体にまかせる。

目先の利益に惑わされて余計なことをするから、取り返しのつかないことになる。
苦痛を避けようとするから、更なる苦痛がやって来る。
やって来るものは、そのまま受けとめる。
自分勝手に選別しない。

自分に都合の良いものは、大歓迎。
自分に都合の悪いものは、拒絶。
それは、我がまま。
それは、反自然。

そういう生き方をしていると、どんどん自分が小さくなる。
キャパシティが、大きくならない。
来るものは、受けとめる。
去るものは、追わない。

病気であれ苦痛であれ、来るものは拒まない。
そのまま受けとめる。
受けとめて、抱きしめる。
抱きしめて、深く味わう。

病気の時は、病気のまま。
苦痛の時は、苦痛のまま。
選り好みしない。
すべてそのまま受けとめる。

何もしないとは、究極。
来るものは、拒まず。
去るものは、追わず。
それは、人に限らない。

あらゆる事象を、そのまま受けとめる。
病気も苦痛もアクシデントも。
天変地異さえ、そのまま受けとめる。
全宇宙を、そのまま受けとめる。

自分に起きることは、自分自身の投影。
自分自身が、引き起こしていること。
にもかかわらず、なぜ選り好みするのだろうか。
避けようとすれば、更に追いかけてくるものを・・・

それは、了見の狭い自我のなせる業(わざ)。
目先の利益だけに目がくらんだ自我の浅知恵。
物質に翻弄され、本質を忘却した自我の暴走。
表層で生きる自我の薄っぺらい人生。

もっとグランディングして生きないと。
しっかり地球に根ざして生きないと。
自然と共に自分の本質を生きないと。
表面だけを取り繕って、何のための人生だろうか。

風邪の時は、何もしない。
ただ静かに風邪と一緒にいる。
そうすれば、風邪は心身を浄化してくれる。
台風一過のさわやかさを体験させてくれる。

自然と共に生きる。
自然のリズムと共に生きる。
自我の選り好みをしないで生きる。
すべてを受けとめ、すべてと共に生きる。

『選り好み しないですべて 受けとめて 自然と共に 生きるしかない』




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心配
2015-10-21 Wed 12:23
心配とは、我が儘。
自分の望まない現実が起きることを恐れる心。
逆に言えば、自分の望む通りになってほしい心。
それ以外は認めない心。

人のことを心配する?
実は・・・
自分のことを心配しているだけ。
自分にとって都合の悪いことを避けたいだけ。

心配とは、エゴ。
エゴが、嫌な現実から逃げているだけ。
思いやりという美名の下、自分の思うようにしたいだけ。
望まない現実を拒絶しているだけ。

心配とは、事実を認めたくない心。
現実を思うようにコントロールしたい心。
自分の砦が崩れることを拒んでいるだけ。
しっかり自分の中に囲い込んでいたいだけ。

事実ベースで生きれば、心配はない。
ただ事実と共に生きるだけ。
どのような事実であれ、黙って受け入れる。
事実に即して生きるだけ。

心配は、事実を受け入れない。
自分の望まない現実を拒否する。
だから、心配する。
現実を望むように支配したいから・・・

どんな事実であれ、事実と共に生きる。
どんな現実であれ、そのまま直視する。
そうやって生きるしかない。
他に真実の道はない。

心配には、宇宙への信頼が欠如している。
小さな自我で、善し悪しを判断している。
自分のこれまでの経験に照らして決めつけている。
自分の価値観で、受け入れるかどうかを選択している。

全面的に受け入れようとはしない。
自分にとって都合の良いものだけを受け入れようとする。
都合の悪いものは拒絶する。
それこそが心配=自我の本質。

心配とは、エゴ。
自分を守りたいエゴの為せる技。
すべてを受け入れようとしない自分勝手。
自己中心的な我が儘。

しかし、心配している限り、心のやすらぎはない。
すべてを受け入れない限り、心が安定することはない。
心配している限りは、心は常に動揺している。
心配とは、心ここにあらずということ。

心配すれば、心は彷徨い、不安定になる。
自分自身へのグランディングはないに等しい。
意識が外に向くから、心配が起きる。
内に向けば、心配はない。

しっかりと自分自身を生きる。
自分自身の深さを生きる。
深い意識に心配はない。
深い意識にあるのは、信頼。

意識が深まれば深まるほど、心は安定する。
心配とは、波立つ表面の心。
自分の思うように支配したい心。
都合の悪いことを拒絶する心。

自分本位に選択していると、自分の望まない現実に出会った時に苦しむことになる。
すべてを受け入れない限り、苦しみから逃れることはできない。
自我とは、選択。
非自我とは、無選択。

心配したければ、心配してもいい。
でも、心配すればするほど、エネルギーは消耗する。
しょうも(う)ないことをやるから、消耗する?
ハイ、しょうもないギャグ。

心配とは、事実に反した行為。
現実に抵抗しているので、エネルギーはどんどん消耗していく。
事実に即して生きないと、抵抗や摩擦でエネルギーが消えてしまう。
それをやっている限り、自分自身を創造的に表現することはできない。

避けようとしているものは、何か。
守ろうとしているものは、何か。
自分の心配を見つめ、心配の本質を理解する。
自分がしっかり掴んでいるものは何だろう・・・?

自覚しない限り、心配に翻弄され、心配の虜となる。
心配の本質をわからなければ、自我のまま苦しむことになる。
避けることも守ることも苦しみの道。
ただ事実と共に生きるしかない。

いのちの限り、ただ事実と共に生きていく。
現実を支配しようとすれば、苦しみが待っている。
すべてを受け入れ、すべてを認めない限り、抵抗と摩擦で消耗してしまう。
事実と共に生きるのが最も楽な生き方。

どんな事実も、ありのまま受けとめる。
どんな事実も、拒否しない。
すべてを受け入れる時、人は愛に包まれる。
なぜなら、すべてを受け入れることが、愛だから。

愛は、すべてをありのまま受け入れる。
愛は、すべてをそのまま認める。
好きも嫌いもない。
ただただ、すべてをあたたかく包み込んでいるだけ。

無条件にすべてを受け入れる時、心配はない。
無条件にすべてを包み込む時、不安も恐れもない。
ただ限りない愛が降り注いでいるだけ。
まるで春の陽射しのように、あたたかいものに包まれているだけ。


『ありのまま 受け入れる時 心配は 消えて心は やすらぎのなか』




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